エンジェルゼリー
カノンの網膜には、凄まじい量のレベルアップの通知。
乱陀からの『EXP・ギフト』で受け取った経験値により、レベル65に達する。
カノンは、ブーツに付与された高速移動の術式を展開し、珊瑚礁の合間の壁を蹴り、極彩色の奈落の中を飛び回る。
カノンに襲い掛かる、何体もの肉食の巨大魚。
カノンは、宙を舞いながら、9mm雷撃弾を魚たちに撃ち込んだ。
空気中に放電をしながら、焦げて行く魚たち。
そして、カノンよりも遥かに速いスピードで、突風のようにダンジョンを駆け巡り、数十匹の魚の群れを、次々と呪いで爆裂させる人影がいた。
カース・ギフトを発動させた乱陀だ。
山嵐迅は、髪の毛を炎に変えて、両手から火炎を放っていた。
数十の強力なモンスターを、一人で瞬く間に消し飛ばす乱陀を見て、苦笑い。
(あ~、あれがレベル138の男かぁ。マジで次元が違うな)
乱陀は今、経験値の一部をカノンに渡し、レベル120まで下がっていた。
だがそれでも、この場で圧倒的に最強なのは、誰の目から見ても間違いなく、乱陀であった。
冒険者たちは、結界の床の上で、円形の隊列で魚たちを迎え討っていた。
円の外側は、バトルジャンキーズや迅などの、攻撃部隊。
円の内側は、結界役や回復役などの、サポート部隊。
ブラッドラストが、魚から魚へと、飛び移っては、ハンマーで撲殺している。
浮力の発生しているダンジョン内では、魚の死骸や、飛び散った血も、ふわふわと浮いていた。
エドワードが、結界のエレベーターに手を触れ、それを維持しながら、戦況を分析する。
(今ので、およそ百匹ほど片付けた感じですね。
乱陀さんが三分の二は持って行きましたけど)
結界で出来た透明な床の、さらに下を見つめる、一つ目。
先ほどは、あんなに遠かったクラゲの半透明な笠も、かなり近づいてきている。
クラゲは、胴体に触手の束を巻きつけて、最下層に漂っている。
エドワードの懸念。
それは、ダンジョンのランクに合っていなかった、巨大なホオジロザメの存在。
あれはどう考えても、最高難易度であるランク5に生息するレベルの強敵。
本当に、このダンジョンは、ランク4なのか。
もしそうだとすれば、ボスと思われる大クラゲは、ホオジロザメよりも弱いのだろうか。
ただ、ふわふわと漂っているだけの大きなクラゲ。
モンスターを見た目で判断するのは禁物だが、それでも、ホオジロザメの方が遥かに危険だと思ってしまう。
すると、エドワードの大きな瞳に映る、クラゲの情報。
先ほどまでは、鑑定眼の射程外だったため、ステータスが見えなかった。
それがようやく、射程内に入ったのだ。
ボスモンスター:エンジェルゼリー
レベル:???
「……は?」
レベルが、見えない。
今の世界を形作っている、リアルRPGである『ワイルドハント・ワールド』では、ラスボスだろうが、レベルは鑑定眼で見ることができた。
レベルを隠蔽するモンスターなど、聞いたことが無い。
ここに来て、ボスモンスターのクラゲ、エンジェルゼリーに、初めて動きがあった。
エンジェルゼリーは、自身の胴体に巻き付けていた、触手の束を解き始める。
左右に開かれてゆく、触手の束。
触手の束で隠されていた、胴体部分。
そこには、半透明の人間の女性が、クラゲと融合していた。
いや、きっとあの人間の形をした部分が、エンジェルゼリーの本体だろう。
触手は、その女性の背中に当たる部分から生えている。
広がり切った触手は、まるで半透明な長大な翼のようだった。
クラゲの笠の部分に、光の環が浮かぶ。
見た目だけで言えば、半透明の天使。
心臓部分に、丸く青い結晶が見えていた。
天使が微笑み、右手を上げる。
背中から生えた触手の内の一本が、エドワードの結界で作ったエレベーターに向かう。
エンジェルゼリーのステータス隠蔽は、本体に巻き付いていた触手が、鑑定眼のスキルを遮断していたことが原因だったようだ。
巻き付いていた触手の束が解かれた今、情報が開示される。
エドワードの一つ目に映るのは、エンジェルゼリーのステータス。
エンジェルゼリー
レベル……
「逃げてくださいっ!」
エドワードが叫ぶ。
いつも冷静な彼らしくない、焦った声で。
だが、ここにいる全員は、百戦錬磨の強者たち。
その一言だけで、状況を理解し、結界のエレベーターの上から脱出する。
浮力の働く空間を泳ぎ、エドワードの結界から離れる冒険者。
冒険者たち全員が退避し、後は、結界の上のエドワードが逃げるだけ。
だが、エドワードが結界から離れる直前、エンジェルゼリーの触手が、結界のエレベーターの底を、そっと撫でる。
異常は、その場所から発生した。
エンジェルゼリーの触手が触れた所が、紫色に変色し、染料を水に落としたかのように、広がる。
エドワードは、結界に触れていた手を、咄嗟に離す。
エドワードが結界から手を離したことにより、MPの供給が無くなり、消え去る結界の床。
だが、変色のスピードは恐ろしく速く、既にエドワードの右手の指先には、濃い紫が侵食していた。
それは、魔法やスキルをも破壊し、体内の血液を棘に変える、恐るべき猛毒。
指が紫に侵され、流れる血液が棘となり、激痛で泣き叫ぶエドワード。
「うああああっ!」
右手の指先から、凄まじいスピードで、右手を侵食して行く、紫色。
毛細血管に至るまで、血を棘に変えて、進む。
その紫色は、指の根元まで達し、手首までも浸食し、やがて肘へと……。
そこに疾風の速度で現れた乱陀が、エドワードの右手を、カース・ギフトで肘の部分から切断する。
「……ぁっ!」
あまりの激痛に、声も出せないエドワード。
しかし、肘から先への浸食は防げたようだ。
斬り飛ばしたエドワードの右手を見ると、完全に紫色に変色したあと、腐食してボロボロに朽ち果てていくのが見えた。
「……毒か」
乱陀は呟くと、エドワードにライフ・ギフトをかける。
乱陀にしか見えない、赤い矢印が、乱陀からエドワードへと流れる。
HPが回復し、右手も徐々に再生するエドワード。
右腕はまだ再生している途中で、激痛が残っているにも関わらず、エドワードは大声でみんなに告げた。
「みんな!このダンジョンはランク4なんかじゃない!
ボスモンスターが触手でレベルを隠蔽してたから、ダンジョンの正しいランクが鑑定眼でも分からなかったんだ!
でも、今はもう、はっきりと見える!」
身体に巻き付いていた触手の束を、解放したエンジェルゼリー。
今なら、ステータスが見える。
エドワードの大きな一つ目に、エンジェルゼリーの姿が映る。
エンジェルゼリー
レベル120
エドワードは叫ぶ。
「ここは、ランク6だ!」
エンジェルゼリーの、翼状の触手が、うねりながら四方八方に伸びる。
冒険者の魔法使いたちが、一斉に氷の矢を放つ。
だが、氷は触手に触れた途端、紫色に変色して、朽ち果てて行った。
「くそっ!魔法やスキルまで殺す毒かよ!」
冒険者たちは歯噛みする。
鑑定眼が効かなかったのも、触手の毒でスキルを破壊されていたからだろう。
そのまま直進してくる触手。
全員が散らばって、それを躱す。
あの触手は、見た目よりもずっと速い。
冒険者たちは、触手に触れないように逃げるだけで精一杯であった。
だが、猛烈な速度で、エンジェルゼリーへと向かう人影が、ひとつ。
機械化した肉体の、両腕と右脚。
その腕で振り上げるのは、ジェット推進機能により、瞬時に音速まで加速できるハンマー。
冒険者クラン、バトルジャンキーズ代表、ブラッドラストだ。
ブラッドラストは、ハンマーに付いているトリガーを引き、ハンマーの後部からジェットの火炎を噴き出す。
その瞬間、ハンマーのスイングスピードは音の速さを超えて、衝撃波を巻き起こし、エンジェルゼリーの笠の部分を殴りつけた。
柔らかいクラゲの肉体は、ある程度の衝撃は無効化する。
しかし、ブラッドラストの強烈な攻撃は、流石に全ては受け流しきれなかったようで、エンジェルゼリーの笠の一部が、裂けて砕けた。
ブラッドラストは、ハンマーの側面から、空になった燃料カートリッジを射出し、新しいカートリッジと入れ替え、その場の全員に告げる。
「皆さん!攻撃するなら本体の方です!触手を攻撃しても、こちらが武器を毒で壊されるだけです!」
ブラッドラストが、ハンマーのジェット推進で高速移動し、エンジェルゼリーの触手を躱しながら、クラゲの胴体を殴り飛ばす。
迅が、髪の毛を炎に変えて、全身から火を噴き、エンジェルゼリーの周囲を飛び回っていた。
「んなこと言ってもよぉ!この触手が速えんだよ!」
迅は、空中で両手を振り、炎の膜を放つ。
だが、その炎すら、触手に触れると紫色に変色し、消失する。
「魔法にも有効な毒とか、聞いた事ねえぞ!」
迅のすぐ横では、数名の冒険者たちが、触手に触れられ、全身を紫色に染め、激痛の中で死亡する。
乱陀とカノンは、高速移動でエンジェルゼリーの周囲を跳び回り、クラゲ本体を攻撃していた。
乱陀はカース・ギフトで何度も切断や爆裂を食らわせ、クラゲの身体を削っている。
エンジェルゼリーは魔法耐性が相当強いようで、巨大なホオジロザメすら一撃で斬り裂いたカース・ギフトですら、肉体を削る程度しか効果が無かった。
だが、乱陀は諦めない。
諦めた時は、死ぬ時だからだ。
少しずつ。
少しずつだが、エンジェルゼリーのHPは削られている。
カノンも9mm雷撃弾を撃ち込む。
それほどダメージにはなっていないが、電撃により動きが鈍くなるエンジェルゼリー。
カノンが牽制し、乱陀が攻撃する。
エンジェルゼリーが、金切り声を上げ、乱陀へと無数の触手を放つ。
しかし、乱陀の超高速移動には追い付けず、その姿は捕らえられない。
「乱陀さんっ!これ、このまま倒せますよ!」
カノンが、銃を撃ちながら破顔する。
その時。
エンジェルゼリーは、カノンを見た。
カノンは、ぞわりと背筋に悪寒が走る。
それまで、乱陀やブラッドラスト、その他の冒険者たちを捕らえようと、四方八方に散っていた触手が、いきなり向きを変え、あらゆる方向から、一斉にカノンへと襲い掛かる。
「ひっ!ひいいいっ!」
高速移動で逃げながら、9mm雷撃弾を連射するカノン。
だが、その弾丸も本体には届かず、触手に当たり、毒によって朽ちるだけ。
そして、カノンの後ろへ回り込み、逃げ場を封じる触手。
前後左右どこを見ても、カノンが抜けられそうな隙間すら無く、既に触手で埋め尽くされていた。
カノンは絶望する。
周囲を囲われ、逃げ場のない、猛毒の触手の群れを瞳に映し。
エンジェルゼリーは、嗤う。
天使のような笑顔で。
上空を見れば、乱陀がこちらへと向かって来るのが見えた。
だが、この触手はスキルや魔法をも蝕む。
強力無比な乱陀の呪術も、この毒の触手の前では、無力だ。
カノンは叫ぶ。
「乱陀さん!逃げてください!」
カノンの目からは涙が流れ、ダンジョンの浮力に寄り、浮かぶ水滴となる。
カノンは、もう自分が助からないことを悟っていた。
乱陀の圧倒的な強さは、スキルによるもの。
スキルの通らない、毒の触手には、手も足も出ない。
為す術など、もう無いのだ。
カノンの脳裏には、今まで受けてきた罵倒の言葉が漂う。
緑の肌が、気持ち悪い。
最弱のゴブリンに、何の価値があるんだ。
身の程を知れ。
ゴブリンが。
ゴブリンめ。
ゴブリンのくせに。
そして、それらを吹き飛ばす、鮮烈な一言が、カノンの記憶に響き渡る。
「また同じことが起きたら、同じように助ける。ゴブリンだとか、俺には知ったこっちゃない」
その一言だけで。
その一言があったから。
乱陀と出会ってからの二週間は、掛け替えのない宝物となった。
もっと、ありがとうと言いたかった。
もっと、一緒に居たかった。
もっと……。
でも、もう終わり。
乱陀のスキルでも、この現状は覆せない。
だから、今のうちに逃げて欲しい。
そう願いを込めて。
半透明の触手の向こうに見える、乱陀に想いを乗せて。
だが、乱陀は速度を落とさない。
待ち受けているのは、猛毒の触手の塊。
その中には、カノンが居る。
涙を流して。
乱陀の目の前には、あらゆるスキルを蝕む毒。
乱陀は叫ぶ。
「だから、どうした!」
スキルが効かないのであれば。
もっと単純な方法があるではないか。
乱陀は、右手を振りかぶり。
猛毒の触手の塊を、思い切り殴った。
魔法専門のジョブ『ウォーロック』とはいえ、レベル120の筋力での殴打は、ブラッドラストのハンマーに匹敵する威力だった。
吹きすさぶ衝撃波。
千切れ、舞い散る触手。
触手の壁に、大穴が空く。
大穴を抜け、カノンの目の前に降り立つ乱陀。
カノンが、悲鳴を上げる。
「乱陀さん!」
乱陀の右腕は、紫色に染まっていた。
痛覚遮断のスキルすら、無効化する、毒。
乱陀の右腕の血液が、棘となって肉に突き刺さる。
「ぐああああっ!」
凄まじい激痛に、意識が飛びかける。
だが、ここで気を失う訳には行かない。
たった今こじ開けた、触手の穴が閉じられる前に、カノンを連れて脱出するのだ。
乱陀は、黄金の左手でカース・ギフトを自らの右腕に放ち、右腕を切断する。
乱陀の腕から、赤い血が迸る。
肩から先が無くなった、乱陀の右腕。
黄金竜の左腕で、カノンを抱き、真上へと跳ぶ。
早くも、閉じかかっている、触手の塊に空けた穴。
下からも、何本もの触手が、乱陀たちを追いかける。
「間に合えっ!」
乱陀は、全ての力をブーツの魔法陣に込めて、最高速度で舞い上がる。
そして。
触手の塊の穴から、抜け出す乱陀とカノン。
その直後に閉じられる、触手の塊の穴。
宙に浮かびながら、乱陀に抱き着き、ぼろぼろと涙を流すカノン。
「乱陀さん……!」
無くなった右腕の付け根から、大量の血を流し、左手でカノンの頭を撫でる乱陀。
「怪我は無いか?」
「私よりも、乱陀さんが!」
「ああ、これか。とりあえず、止血しないとヤバいな」
乱陀は、エンジェルゼリーに向けて、左の手のひらを差し出す。
乱陀にしか見えない、赤い矢印が、エンジェルゼリーから乱陀へと流れる。
HPを吸い取る、ライフ・スティール。
大したダメージは与えられないが、乱陀のHPが回復し、右腕の出血が止まる。
カノンが、涙目で乱陀に問いかける。
「乱陀さん、どうして……」
「相棒を助けるのは、当然だろ?」
乱陀は、カノンに笑いかけた。
乱陀は、自分自身の心を、不思議に思う。
恋人と親友から裏切られ、他人を一切信用できなくなった乱陀。
出会う誰もが敵に見えた。
カノンも、出会った当初は、言う事全てが嘘に思えた。
その笑顔すらも偽りに思えて。
疑って、疑って、疑い続けて。
それでも残った、カノンの笑顔。
カノンと組んで二週間あまり。
この二週間は、乱陀にとっては数年以上の濃密な時間だった。
二週間、ほとんどの時間をずっと一緒に過ごして、心の傷まで曝け出して。
もう隠すべきことなど、何も無くなってまで。
それでも、一緒に居てくれた。
もう、カノンにならば裏切られても構わなかった。
実は今も、カノンに隙を見せれば、後ろから刺されるのではないかなどと、被害妄想が勝手に脳内に生まれる。
だが、それでもよかった。
今までは、カノンが一方的に信頼してくれていた。
これからは、乱陀がカノンを信頼する番だ。
「カノン。さっさとあのクラゲ倒して、帰ってケーキでも食べようか」
「……はい。私、ガトーショコラがいいです」
「甲羅市には、美味そうな店が一杯ありそうだよな」
「一緒に連れて行ってください」
「ああ。一緒に行こう」
エンジェルゼリーが、触手で出来た、巨大な翼を広げる。
乱陀の左頬に輝く『Six Feet Under』の文字。
カノンも二丁の拳銃を構える。
決着の時は近い。




