第3話
大魔法“G翻訳”起動
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うつむいてからどれだけの時間がたっただろうか。
「……はぁー」
深く深く深呼吸して気持ちを落ち着かせていく。右腕で顔をぬぐって、俺はようやく頭を上げた。密に生い茂る木々の間から差し込む日の光はまだ明るい。
「……よし!」
両の手で頬を張り、植木鉢を切り株の上に一旦置く。
「まずは所持品の確認だな」
足を見る。丈夫に編まれた仕立てのいい綿製のズボンを履いている。ジーンズっぽいデザインでポケットもついた結構便利な作りの物だ。その先には革で組まれたむこうずねまで覆う靴。紐が通してありしっかりとした履き心地は歩きやすそうで、見ていて頼りがいを感じた。神様ありがとう。
「次はっと」
上着を摘み検める。皮製のジャケットを羽織り、内に綿で出来たシャツを着ている。ジャケットにもポケットが複数取り付けてあり、機能性に富んだデザインになっているようだ。ズボンと合わせていかにも旅装束という感じだと思った。ちなみにどのポケットの中にも何も入っていなかった。
「所持品は、イチゴだけか」
流れで所持品を確かめる。こちらの世界に来た俺は、どうやら本当に着の身着のままという状態らしい。神様からの思し召しはこの服と、元の世界から持ってくることを許してもらった実家のイチゴの苗一つ。とてもシンプル。
「確認完了っと」
あらかた確かめ終えて立ち上がる。折り曲げた足の動きにしっかりとズボンの伸びが応えてくれた。改めて植木鉢を抱えて、俺は空を見上げた。
「神様は南って言ってたな」
じっと空を眺める。木々の合間から差し込む光を遡るようにして目的の物を探す。
「ん……」
太陽の位置から南の方角が分かるんだったっけ? 学校で習ったことをなんとなく思い出す。確か光が差し込む方角が南。
「えーっと」
まぶしさに耐えながら差し込む光の方向を確かめ、向かうべき道を探る。こんなこと生まれてこの方一度もしたことがないから新鮮だな、なんて。未知への期待に心が湧き上がってくる。
「こっちだな」
方向を定め終え、一度屈伸。体を伸ばして気合を入れ直す。
「……行こう!」
覚悟を決めて歩き出す。与えられた装備がこれだけ軽装なのだから、神様の言う村へはそう距離もないのだろう。多少方向がずれていても、村へと繋がる道の途中に出るに違いない。俺は気楽に歩を進め、新しい世界を存分に楽しむことにした。
一歩一歩、踏みしめる。草の感触も土の感触も、時たま乗り越えるために踏む大きな木の根の感触も。森に吹く風の冷たさも、差し込む光の温かさも。時折目に留まる見たことのある生き物や見たことのない生き物の姿が、一つ一つの実感として俺に新世界を感じさせてくれた。
「さっきの鹿の群れ、中に二匹青い毛の奴がいたな。でも、それを群れの誰も変だと思ってなかった」
この世界にはこの世界のルールがあるのが分かる。何も知らない自分は今、それについて思いを馳せることが出来る。
「毛の色くらいじゃ気にしないくらい群れが大らかなのか、そもそもあの青い奴の方が種として正しいのか」
どうせ誰も聞いてないのだからと思うまま独り言を呟きながら、物見遊山で森を行く。神様の用意してくれた革の靴は、最初こそ歩くのに苦労したが三十分もしない内にコツを掴みしっかりと足に馴染んでくれた。俺に合うように用意してくれた物なんだろうと改めて感じる。神様ありがとう。
※ ※ ※
「よっと」
出発して一時間くらいか、何個目かの大きな木の根を踏んで飛び越えたところで一度休憩する。まだまだ歩けるが、小まめに休憩を挟んだ方が後々疲れないだろう。
「ふぅー」
飛び越えた木の根にどっかりと腰を落ち着ける。森の空気を思い切り吸い込んでからのんびりと辺りを見回し、何かないかと目を凝らす。が、そこにあったのは変わらず深い森の木々と、そんな木になろうと背を伸ばす草の群れだけ。
「……うーん」
俺の予想が正しければ、そろそろ道に出るか村に着いてもおかしくない時間のはずだ。いくら旅装束を賜ったからといって、水もなしに歩き通しするには限度がある。神様は村があると言ったのだから、その辺りはほどほどにバランスよく配置されているだろうと予想していたのだが、ここに来て色々と不測の事態になってきているように感じる。なんだか雲行きが怪しくなってきた。
「まさか、な」
最悪の事態を想像する。それは、自分が南だと思って向かった方向が間違っているパターンだ。光差す方が南という知識はうろ覚えの知識だったし確証はない。であれば間違っている可能性は十分にある。
「……」
頬を伝う汗は沢山歩いて掻いた物に違いない。
「合ってるはず、合ってるはず」
とりあえず思考放棄。このまま考えると何かとてもよくない事実と向き合うことになりそうだ。俺は慌てて立ち上がり、その場から逃げ去るように足を動かす。
「合ってる、よな?」
来た道を戻るルートも考える。今ならまだ自分の足跡を辿って元の場所に戻ることが出来るかもしれない。でも、もう一時間も歩いた。あと少し歩けば道に出るかもしれない。そう思うと足は前にしか進まない。焦りが募って踏み込む速度もどんどん上がっていく。
「……」
口からこぼれていた独り言も今はなく、ただ細かい呼吸を繰り返すだけになった。周りの風景を見るなんて余裕も失われていった。そんな思考に囚われたままさらに一時間くらい後。
「ごめんなさい迷いました間違いなく」
大地に膝を折り両手をつき、俺は敗北宣言した。俺は森の中で一人、完全に迷子になった。いや、遭難してしまった。
「うええ……」
草むらに倒れるように寝転がりうめき声を上げる。思った以上に体力を消耗していたらしく、ぐったりと地面に体を伸ばして脱力する。ぐるぐるする頭では思考することも難しい。
「休憩、しないと」
とにかく呼吸を落ち着けて休むことに専念する。体力に自信はあったが、無駄遣いしてしまっては意味がない。なんとしてもこの森を越えて村に行かなければならない。でないと、俺の新世界での人生は始まりすらしないのだ。
「野生児という選択……いや、ないな」
ちょっと心に余裕が出てきた。頭も冴えてきて、自分が置かれている状況をしっかりと認識し始める。
「道に迷った。南に行ったら着くはずの村がなかった。南には光の差す方向を当てはめて移動した……が、それが合っている自信は今、ない」
風に木々が揺れ、気の抜けた顔に差し込む光を感じる。思ったよりも温度の低い森の中、差し込む日の光は温かかった。
「あったかいなぁ」
このまま寝てしまいたいな、なんて思って。差し込んでくる光に意識を集中する。ぽかぽかとした感覚が疲れた体に心地いい。思考へ被さってくるモヤに誘われるまま、ゆっくりとまぶたを落としていく。
「ん?」
まぶたの落ちきるその前に、パキリと枝を折る音と、直後何かの降り立つ音と共に俺の視界に影が差す。すぐそば、音のした場所に人の気配がする。
「Cos'è questo?」
男の声。聞き覚えのない音の並びが聞こえて、俺は眠りかけていた頭を起こして目を開く。
「Sei vivo?」
そいつは確かに俺の方を見て、多分何かの言葉を投げかけてきていた。俺はそいつの顔をしっかりと目に映した。
「Stai facendo un pisolino?」
「え」
思わず驚きの声が出る。いや、それは確かによく似てはいるが、俺とは決定的に違う部分があった。
「青い肌に、くちばし?」
俺に声をかけてきた男は、俺の知る限り人間じゃない未知の何かだった!
「Buon giorno, morto!」
俺の疑問に答えが出るより早く目の前のくちばし男が動く。そして次の瞬間には俺も動かされていた。
「ぐっ、あっ!」
お腹を蹴られたんだと気づいた時には、俺はごろごろと地面を転がり近くの木の根に体を打ち付けてしまっていた。とっさに植木鉢を掴んで抱きしめたのもあって、まともに受身も取れなかった。とても痛い!
「Snatch!」
何か大声を上げてこっちに近づいてくるくちばし男。状況はさっぱり分からないが危険を感じ、俺は何とか体を起こして逃げ始める。
「Viva!」
くちばし男は軽やかなステップでジャンプして、直前まで俺の立っていたところに踵落としを決めた。見せ付けるような動きだった。
「な、ん」
何だよ! と、悪態もつけないまま相手の見せた隙に乗じてどうにかこうにか手近な木の陰に隠れる。
いきなりのピンチだ。
「Dove sei, nascondersi è inutile」
相手の声が聞こえるがなんて言ってるのかはやっぱり分からない。音の響きはいつだったかテレビで聞いたイタリア語に近い、未知の言語のように思えた。
言葉よりも分かるのは、今のくちばし男は俺に害をなそうとしているという事実。間違いなく俺は今、襲われている。
「……何で?」
コレガワカラナイ。単に目に留まったから? そんな辺り構わず喧嘩を売るような不良みたいな感じで?
「後は、強盗とか」
木の陰から様子をうかがい観察しながら思考する。くちばし男は少なくともちゃんとした衣服を身に纏っていた。絹っぽいシャツにこちらによく似たズボン、シャツの胸元には見たことのない文字で書かれたファンキーな刺繍が施されており、ファッションセンス的にもヤンキーとか不良めいてる。そんな衣装の柄を含め、くちばし男は言語も操る高度な知性を持った相手なのだと理解して、とりあえずあれを自分と同等以上の存在なのだと認識した。それが意思を持ってこっちを襲っているのだとすれば、その狙いは暴行目的だったり、やはり金品の類かもしれないと結論付ける。
「……何も持ってないって」
資産価値があるのは今この手に持っているイチゴの苗を植えた植木鉢だけだ。それを差し出したとして相手が納得するとは到底思えない。それに、
「これはあげられない」
自分にとって唯一の標を、俺は手放すわけにはいかない。絶対に。
「すぅー、はぁー」
小さく吐いていた息を一度深く吸い、吐く。次に起こす行動のためにしっかりと呼吸を整える。
「始まってすぐゲームオーバーは嫌だよな」
そもそも始まってもいない。ゲームで言えば冒頭で流れるオープニングムービーの途中みたいなものだ。スタートを押せば飛ばせるその途中で死ぬわけにはいかない。
「Ti troverò sicuramente」
「!?」
くちばし男の声が近い。
(見つかる!)
そう思った瞬間、俺は迷わず木の陰から飛び出した。
「È come previsto!」
それを待ち構えていたかのように、くちばし男が俺の頭蓋目掛けて手刀を振り下ろす。
「んなろぉ!」
俺はそれを腰をひねってぎりぎりの所でかわした。そのまま地を蹴りたたらを踏んで、すぐさまバランスを取り走り出す。
「農家の足腰なめるなよ!」
日頃農業にまじめに取り組んでいる俺は体幹に関しちゃ少しばかり自信がある。うちのイチゴは低いところで栽培するからいつだって中腰の作業になる。小さい頃からバランス感覚は鍛えられてるんだ。
「Non evitare!」
かわされるとは思ってなかったのか、くちばし男の手が苦し紛れに伸ばされるも結局俺の体には届かず、俺はその隙に距離を離し、後はもう男に背を向け全力疾走を開始した。振り向かず前だけを見て走る。こんな所で終わるわけにはいかないと、それだけを考えて俺は逃げた。
「!」
だから、少しして視界の先に森の切れ目を見つけた時は嬉しかった。
「よし!」
森から抜ければ道がある。道があるなら人通りがある。助かる。そんな単純な思考が頭を支配した。向かう先から肌をちりちりと刺す熱を感じたがそれも気にならなかった。
「うおおおおおお!!」
力を振り絞って森を駆け抜ける。木々の間を縫って、俺はついに開けた場所へと飛び出した。
「「What's!?」」
飛び出した先にはニンジンとレモンがあった。もとい、ニンジン色の髪をした少女とレモン色の髪をした少女がいた。
「おああっ!?」
目に留めたはいいものの、俺は飛び出した勢いのまま止まれず二人に思い切りぶつかってしまう。衝撃で植木鉢が手から離れ吹っ飛んでいく。しまった、なんて思った直後、
「Un fuoco fiammeggiante……Cosa!?」
またあのよく分からない言葉と、それが驚きに染まる声が左からする。次の瞬間声のした方から感じた熱が、俺の背中辺りを物凄い勢いで通り過ぎていく。右の方で何かが爆ぜる音がした。
「熱っ!?」
感じた熱に思わず目を閉じ背中を反ったところで、完全にバランスを取ることが出来なくなった。滑り落ちるように倒れる体を支えきれず、俺はぶつかった二人の少女を思い切り押し倒してしまった。
「Ouch!」
「うわわっ! ごめん!」
すぐさま身を起こし二人に謝罪する。が、そんな俺の肩を目の前のニンジン髪の少女が掴み思い切り引き寄せた。何か硬いものに当たる。
「んぶっ!」
「Shit!」
「おわっ!」
それも束の間、俺はニンジン髪の少女に首根っこを掴まれすぐさま放り投げられて、再び地面を転がされる。男一人の体をあっさりと放り投げるなんて、そこらの女の子の筋力じゃない。しかも、
「Arca!」
「がはっ」
彼女が投げたのは俺ともう一人、レモン髪の少女だ。先に俺を放り投げたのは彼女の下敷きにするためだったようで、俺は許しを得る間もなくその報いを受けた。
「Sorry!」
俺をお尻に敷いた少女がやっぱり分からない言葉で何か言っている。くちばし男の言葉と違ってこっちはなんだか英語のようなハキハキとした音だ。同じ言葉だろうか? 動きからなんとなく謝っているのだろうと思うが、その言葉を正しく理解することはやはり出来ない。
「Sorry,I'm back……Ow!」
彼女はすぐさまどいてくれたが、俺が身を起こす間に再びうずくまってしまう。
「どうしたんだ?」
「I'm troubled……」
レモン髪の少女が足を押さえている。よく見れば彼女のスカートには血が滲んでいて、怪我をしているようだった。
「Silk! Are you OK?」
叫ぶ声が聞こえる。その声に俺が視線を向けるとそこにはニンジン髪の少女。彼女は俺達とは離れた場所で何かに向き合っている。長い髪が揺れている。小柄な体に取り付けた胸当てが、肘当てが、膝当てが、彼女が戦う者なのだと語っている。
「Die!」
見つめる視界の先に飛び込んできたのは俺を追いかけていた奴とは別のくちばし男。そいつはニンジン髪の少女に向かって腕を、いや、その手に持った剣を振り下ろしていた。そして、
「Shit! Go away!」
狙われるニンジン髪の少女もまた、その手に持った剣を振り上げそれを迎え撃っていた。
「Please!」
背後から声を掛けられる。レモン髪の少女だ。そんな彼女の姿もよく見れば、髪は後ろに綺麗に結い上げてあり、上等なローブを身に纏い、頭に被っているのは小さな角帽子。茶色の瞳で俺を見つめて何かを訴えるその姿はいかにもヒロイン然としていて。
「Brucia!」
轟音がした。視線を再びニンジン髪の少女の方へと向ければ、彼女はくちばし男の手から放たれる1m大の火球を受け止めていた。あれは多分、魔法だ。ちりちりと感じていた熱の正体を知る。
「マジか……」
目まぐるしく動く状況に俺の頭はパンク寸前で。だからその時、俺は呟いてしまっていた。
「完全にファンタジーだなこれ」
実に思考が回っていない言葉だな、なんて。自分の中の冷静な部分がツッコんでいた。