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第一章:「霧の果て」

 第一章:「霧の果て」


 深い霧のなか、ロンドンの街灯を背に走っていたはずの二頭立て馬車は、御者の悲鳴とともに闇へと消えた。凄まじい衝撃。だが、次にシャーロック・ホームズが意識を取り戻したとき、鼻腔を突いたのは馬の汗や泥炭の煙ではなく、驚くほど清涼な、そしてわずかに硫黄の匂いが混じる空気だった。

「……ワトソン? 御者君?」

 呼びかけに応える声はない。ホームズは身を起こし、煤一つないインバネスコートの土を払った。崖から転落したはずだが、周囲に馬車の破片も、ましてや愛すべき相棒の姿もない。ホームズは即座に膝をつき、地面を観察した。

「ふむ。この足元の植物……アジサイにスギか。ロンドンでも見かけないことはないが、この植生、そして湿度は極東の島国……日本に近い。だが、先刻まで我々はベーカー街に向かっていたはずだ」

 彼は顔を上げ、近くを通るアスファルトの道に目を留めた。そこを、音もなく滑るように走る鉄の箱が通り過ぎる。

「驚いたな。蒸気機関ではない。馬もいない。あれほど静かに、かつ高速で移動する物体を私は知らない。ワトソンが見れば腰を抜かすだろう」

 道沿いに視線を向けると、歩道には奇妙な格好をした人々がいた。彼らはみな一様に、掌に収まる小さな光る板を凝視し、熱心に指で撫でている。

「なるほど。あの板には人間を催眠状態にする何かがあるのか? あるいは、あれこそがこの世界の『知恵の断片』を共有するための儀式用具か。実に見事な集中力だ。爆弾が落ちても気づくまい」

 ホームズはさらに観察を続ける。看板に並ぶ漢字、そして人々の服装。

「服装の裁断は合理的だが、情緒に欠けるな。しかし、あの看板の文字、そして人々の顔立ち……やはりここは日本だ。それも、私の知る明治の日本ではない。大気中の石炭汚染がこれほどまでになく、人々の持ち物がこれほどまでに洗練されている。……どうやら私は、とんでもなく『先』の時代へ放り出されたらしい」

 ホームズがこの「新世界」の分析を楽しんでいると、不意に、派手な赤い光を放つ奇妙な車両が停まった。中から降りてきたのは、濃紺の制服に身を包んだ二人組の男だった。

「……君、ここで何をしているんだ? コスプレか何かか?」  

 一人の警官が英語で問いかけてきた。

 ホームズの瞳が輝く。彼は抵抗するどころか、警官の腰に下げられたポリカーボネート製の警棒や、複雑な形状のホルスターを食い入るように見つめた。

「おや、日本のポリスか! 実に機能的な装備だ。その制服の生地、防水性と耐久性に優れているようだね。これならロンドンの雨も苦にならないだろう。……ああ、申し訳ない。私はシャーロック・ホームズ。身分証? あいにく、私の時代のポンド紙幣や女王陛下の名刺は、君たちの言う『身分証明』には役に立ちそうにないな」

「どこへでも連れて行ってくれたまえ。この『未来』という巨大な実験場を、じっくりと検分したいと思っていたところだ」

 同じ頃、箱根の別の地点……芦ノ湖のほとりで、同じように警察に保護された男がいた。

「ホームズ! ホームズはどこだ! 私は医師のジョン・H・ワトソンだ! 署長を呼んでくれ、これは何かの間違いだ!」


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