四十九・五十・五十一、晋の文公、襄王を迎える
49.
初,惠后欲立王子帶,故以黨開翟人,翟人遂入周。襄王出奔鄭,鄭居王于汜。子帶立為王,取襄王所絀翟后與居溫。十七年,襄王告急于晉,晉文公納王而誅叔帶。襄王乃賜晉文公珪鬯弓矢,為伯,以河內地與晉。二十年,晉文公召襄王,襄王會之河陽、踐土,諸侯畢朝,書諱曰「天王狩于河陽」。
(訳)
当初、恵后は
王子の(叔)帯を立てようとしていたため
支党を以て翟人を招き、
翟人がかくて周へ入国した。
襄王は鄭へ出奔し、
鄭は王を汜へ寄居させた。
子帯が立って王となり
襄王が降黜した翟の后を娶って
ともに温へ居した。
十七年、襄王は晋に危急を告げ
晋の文公は王を納れて叔帯を誅殺した。
襄王はかくて晋の文公に
珪(宝石)・鬯(お酒)・弓矢を下賜し、
伯と為して、河内の地を晋に与えた。
二十年、晋の文公が襄王を召し
襄王は河陽、踐土で会同し、
諸侯は入朝を畢えた。
書は(この出来事を)諱みて
「天王は河陽に巡狩した」と言っている。
50.
二十四年,晉文公卒。
(訳)
二十四年、晋の文公が卒した。
51.
三十一年,秦穆公卒。
(訳)
三十一年、秦の穆公が卒した。
(註釈)
前632年、晋の文公が覇者となり
諸侯が会同した。
いわゆる「踐土の盟」です。
立場的には周王のが上だから
諸侯畢朝,書諱曰「天王狩于河陽」。
ってことになるのかな。
この「書」は孔子の「春秋」で
周王は河陽を巡察したと婉曲表現。
恵王・襄王と、内輪揉めで後から
国を追われる展開が続いたわね。
結局返り咲くんだけど。
・襄王評価
戦闘 ★★★★ 4
戦闘描写なし、得意でなさそう
戦略 ★★★ 3
「王不聽」連発でピンチを招く無能ぶり
内政 ★★★★ 4
鄭の手綱をうまく握れてない
人格 ★★★★★ 5
富辰のように殉死する臣下もいた




