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消えた婚約指輪

【前書き】


はじめまして。


『深夜喫茶ヨロの推理録』をお読みいただき、ありがとうございます。


この作品は、派手な殺人事件や超人的な名探偵が活躍する物語ではありません。


深夜の喫茶店を訪れる人々が抱える、小さな謎や秘密、そして誰にも言えなかった想いを描く連作短編ミステリーです。


舞台となる「深夜喫茶ヨロ」は、夜更かしをした人、眠れない人、人生に迷った人がふらりと立ち寄る場所。


そこで起きる出来事を、探偵・黒瀬怜司が解き明かしていきます。

人間模様や感情も楽しんでいただけたら嬉しいです。


どうぞ、珈琲でも片手に、深夜のヨロへお越しください。


それでは第一話、『消えた婚約指輪』をお楽しみください。



 深夜零時を回ると、喫茶ヨロは少しだけ世界から切り離される。


 駅前通りから一本外れた古い路地。


 控えめな灯りをともすその店には、悩みを抱えた人間が集まり、そして黒瀬怜司は、その中に紛れた嘘を見つけ出す。


 少なくとも私は、そう信じている。


 六月の終わり。


 その夜も私は店の隅で原稿を書いていた。


 向かいには黒瀬。


 湯気の立つコーヒーを前に、退屈そうに窓の外を眺めている。


「先生」


 黒瀬が言った。


「人間は嘘をつく時より、真実を隠す時の方が不自然になります」


「突然だな」


「観察の話です」


「探偵らしい」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 私は肩をすくめた。


 その時だった。


 店の奥から険悪な声が聞こえてきた。


「だから違うって言ってるでしょ」


 若い女性の声だった。


「じゃあどこへ行ったんだよ」


 こちらは男性。


 私は何気なく視線を向けた。


 三人組の客がいた。


 二十代後半くらいの男女と、もう一人の女性。


 どうやら婚約者同士と、その友人らしい。


 しかし空気は最悪だった。


 男は苛立ち。


 女性は困惑し。


 友人らしき女性は黙ったまま二人を見ている。


「痴話喧嘩ですかね」


 私は言った。


 だが黒瀬は首を振った。


「違います」


「なぜ分かる?」


「男は怒っていますが、女性は怯えています」


 その瞬間。


 女性が突然立ち上がった。


「ない……」


 青ざめた顔で左手を見ている。


「指輪がない……!」


 店内の空気が凍りついた。


 男も立ち上がる。


「何だって?」


「さっきまであったの!」


 女性は左手の薬指を見せた。


 確かに指輪はない。


 だが指輪を着けていた跡だけが白く残っていた。


 マスターも驚いた顔で近づく。


「落としたんじゃないですか?」


「違います」


 女性は首を振った。


「絶対に違うんです」


「探してみましょう」


 私は席を立った。


 床。


 椅子の下。


 テーブル周辺。


 しかしどこにもない。


 まるで消えてしまったようだった。


 男が舌打ちする。


「冗談じゃないぞ。あれ三十万したんだぞ」


 その言葉を聞いた瞬間。


 黒瀬の眉がわずかに動いた。


 だが何も言わない。


 代わりに女性へ尋ねる。


「お名前を」


「美咲です」


「そちらは?」


「婚約者の拓也」


「友人の沙織です」


 黒瀬は頷いた。


「状況を教えてください」


 美咲は答える。


「店に来た時にはありました」


「席は?」


「立っていません」


「お二人は?」


「俺も立ってない」


「私もです」


 完全な行き詰まりだった。


 三人とも席を立っていない。


 他に客もいない。


 店の出入口も一つ。


 盗むことなど不可能だ。


 しかし指輪は消えている。


 黒瀬はしばらく黙った。


 それから美咲へ言う。


「盗まれたんですね?」


 すると美咲は少し考えてから答えた。


「……盗まれたというか」


 一瞬の沈黙。


「消えたんです」


 黒瀬は静かに笑った。


 私はその意味が分からなかった。


 それから数分。


 黒瀬は店内を観察していた。


 誰も気づかなかったことを見ながら。


 美咲の前の紅茶。


 そのカップだけが一口も減っていないことを。


 沙織が何度もそのカップへ視線を送っていることを。


 そして拓也が美咲ではなく、指輪の値段ばかり気にしていることを。


 やがて黒瀬は立ち上がった。


「分かりました」


 全員が顔を上げる。


「この事件は解決です」


「本当か?」


 拓也が言う。


「もちろん」


 黒瀬は紅茶のカップを指差した。


「指輪は最初、その中にありました」


 沈黙。


 美咲が目を見開く。


 沙織は顔を伏せた。


「やはり」


 黒瀬は言った。


「美咲さん。あなたが入れたんですね」


 長い沈黙の後。


 美咲は観念したように頷いた。


「……はい」


「なぜです?」


 黒瀬の問いに、美咲は震える声で答えた。


「試したかったんです」


 拓也を見る。


「私が困った時、この人が何を心配するのか」


 拓也は黙った。


「指輪をなくしたって聞いて最初に言った言葉、覚えてる?」


 返事はない。


「値段だった」


 静かな声だった。


「私じゃなくて」


 店内が静まり返る。


 その時。


 沙織がハンカチを取り出した。


 中から銀色の指輪が転がる。


「私が取った」


 拓也が叫ぶ。


「やっぱりお前が!」


「違う」


 沙織は冷たく言った。


「守ったの」


 そして続ける。


「この人が結婚して後悔しないように」


 誰も何も言えなかった。


 黒瀬だけがコーヒーを飲む。


「事件は終わりです」


 私は首を傾げた。


「本当に?」


「ええ」


「犯人はいないじゃないか」


 黒瀬は静かに笑った。


「いますよ」


「誰だ?」


 彼は答えた。


「消えたのは指輪ではありません」


 そして美咲を見る。


 彼女は小さく笑った。


 涙がこぼれそうな顔だった。


「そうですね」


 一拍。


 そして彼女は言った。


「ずっと前から消えていたのは――私の愛情だったんです」

あとがき


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


『深夜喫茶ヨロの推理録Ⅰ 消えた婚約指輪』はいかがだったでしょうか。


今回は「誰が盗んだのか?」という謎ではなく、「本当に消えたものは何だったのか?」というテーマで書いてみました。


推理小説では犯人やトリックに目が向きがちですが、人の心もまた見えない謎の一つだと思っています。


黒瀬が解いたのは指輪の行方でしたが、美咲自身が見つけた答えは別のところにありました。


喫茶ヨロは、少し変わった人々が夜な夜な集まる店です。


これからも黒瀬怜司と語り手の「私」は、珈琲を飲みながら様々な謎と出会うことになります。


もし楽しんでいただけたなら、


・ブックマーク

・評価

・感想


をいただけると、とても励みになります。


次回は


『深夜喫茶ヨロの推理録Ⅱ 死者から届いた手紙』


を予定しています。


果たして本当に死者は手紙を書いたのか。


そして黒瀬は、その嘘を見抜けるのか。


それではまた、深夜の喫茶ヨロでお会いしましょう。


ありがとうございました。

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