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ドクトル・ゼンゼンマンの研究ノート  作者: 黒瀬 量衡


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第一話 われは肉腫

 我輩は、かつて悪であった。


 正確に言えば、悪の秘密結社の幹部であった。


 さらに正確に言えば、悪の秘密結社の怪人開発部門に所属する、非常に有能で、非常に勤勉で、非常に趣味のよい博士であった。


 名を、ドクトル・ゼンゼンマンという。


 黒い外套を好んだ。


 薄暗い実験室を好んだ。


 意味もなく天井から下がる鎖を好んだ。


 壁一面に並ぶ培養槽を好んだ。


 赤い警告灯を好んだ。


 そして何より、透明な蓋のついた赤い自爆ボタンを好んだ。


 自爆ボタンは、研究者のロマンである。


 これは前世から変わらない。


     *


 誤解してはならない。


 我輩は、世界を滅ぼしたかったわけではない。


 人類を憎んでいたわけでもない。


 正義を嫌っていたわけでもない。


 そもそも正義とは、研究費を出さない側の言い分である。


 我輩が悪の秘密結社に所属していた理由は、極めて単純であった。


 実験素材が手に入る。


 設備がある。


 予算が出る。


 倫理審査がない。


 この四点である。


 正義の研究所では、怪人を一体作るにも申請書が必要であった。


 同意書。


 動物実験委員会。


 廃棄手順。


 感染対策。


 予算会議。


 成果報告。


 中間評価。


 査読。


 煩わしい。


 実に煩わしい。


 その点、悪の秘密結社はよかった。


「博士、変身ヒーロー対策用の新怪人を作れ」


「素材は」


「用意した」


「予算は」


「出す」


「実験場は」


「地下第三格納庫を使え」


「爆発した場合は」


「次から気をつけろ」


 良い職場である。


 もちろん、欠点もあった。


 幹部会議は長い。


 首領の演説も長い。


 作戦名は無駄に長い。


 戦闘員はすぐやられる。


 怪人は名乗りを省略したがる。


 これはいけない。


 怪人は名乗るべきである。


 名乗り、ポーズを取り、背景で火薬が爆ぜ、変身ヒーローが構え、そこから戦闘が始まる。


 悪とは、演出である。


 演出を失った悪は、ただの迷惑な組織である。


     *


 我輩の最後の記憶も、演出としては悪くなかった。


 地下実験場。


 崩れた鉄骨。


 赤く点滅する警告灯。


 培養槽から漏れ出す紫色の液体。


 遠くで鳴る非常ベル。


 そして、正面には蝗虫男。


 緑の複眼。


 鋭い脚力。


 風を裂く跳躍。


 腹立たしいほどよく通る声。


「ゼンゼンマン! 貴様の非道な実験もここまでだ!」


 我輩は笑った。


 悪の博士は、ここで笑わねばならない。


「非道? 違うな、蝗虫男。これは進化である!」


 進化。


 便利な言葉である。


 だいたいの実験は、進化と言えば悪の秘密結社内では通る。


 我輩はその時、すでに自らの身体へ最終怪人化処置を施していた。


 頭足類悪魔。


 それが、我輩の最終形態であった。


 骨格を捨てる。


 関節の制限を捨てる。


 脊椎動物の思い上がりを捨てる。


 八本の腕。


 吸盤。


 再生する触手。


 墨状の毒霧。


 高い知性。


 低い倫理。


 素晴らしい設計である。


 怪人名としても悪くない。


 ドクトル・ゼンゼンマン改造態。


 頭足類悪魔ゼンゼンマン。


 よい。


 長い。


 実に悪の幹部らしい。


「我輩自らが、最高傑作となるのだ!」


 床下から蒸気が噴いた。


 背後の培養槽が割れた。


 天井の照明が落ちた。


 完璧である。


 ただし、ひとつ問題があった。


 蝗虫男は強かった。


 非常に強かった。


 なぜ変身ヒーローという生き物は、実験データを無視して強くなるのか。


 説明がつかない。


 初回戦闘時には押せる。


 二回目で対策される。


 三回目で友情や怒りや謎の新技により突破される。


 科学的ではない。


 しかし、観測事実である。


 我輩の八本の腕は、四本折られた。


 墨状毒霧は、風圧で吹き散らされた。


 吸盤拘束は、回転跳躍で千切られた。


 巨大触腕は、蹴られた。


 痛かった。


 非常に痛かった。


「これで終わりだ、ゼンゼンマン!」


 蝗虫男が跳んだ。


 天井の割れ目から差し込む光を背に受け、緑の影が落ちてくる。


 ああ。


 と思った。


 これは、決め技の角度である。


 我輩は笑った。


 悪の博士は、最後まで笑うべきである。


 そして我輩は、右第三触腕で、透明な蓋を開けた。


 赤いボタンがそこにあった。


 自爆ボタンである。


 なぜ最終怪人化した自分の身体にまで自爆ボタンをつけたのか。


 決まっている。


 ロマンだからである。


「蝗虫男よ!」


 我輩は叫んだ。


「悪の科学は滅びぬ! 実験ノートが残る限り、我輩は――」


 そこで蹴りが入った。


 台詞の途中であった。


 いかん。


 名乗りと最期の台詞は最後まで聞くべきである。


 正義の側には、悪役の様式美への理解が足りない。


 蹴りが胸部装甲を貫いた。


 我輩の触腕が痙攣した。


 赤いボタンを押した。


 警告灯がすべて赤になった。


 地下第三格納庫が光に包まれた。


 爆発した。


 非常によい爆発であった。


     *


 次に目覚めた時、我輩は肉であった。


 訂正する。


 我輩は、肉の一部であった。


 さらに訂正する。


 我輩は、知性を持った肉腫であった。


 ここは重要である。


 肉であることと、肉腫であることと、知性を持った肉腫であることは、まったく違う。


 肉は考えない。


 肉腫も通常は考えない。


 しかし我輩は考えた。


 つまり、我輩である。


 我輩は、我輩である。


 これは最初の発見であった。


 実に偉大な発見である。


 なぜなら、周囲の肉はその結論に到達していなかったからである。


     *


 最初に確認できた感覚は、温度であった。


 ぬるい。


 湿っている。


 暗い。


 狭い。


 周囲に粘液。


 腐敗臭。


 血臭。


 土。


 糞。


 そして、無数の低級な生命活動。


 周囲には、我輩と同じような肉の塊がいくつもあった。


 膨らみ。


 震え。


 割れ。


 滲み。


 そこから小さな手足が伸びる。


 頭が出る。


 口が裂ける。


 歯が生える。


 目が開く。


 そして、鳴く。


「ギ」


「ギギ」


「ギャ」


 知性がない。


 実にない。


 まったくない。


 前世の戦闘員より少し低い。


 いや、かなり低い。


 ただし、前世の一部幹部会議よりは議題が短くてよい。


 周囲の小型個体は、泥を舐めた。


 隣の肉芽を噛んだ。


 自分の指を噛んだ。


 他の個体の耳を引っ張った。


 腐った骨を奪い合った。


 そして、また鳴いた。


「ギギ」


 助手には使えない。


 記録係にも使えない。


 戦闘員としても統率に難がある。


 だが、素材としては豊富である。


 我輩はしばし考えた。


 死んだはずであった。


 爆発したはずであった。


 頭足類悪魔ゼンゼンマンとして、蝗虫男の蹴りを受け、自爆ボタンを押し、地下第三格納庫ごと華々しく爆散したはずであった。


 その我輩が、なぜ今、見知らぬ湿った肉塊の中で、知性を持つ肉腫として発生しているのか。


 仮説は複数ある。


 一、爆発時の高次元転移。


 二、悪の科学による魂情報の偶然転写。


 三、蝗虫男の蹴りに未知の時空干渉効果があった。


 四、我輩があまりにも優秀であったため、宇宙が保存した。


 五、悪役は爆発しても死なない。


 五が有力である。


     *


 身体の確認に移る。


 我輩は、まず自分がどこまで我輩であるかを調べた。


 視覚。


 弱い。


 色が濁る。


 光に弱い。


 聴覚。


 粗い。


 だが振動はよく拾う。


 嗅覚。


 過剰。


 腐敗、血、糞、泥、熱、肉、すべてが近い。


 触覚。


 多すぎる。


 全身でぬるぬるする。


 運動能力。


 未完成。


 手足はある。


 しかし、短い。


 爪はある。


 歯もある。


 牙と呼ぶには小さい。


 頭蓋は軽い。


 脳は小さい。


 だが、我輩の中には我輩がある。


 ここが重要である。


 肉体仕様は低い。


 だが、管理者権限は我輩にある。


 しばらくすると、我輩の肉腫は裂けた。


 外気が入った。


 臭かった。


 非常に臭かった。


 腐った水場。


 泥。


 糞。


 古い血。


 生まれたばかりの小型個体。


 死にかけた小型個体。


 食われかけた小型個体。


 食っている小型個体。


 なるほど。


 ここは研究所ではない。


 巣である。


 悪の秘密結社の地下格納庫より、衛生状態が悪い。


 これは問題である。


 しかし、悪いことばかりではない。


 上司がいない。


 予算会議がない。


 首領の演説がない。


 変身ヒーローがいない。


 倫理審査がない。


 素材は周囲にある。


 そして我輩自身も素材である。


 考え方によっては、前世より研究環境は改善している。


     *


 我輩は、最初の歩行に失敗した。


 転んだ。


 泥を食った。


 まずい。


 実にまずい。


 隣の小型個体は、それを美味そうに食っていた。


 見込みがない。


 我輩は立ち上がった。


 再び転んだ。


 手をついた。


 指が泥に沈んだ。


 臭い。


 汚い。


 不快。


 しかし、身体は動く。


 再生も早い。


 裂けた皮膚がすぐ塞がる。


 折れた爪が伸びる。


 噛まれた耳が熱を持つ。


 この生命体は、低品質だが増殖性能は高い。


 量産前提の粗悪な戦闘員素体に近い。


 悪くない。


 改造余地がある。


 その時である。


 我輩の頭の中に、声が流れた。


 食え。


 増えろ。


 壊せ。


 奪え。


 巣を広げろ。


 人類を滅ぼせ。


 うるさい。


 実にうるさい。


 誰であるか。


 我輩の研究計画に、勝手に割り込むでない。


 声は続いた。


 食え。


 増えろ。


 壊せ。


 人類を滅ぼせ。


 雑である。


 命令が雑すぎる。


 目的関数が荒い。


 実行計画がない。


 補給計画がない。


 感染対策がない。


 廃棄手順がない。


 人類を滅ぼすとして、その後の観測対象はどうするのか。


 都市構造は。


 兵器体系は。


 医療設備は。


 変身ヒーロー細胞の採取は。


 薬品倉庫は。


 実験器具は。


 研究対象を滅ぼしてどうする。


 滅ぼしたら切片にできぬ。


 追試もできぬ。


 論文にもならぬ。


 毒電波である。


 我輩は、そう分類した。


     *


 周囲の小型個体は、その毒電波に素直であった。


 食えと言われれば食う。


 壊せと言われれば壊す。


 増えろと言われれば増える。


 人類を滅ぼせと言われれば、たぶん近くに人類がいれば走る。


 知性がないので、疑問を持たない。


 疑問を持たない生命体は、研究者に向かない。


 前世の戦闘員もそうであった。


 命令には従う。


 だが、記録を残さない。


 なぜ失敗したかを考えない。


 同じ罠に三回かかる。


 変身ヒーローが名乗っている最中に突っ込む。


 そして爆発する。


 小型個体も同じである。


 なるほど。


 ならば、我輩がやるしかない。


 まず必要なのは武器ではない。


 怪人でもない。


 爆弾でもない。


 自爆ボタンでもない。


 自爆ボタンは重要である。


 だが、順番がある。


 最初に作るべきは、静かな脳である。


 研究には静けさが必要である。


 少なくとも、頭の中で「食え」「増えろ」「壊せ」「人類を滅ぼせ」と常時鳴っている状態はよろしくない。


 我輩は、自分の頭部を触った。


 柔らかい。


 不愉快である。


 しかし、切れる。


 繋げる。


 増やせる。


 この身体は粗悪だが、加工性は高い。


 素晴らしい。


 我輩は泥の中に落ちていた鋭い骨片を拾った。


 隣の小型個体が、それを食おうとした。


 殴った。


 小型個体は転んだ。


 また泥を食った。


 助手不適格。


 我輩は骨片で、自分の首の後ろを切った。


 痛い。


 非常に痛い。


 だが、前世で頭足類悪魔に変身した時よりはましである。


 我輩は肉芽を引き出した。


 神経をつまんだ。


 毒電波の流れを探した。


 食え。


 増えろ。


 壊せ。


 人類を滅ぼせ。


 そこだ。


 我輩は、その流れを本体脳から外した。


 切る。


 束ねる。


 分ける。


 丸める。


 小さな脳片を作る。


 そこへ毒電波だけを流す。


 我輩の本体脳には通さない。


 名称が必要である。


 名称は大事である。


 悪の博士は、発明品に名をつけねばならない。


 我輩はしばし考えた。


 毒電波受信肉芽。


 悪くないが弱い。


 破壊命令隔離神経束。


 機能は分かるが趣が足りない。


 祝福遮断脳。


 神聖ぶっていて腹立たしい。


 迷惑毒電波スパム隔離サーバー脳。


 よい。


 長い。


 正確である。


 我輩は満足した。


     *


 効果はすぐに出た。


 頭の中が静かになった。


 食えという声が遠ざかる。


 増えろという命令が薄れる。


 壊せという雑音が、小さな脳片へ吸い込まれていく。


 人類を滅ぼせという命令は、まだぶつぶつ言っている。


 しつこい。


 だが、本体脳には届かない。


 実に静かである。


 素晴らしい。


 研究ができる。


 我輩は立った。


 今度は転ばなかった。


 小型個体が、我輩の背中の肉芽を舐めようとした。


 蹴った。


 小型個体は転んだ。


 また泥を食った。


 変わらぬ者である。


 我輩は周囲を見た。


 泥。


 腐肉。


 糞。


 死骸。


 増殖嚢。


 小型個体。


 毒電波。


 不衛生。


 混沌。


 そして、我輩。


 研究環境としては最低である。


 しかし、素材密度は高い。


 改善余地は無限である。


 前世の実験室は、蝗虫男に爆破された。


 だが、ここにはまだ何もない。


 ならば作ればよい。


 静かな脳。


 記録媒体。


 外部身体。


 同期脳。


 生体サーバー。


 秘密基地。


 自爆ボタン。


 順に作ればよい。


 我輩は、我輩である。


 悪の博士である。


 頭足類悪魔として爆死した程度で、研究をやめる理由はない。


     *


 なお、現時点での問題点を記す。


 一、身体が小さい。


 二、周囲が臭い。


 三、助手がいない。


 四、同型個体に知性がない。


 五、毒電波がうるさい。


 六、記録媒体がない。


 七、実験台がない。


 八、培養槽がない。


 九、警告灯がない。


 十、自爆ボタンがない。


 特に十が重大である。


 研究施設に自爆ボタンがないなど、悪の博士として許容しがたい。


 ただし、焦ってはならない。


 まずは脳。


 次に記録。


 その次に設備。


 そして最後に、赤いボタンである。


 我輩は、迷惑毒電波スパム隔離サーバー脳を背中にぶら下げた。


 少し重い。


 だが、頭は静かである。


 良い。


 非常に良い。


 我輩は、泥の上に骨片で最初の記録を刻んだ。


 字は歪んだ。


 だが、読める。


 我輩は記した。


 ――第一日。


 ――我輩は、肉腫として発生。


 ――周囲の同型生命体、知性なし。


 ――毒電波あり。


 ――本体脳より隔離成功。


 ――研究継続可能。


 ――実験素材、豊富。


 ――助手、不可。


 ――自爆ボタン、未実装。


 最後の一行だけ、深く刻んだ。


 これは重要だからである。


 やがて遠くで、同型生命体たちが一斉に鳴いた。


「ギギ」


「ギャギャ」


「ギ」


 うるさい。


 だが、もう我輩の内側ではない。


 外の騒音である。


 外の騒音ならば、処理できる。


 隔離できる。


 爆破できる。


 我輩は小さく笑った。


 小型増殖生命体の口から出た声は、まだ貧弱であった。


 悪の博士の笑いとしては足りない。


 喉も小さい。


 肺も小さい。


 響きもない。


 だが、練習すればよい。


 我輩は、もう一度笑った。


「ク、クク……」


 小型個体がこちらを見た。


 我輩の笑いに知性を感じ取ったのではない。


 口が動いたので食べ物かと思っただけである。


 やはり助手には使えない。


 我輩は骨片を握った。


 背中の迷惑毒電波スパム隔離サーバー脳が、ぶつぶつと低く震えている。


 人類を滅ぼせ。


 増えろ。


 食え。


 壊せ。


 我輩は言った。


「黙れ」


 静かになった。


 少しだけ。


 だが、十分である。


 研究は始まったばかりなのだから。


 我輩は、ドクトル・ゼンゼンマンである。


 肉腫である。


 悪の博士である。


 そして、いずれこの泥の巣に、赤い自爆ボタンを設置する者である。


 以上。


 研究ノート第一冊、終了。

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