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第3話 少女と子犬

地下倉庫の冷たい空気が、彼女の言葉とともに凍りついた。


「私の名は、マリーナ・リーミャ。この世界の『均衡』を管理する者の代行者よ」


マリーナと名乗った少女は、表情一つ変えずに歩み寄る。彼女の視線は、俺の足元に丸まっている「共存」したばかりの小さな生物を一度だけ捉え、それから俺の右手の刻印へと移った。


「水月正紘。あなたが手にした力は、本来この次元に属するものではないわ。それを使いこなす知恵と、真実を知る権利……。それを私たちと一緒に、こちら側の世界で共有しない?」

「こちら側の世界……?」


俺が問い返すと、マリーナは薄く微笑んだ。


「800年前、魔術という名の『毒』でこの国が手に入れた偽りの平和。その対価を払う時が来たのよ。あなたは、消えゆく旧世界の犠牲者になる必要はない。私たち『管理層マネジメント』の仲間になりなさい」


マリーナの手が、誘うように差し出される。


「お、おい正紘! 騙されるなよ!」


凪が解析デバイスを盾にするように一歩前に出た。


「代行者だか管理層だか知らないが、こいつらは魔物が出現している現状を知っていて、高みの見物をしている連中だぞ!」


凪の指摘に、マリーナの瞳に冷徹な光が宿る。


「高みの見物? 違うわ。私たちは『剪定せんてい』しているだけ。不必要な魔力を喰らい、世界を正常な形に戻すためにね。水月、あなたの【共存の技術】は、そのプロセスを劇的に早めることができる……。私たちと共に来れば、その右手の摩耗を止め、永遠の存在になる術も与えましょう」


甘い誘惑。だが、その言葉の裏には「不要なものは切り捨てる」という冷たい選別が透けて見えた。

俺は足元でクゥと鳴く小さな相棒を見つめ、それからマリーナを真っ直ぐに見据えた。


「仲間になれば……この国の人々や、凪はどうなる?」


マリーナは一瞬の間を置き、残酷なほど穏やかに告げた。


「適性のない『不純物』は、すべて元通り『無』に還るだけよ。それが宇宙の正しいことわりだわ」


マリーナの冷徹な宣告が地下倉庫に響き渡り、空気が張り詰めたその時――。

地響きと共に、倉庫のコンクリート壁が内側から爆ぜた。


「なっ……!?」


凪が悲鳴を上げ、後方に飛び退く。

煙の中から現れたのは、先ほどまで俺たちが相手にしていた個体とは比較にならない巨体を持つ、三つの頭を持つ大蛇のような魔物だった。その全身からは、周囲の物質を腐食させるほど濃密な「負の魔力」が溢れ出している。


「……チッ、予定より早いわね。『掃除屋』がもうここまで嗅ぎつけてくるとは」


マリーナは忌々しげに舌打ちをし、差し出していた手を引っ込めた。彼女は俺を一瞥もせず、背後の階段へと軽やかな足取りで戻っていく。


「マリーナ! 逃げるのか!」

「逃げる? 違うわ。今のあなたに、私たちの仲間になる資格があるかどうかを見極めさせてもらうだけ。……その魔物を『共存』させるなり、あるいは食い殺されるなり、好きになさい。生き残ったら、また会いましょう」


彼女の姿は、闇に溶けるようにして消えた。


「正紘! 来るぞ!!」


凪の叫びと同時に、三頭の大蛇が咆哮を上げ、同時に襲いかかってきた。

地下倉庫という閉鎖空間では、逃げ場はない。しかも、マリーナが言っていた『掃除屋』という言葉が引っかかる。こいつはただの魔物じゃない、組織が送り込んだ刺客のようなものだ。

俺は右手の革手袋を投げ捨て、先ほど手に入れたばかりの「感覚」を呼び起こす。


「凪、援護を頼む! こいつはデカすぎて、さっきのやり方じゃ時間が足りない。もっと広範囲に、一気に書き換える必要がある!」

「分かった! 最大出力で妨害電磁魔導を展開する! 三十秒だけ隙を作ってやる、一気に決めろよ!」


俺の足元では、先ほど共存させた小さな黒い相棒が、威嚇するように喉を鳴らしていた。

巨大な三頭の大蛇が放つ、腐食の波動が地下倉庫の壁をドロドロに溶かしていく。その圧倒的な圧力を前に、俺の右手の刻印がかつてないほど激しく明滅し始めた。


「ぐ、あぁ……っ!」


右腕の芯から突き上げるような激痛。それは、魔物を消し去る時とは比較にならないほどの負荷だった。対象を「無」にするのが破壊なら、「共存」させることは、荒れ狂う嵐を力ずくで静めるようなものだ。


「正紘! 無理だ、出力が上がりすぎてる! このままだとお前の腕が……いや、お前自身が消えるぞ!」


凪の悲鳴のような叫びが聞こえる。デバイスの警告音は、もはや単一の電子音となって鳴り響いていた。

視界が急速に白んでいく。指先の感覚はすでに消え、肩のあたりまで氷のような冷たさが這い上がってきていた。天の声が言っていた「呪い」の意味を、俺は今、最悪の形で理解していた。力を引き出せば引き出すほど、俺という存在の境界線が「零」に近づいていく。


「はぁ、はぁ……まだだ……!」


大蛇の三つの首が同時に大きく口を開け、紫色の腐食ブレスを放とうとしたその時。

俺の足元にいた、あの小さな「共存個体」が動いた。

そいつは俺の足元を離れ、巨大な魔物の前へと躍り出ると、小さな体からは想像もつかないほど澄んだ、鈴の鳴るような声を上げたのだ。

その声に呼応するように、俺の右手の刻印が「黒」から「深淵のような蒼」へと色を変えた。


「……これ、は……」


摩耗して遠のきかけていた意識が、その蒼い光によって無理やり引き戻される。

小さな相棒が、俺の「零の理」の一部を肩代わりしてくれているのが分かった。俺一人では耐えきれない負荷を、この「共存した存在」が分散してくれている。


「凪……今だ!!」


俺は残った全ての意識を右手に叩きつけた。

消し去るのではない。この巨大な破壊の権化を、こちらの世界の秩序へ。


「【零・大調和グランド・ハーモナイズ】!!」


倉庫全体が蒼い閃光に包まれた。

大蛇の三つの首が苦悶に歪み、その巨体が光の粒子となって分解されていく。腐食の異臭は消え、代わりに、春の雨上がりのような清涼な空気が地下倉庫を満たした。

光が収まった時、そこには――。

巨大な魔物の姿はなく、ただ床の上に、透き通った三つの小さな石が転がっていた。


「……ふぅ、……っ」


俺はその場に膝をついた。右腕はまだ感覚が戻らず、だらりと垂れ下がったままだ。

タカシが慌てて駆け寄ってくる。


「正紘! 生きてるか!? おい、これを見ろよ……」


凪が指し示したのは、俺の腕だった。

黒い刻印は消えてはいない。だが、その周囲に、まるで神経のように細く繊細な「蒼い筋」が幾本も走っていた。


「……助かったんだな。あいつに」


俺は足元に戻ってきた小さな相棒を、震える左手で撫でた。

俺たちは生き残った。マリーナの言う「管理層」のテストを、最悪の形でクリアしてしまったのだ。


「正紘……あの文献、もっと詳しく読み込む必要がありそうだ。『共存』には、俺たちが思ってる以上のリスクと、そして……相棒が必要なんだな」


凪の言葉を裏付けるように、俺が持ってきた5冊の本のうち、一冊が不気味に、しかし確かな光を放ち始めていた。

地下倉庫の冷たい床に座り込んだまま、俺は荒い息を吐き続けていた。

蒼い筋が走った右腕は、自分の体ではないように冷え切り、指一本動かすことさえままならない。


「……正紘、大丈夫か? 顔色が死人みたいだぞ」


凪が心配そうに覗き込んでくる。俺はなんとか頷こうとしたが、視界がぐらりと揺れた。

その時、地下倉庫の外から鋭いサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。


「――っ、魔導局だ! さっきの大蛇が放った腐食波動の残滓を嗅ぎつけやがったんだ!」


凪が慌ててモニターを操作し、隠蔽魔導を最大出力に引き上げる。


「正紘、悪いがもう一度だけ【零】の力で入口の魔力痕跡を消してくれ! このままだとガサ入れを喰らう!」


俺は奥歯を噛み締め、感覚のない右腕を無理やり持ち上げた。

消し去るだけの【虚絶】でいい。ほんのわずかな出力を出すだけで、この状況を切り抜けられるはずだ。

(……消えろ……!)

脳裏で強く念じ、刻印に意識を叩きつける。

だが、右手の黒い紋様は沈黙したまま、ただ冷たく、重く、沈んでいるだけだった。


「……出ない。……おい、嘘だろ」


何度試しても、あの「零」の感覚が降りてこない。魔力が枯渇したのとは違う。まるで、深い眠りについた機械を叩いているような、絶対的な拒絶感。


「どうした正紘! 早くしろ!」

「……無理だ。凪、力が……全く反応しない」


俺は自分の右手を凝視した。

蒼い筋が脈打つごとに、俺の精神と力が物理的に切り離されているような感覚がある。

(……そうか、これか)

あの文献の隅に書かれていた、不吉な一節が脳裏をよぎる。

『理を上書きする負荷は、器の魂を摩耗させる。一度その限界を超えれば、刻印は沈黙し、再び「零」を刻むには太陽が巡るだけの休息を必要とする』


「……一日に、使える限界があるんだ。さっきの【大調和】で、今日の分を使い果たしちまった……」


俺は力なく腕を落とした。

世界最強の力、万物を消し去る権能。だがそれは、決して万能の魔法などではなかった。一日にわずかな回数、自分の命を削りながら振るうことしか許されない「制限付きの刃」。


「クールタイムかよ……。皮肉なもんだな。最強の武器が、一番必要な時に使い物にならないなんて」


凪は苦笑いしながらも、素早く化学物質を撒いて魔力の臭いを消す「物理的」な隠蔽に切り替えた。

サイレンの音は倉庫のすぐ近くで止まり、数分間の沈黙の後、やがて遠ざかっていった。

首の皮一枚で繋がった。だが、俺はこの時、冷や汗とともに痛感していた。

マリーナという脅威、そして次々と現れる魔物たち。

一日に数回しか抜けないこの刀で、俺はこれからどうやってこの国を、凪を、そして自分自身を守っていけばいいのか。

右手の刻印は、ただ冷たく、俺の肌に張り付いていた。

死闘から一夜明け、俺と凪は心身ともに限界に近い状態で登校した。しかし、日常が俺たちを休ませてくれるはずもなかった。

放課後、人目を避けるようにして地下倉庫の片付けに向かおうとした俺たちの前に、黒塗りの高級車が数台、校門を塞ぐようにして停まった。


「……マリーナの関係者か?」


凪が身構える。だが、車から降りてきたのは、マリーナのような浮世離れした雰囲気の者たちではなかった。

彼らは、胸元に日本の国章を象った「防衛魔導局」のバッジを付けていた。


「水月正紘くん、および、凪くんですね」


先頭に立つ、眼鏡をかけた冷徹そうな男が、俺たちの前で足を止めた。彼の背後には、訓練校の教官たちをも凌ぐ威圧感を持った武装魔導官たちが控えている。


「昨夜、市内の地下倉庫付近で未登録の極大魔導、および空間の特異反応が観測されました。当局の調査によれば、君たちがその中心にいた疑いがある」


俺は右手の革手袋を無意識に握りしめた。凪の顔からは血の気が引いている。


「……何のことだか分かりません。俺たちはただ、放課後に遊んでいただけだ」


俺は冷静を装って答えたが、男は動じなかった。


「とぼけても無駄だ。君たちが運び込んだ『異形』の反応も、我々の探知網にはかかっている。800年前の平和が揺らいでいる今、国は『未知の力』を野放しにする余裕はない」


男が合図を出すと、武装魔導官たちがじりじりと距離を詰めてくる。


「君たちを『重要参考人』として、防衛魔導局本部へ同行願う。抵抗は無意味だ。……それとも、あそこで見せた『消滅の力』を、我々にも向けるつもりかな?」


バレている。昨日の『掃除屋』との戦い、あるいは最初の校庭での一件から、彼らは俺をマークしていたのだ。


「待てよ! 俺たちは別に悪いことをしたわけじゃ……!」


凪が抗議しようとしたその時、俺のポケットの中にある「三つの石」が、微かに熱を帯びた。

(……来るな。あいつだ)

直後、校門の影から、あの白いコートの少女――マリーナ・リーミャが、まるで散歩でもしているかのような軽やかな足取りで現れた。


「あら。国家の犬たちが、私の『獲物』に手を出そうとしているのかしら?」


防衛魔導局の男の顔が、初めて険しく歪んだ。


「……マリーナ・リーミャ。なぜ貴様がここにいる」

「彼らはすでに私のテストに合格したわ。日本の法律なんていう狭い価値観で、彼らの可能性を縛らないでもらえる?」


国家機関である「防衛魔導局」と、謎の組織「管理層」の代行者。

俺と凪を挟んで、この国の表と裏が、最悪の形で衝突しようとしていた。

俺は、ポケットの中の石を握りしめ、自分に言い聞かせた。

(……共存の力、試すのは魔物相手だけじゃなさそうだな)

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