第3章―2
「ほーら、おじいちゃんだよ」
部屋の隅で父がルキアをあやしていた。半分だけ開いた窓から、春の暖かな日の光が緩やかに差し込んで、ゆりかごを暖めている。ゆりかごにかかる薄い日よけのベールが流れ込む風にふわり、と揺らめいた。
「可愛いなぁ。やっぱり俺の孫だからかなぁ、うん、この凛々しい眉は俺にそっくりだ! きっと俺に似ていい男になるぞ!」
間抜けなその声が執務室全体に響き渡る。……違うって。恥ずかしいから、もうやめて!
あたしは、心の中でそう叫びつつ、仕事に集中しようとしていた。机の上の書類はまだ、山のようにあった。気を散らしていたら終わらない。
――えっと、これはハリスの地方官からの嘆願書ね。特に書いてある事に裏は無いみたい。それから、こっちはオルバースの商家からで、塩の値上がりについて。……ん? 何かひっかかるけど……――
「いないいない、ばぁ!」
「きゃっきゃっ」
父の怪しげな声に混じるルキアの高い声だけはしっかり耳に届く。とたんに集中力が途切れてしまう。
あたしは思わず隣の机で作業をしているシリウスにちらりと目をやった。その綺麗な横顔。漆黒の瞳は書類をしっかり睨んでいたけれど、口元は僅かに緩んでいた。
仕事を始めて二月ほどが経っていた。ルキアが産まれて五月。もう季節は春になっている。
シリウスは週のうち二日ほどを本宮で過ごし、残りを離宮であたし達と過ごすようになった。生活のリズムも整って、顔色も良くなっている。声にも力が戻っているような気がした。
あたしは、彼が、相当に無理をしていたんだって分かって、反省した。自分とルキアの事で精一杯で、彼の本心に気づく事が出来なかった。彼は、本当に疲れていたみたいだった。それはそうかもしれない。昼間働いて、馬を駆って帰って来て、そして、帰るとあたしが待っていて、夜中にはルキアの泣き声で起こされて。
離宮で仕事を始めてからは、シリウスは隣室で眠るようになった。『ルキアの機嫌が良くて、すやすや眠ってて、誰かに預けてもいいくらい――僕の相手はそういう時だけでいい』――彼は自分で言った言葉通りにあたしと距離をとるようになった。あたしに触れなくなってしまった。そして、あたしは、未だにルキアを預けられなかった。ルキアはあたしがいないと泣くのだから仕方が無い。でも――
あたしは不眠に悩まされていた。まるで昔、シリウスに触れないと力を制御できなかったあの時と同じだった。彼の腕の中で眠ることに慣れたあたしは、彼を失って力を持て余してしまっていた。体の中で力が渦巻いて、外に出たいと唸り声をあげる。自然に眠りは浅くなり、その上悪夢まで見るようになっていた。
だれかが、ルキアを連れ去っていく夢。いくら必死で抱きしめようとも、腕の中から強引に奪い去られて、闇の中にその姿が消える夢。
その夢は以前は見る事が無かったものだった。
彼と離れて眠るようになって初めて気がついた。
あたしは一人じゃ怖くて眠れなかった。あたしが落ち着いて眠る事が出来るのは、彼の腕の中だけだったみたい。シリウスの為って言いながら、彼との時間を欲しがってたのはあたしだったのだ。
シリウスはあたしの不調にすぐに気がついたけれど、ルキアが夜泣きをするからと誤摩化していた。
もし本当の理由をいえば、彼はまたあたしと一緒に寝てくれるだろう。ただし、それはルキアを預ける事が条件になる。でも、あたしは彼が求める通りにルキアを預ける事がどうしても出来なかった。もちろん預けようと考えた事もある。だけど想像するだけで、すぐに息が出来ないほど苦しくなって、諦めた。――悪夢を見た方がまだ楽だったのだ。
シリウスは離宮にいない時に、いろいろ仕事以外の事を済ませてくるようだった。内容については彼は一言も教えてくれない。ヴェガ様や父の口から溢れるその断片を拾うだけ。彼らもシリウスがあたしに言わないのならと、直接話してくれる事は無い。あたしとルキアの為に彼が手を尽くしてくれている、それだけしか分からなかった。とにかく、あたしは余計な事は考えずに、ルキアの事だけ考えていればいい、そういう事らしい。
皆が、あたしを守ろうと、気を使ってくれてるのは分かる。
でも……それがとても落ち着かない。ルキアはともかく、あたしは、そんな、大事にされるような存在じゃない。あたしに気を使うなら、その分をシリウスに回して欲しいと真剣に願った。
「あぅ、あぁー! あぁあ!」
「お、おい、スピカ!」
突然ルキアがぐずりだす。外を見ると、いつの間にか随分と日が傾きかけていた。父があたふたとルキアを抱いてあたしのところにやって来る。
「腹か?」
「たぶん」
さっきお乳をあげたのがお昼だから、もうそろそろそんな時間だった。
ルキアを抱くと、ソファに移動して、呼び鈴を鳴らした。ルキアはもうお乳を探して鼻をぐずぐずと鳴らしていた。
「レグルス」
シリウスが椅子から立ち上がって、父を呼ぶ。
「はい。行きましょうか」
父が部屋から出て行く。シリウスは帯剣しながら、あたし達を見て少し微笑む。
「夕食までには戻るから」
あたしは頷いてその背中を見送った。
入れ替わりでシュルマが入室して来る。彼女が押すワゴンの上で、茶器がかちゃかちゃと音を立てていた。
「皇子は剣のお稽古ですか」
あたしは彼女を見上げて頷く。シリウスは、離宮で仕事をするようになってから、昔と同じように父に剣を指南してもらっていた。本宮でこっそりやっていたそうだけど、どんな師をつけても父に習うほど上達しなかったそうで。
胸元ではルキアがむずがっていた。顔が真っ赤でくしゃくしゃになっている。その口が、早くお乳をくれとばかりに動く。
「かーわいいですねぇ」
シュルマが覗き込んでニコニコしていた。
彼女には隠し通せない、そう思って、改めて全部話してあった。皆も、出産時に立ち会ったのだから、話した方がいいと賛成してくれた。力の事、母の事、シトゥラの事、それからルティの素性まで。そして、その身の振り方を選んでもらった。
彼女は全てを知った上で、相変わらずあたしの傍にいてくれた。「皇子以外の子供であるものですか!」と言って、あたしを励ましてくれた。味方が少ないあたしにとって、彼女の存在は救いだった。
「はい、お粥ですよ」
彼女はそういいつつ、一さじ器の中から粥を掬って手の甲に乗せると、自分の口に運ぶ。毒味だった。
ルキアも離乳を進める時期だった。一日一回、粥や、柔らかく煮た野菜を少しずつあげる事になっていた。となると、当然毒味も必要になる。粥はシュルマ自身が作ってくれているのだけれど、彼女はいつもこうして自分で毒味をしてくれる。あたしを安心させようとしてくれていた。
「ありがとう」
あたしは匙を受け取ると、すでに半狂乱のルキアに一匙の粥を与える。ぴたり、と泣き止んで、もぐもぐと口を動かす。口の中の粥がなくなると、またぐずぐずと次を催促する。ひな鳥の様で、乳を飲んでいる時とは別の可愛らしさだった。
「可愛いですねぇ」
シュルマは再び言いながら、二人分のお茶を用意する。そして、あたしの目の前の椅子に座って、ニコニコと様子を眺めた。
周りに人がいない時は、シュルマはこうして友人の位置に立ってくれる。あたしが頼んだ事だった。妃として宮に帰って来て、付いてくれる侍女がいなくて困ってた時に助けてくれたシュルマ。あたしが殺人事件の犯人として捉えられた時も信じて応援してくれた彼女は、今まで異性は愚か同性の友人もいなかったあたしにとっては、大切な宝物だった。
今だって、こんな微妙な立場のあたしを相変わらず応援してくれる。
彼女の実家は南西部のオルバースにある。もともと裕福な貴族だった。オルバースは隣国との交易が盛んで、彼女の家も商売で身を立てている。そのせいか家族全員シュルマのように気さくで明るいそうで。あたしの侍女を続ける事には最初は渋い顔をしていたらしいけれど、最後は頷いてくれたらしい。それは本当にありがたい事だった。あたし一人だけだったならば、もうそれだけで十分な事だった。
心配するのは、ルキアの事。後見してくれる家を持たない皇子。のど元まで出かかった言葉を、用意してもらったお茶で流し込む。
――お願い。ルキアの後見を――
でもどうしても言えなかった。これ以上、彼女に迷惑はかけられない。ルキアの血筋が疑われれば、彼女も彼女の家も共倒れとなってしまう。……だとしても、いつか誰かに頼まなければいけない事だった。
現状シリウスの後見をしてくれているのはアルフォンスス家だけ。しかし、その家は既に主を失い家としての機能を果たさず、名ばかりの物だった。ルキアの後ろ盾は全く無いと言って良かった。
シリウスが今本宮で動いてるのはきっとその事。彼、もしくは、ルキアの強力な後ろ盾を探す事。そんな風に推理するのは容易だったけれど、それがとても難しい事を想像するのもまた、容易だった。
「皇子も随分上達されてますねぇ」
窓から外を見ていたシュルマが、窓を閉めながらそう呟く。高く響いていた剣のぶつかり合う金属音が、窓に遮られて小さくなる。
日が暮れて入り込む風が冷たくなって来ていたので、閉めてもらったのだ。
腕の中ではルキアがうつらうつらとしている。粥の後、おっぱいを飲んだら眠くなったみたい。
あたしは、ルキアをゆりかごに運ぶと、起こさないようにそっと寝かせる。口元のよだれを布で拭うと、軽い羽根の布団をお腹に掛ける。
そして、ソファに戻ると、テーブルの上の茶菓子に手を伸ばした。シュルマ特製の干しぶどうとクルミ入りの焼き菓子。
「皇子は、弓は得意なの……でも剣は」
――あたしの方が上手だったかもしれないわ。ふと昔を思い出す。暗殺から逃れてハリスに逃亡していたとき、練習で手合わせしたら、大抵あたしが勝っていた。弓は全く敵わなかったけれど、剣はあたしが僅差で上だった。あたしの中の父の血と、あとは彼のあの性格のせいだろうと思う。
でも今は……あたしは剣を持てないから。だから無理して練習してる。いくら練習しても……彼に人は切れないのに。
「ぜーんぶスピカのため」
その含みのある声に顔を上げると、シュルマがニヤニヤとこちらを見下ろしていた。
「羨ましいったら、ほんと。優しくて、賢くて、その上あんなに美しい皇子様に愛されて」
あたしは何も言えず顔を赤くする。シュルマにはあたしが沈んでるのが分かったのかもしれない。侍女の仮面を外した、軽い調子のおしゃべり。励ましだとすぐに分かり、心が温まる。
「その幸せそうな顔! 独り占めはずるいわよぉ? ……あぁ、私もあんな素敵な方に一途に愛されたい。いっその事、側室にしてもらえないかしら」
うっとりと言われたとんでもない言葉にぎょっと目を剥くと、シュルマが吹き出す。
「ぷっ、スピカのその顔ったら! 顔が引きつってるー! アハハ、じょ、冗談よ!!」
「も、もう、シュルマったら!」
励ましてくれるのは嬉しいけど、たちが悪い冗談はやめて欲しい、本当に。
「私じゃ無理だって! 私だけじゃないわ、――そんじょそこらの女の子じゃ無理」
一転して真剣な物言いに、あたしは文句を言おうとした口を閉じる。
「皇子って……あなたより前には誰も寄せ付けなかったじゃない? 成人されるまで女っ気がまったくないって珍しい事よぉ。宮じゃ、だいたいその前にお付きの侍女と出来てるのが普通なの。だから貴族は皆こぞって娘を宮仕えさせるんだから」
……それは……。
あたしはぐっと唇を噛む。彼が閉ざしたままの心の扉。あたしに決して見せてくれない心の闇。力が制御できる今、いっそのこと消してあげたいのに、彼はその闇を抱え続ける。その部分だけは触れる事が出来なかった。
「どんな美しい侍女でも落とせなくて、てっきり皇子は少年がお好みか、みたいな噂さえあったのに」
「そ、そんな噂があったの?」
それは、ひどい。当時彼の耳に入っていたら相当に傷ついてるはず。
「下世話よねぇ。でもそうでも言ってないとプライドが許さないお嬢様方がいらっしゃったみたいよ? そういう娘はさっさと宮仕えを辞めていったけど」
下世話とプライドという響きになぜだかシェリアを思い出した。あの可憐な見かけにそぐわず、随分とプライドが高くて、勝ち気なお嬢様。そうだわ、彼女が偽造したあたしのうわさ話は下世話という表現がぴったりのものだった。……彼女は今一体何をしてるのかしら。そう思いながら、ぼんやりと相槌を打つと、シュルマが眉をひそめる。
「ほら、スピカ? ぼんやりしちゃ駄目よ。聞いてたの? つまり、そういう娘が敗者復活戦を挑む可能性があるってことでしょう」
「え? 敗者復活?」
「ここ数ヶ月で急に侍女の数が増えてるの。正式な縁談で落とせないなら、既成事実を作ってでも、っていう輩よ。心配させるのもどうかと思ったけれど……ごめんね、……私、ここのところずっと皇子が別室で休まれてるのが気になって……」
胸をぎゅっと掴まれた様で息が詰まった。
「昼間の貴方達を見ていたらなにも心配する事は無いって思うのだけど、……夜、一人で休まれてる皇子を見るとどうしても心配になるの。ルキア様のことで頭がいっぱいかもしれないけれど……皇子の事も忘れないでいてあげないと」
「忘れてなんかいないわ……ただ、ルキアが泣くから……」
シュルマの目を見ずに言い訳した。
「一晩くらい預けてもらっても平気よ? 私で心配なら、レグルス様にお願いするとかヴェガ様にお願いするとか……」
「だめなの」
口からするりと否定の言葉が出る。条件反射のような反応に自分で驚いた。
「どうして?」
「……」
そういえば、どうしてなんだろう。――ルキアが泣くから? あたしがいてもいなくてもルキアは泣く時は泣く。それなのに、なぜ?
答えが出せずに黙り込むと、シュルマがあたしの顔を覗き込む。そして彼女には似合わない不安げな声で言い募った。
「まずは一刻だけでもいいの。……ちゃんと皇子を捕まえておいてよ。でないと……。私――なんだか嫌な予感がするのよ」
* * *
吐く息が白く濁る。春の夜の冷たい空気が空から振りそそぎ、体の熱を奪う。
離宮の裏庭で僕とレグルスは睨み合っていた。夕日の色がレグルスの剣に映る。紅い。血の色に見えて、一瞬ぞくりと肌が泡立つ。
「まだいけますか? ――では、……遠慮なくいきますよ」
「ああ」
今日はまだ、一本も取れていない。今度こそと、僕は剣の柄をしっかりと握り直し、中段に構える。目の前のレグルスは、同様に中段に構えると剣先を軽く揺らす。僕の視線が切っ先に捕われた瞬間を狙って、右手の手首に打ち込んで来た。
武器を捨てさせて降参させる、彼の手だ。レグルスは大抵致命傷にならないように手を狙う。僕もそれに習った。宮で習っていた師は、ことごとく急所を狙わせた。命を取る剣だった。それは、僕にはどうしても向かなかった。レグスルの剣は彼らとは違う。だれも傷つけない剣――相手の覇気を削ぐ剣だった。
僕は剣先をかわすと、同様に右手を狙う。彼はするりをそれをよけ、頭に剣を振り下ろす。思わず剣で庇おうとして、開いた胸元に鋭い刃が突きつけられた。
「……一本ですね」
冷や汗がこめかみを流れる。
剣は紙一枚のところでぴたりと止まっていた。
「も、もう一本」
僕は剣を構え直すと、今度は彼の胴を狙う。彼は軽くそれを剣で払い、やはり手へ刃を叩き込む。剣を右に傾けそれを跳ね返すと、今度は左手を狙われる。一歩後ろに飛び退き、剣を頭上に振り上げる。無防備なその頭に振り下ろそうとして、一瞬その緑灰色の瞳に気持ちが捕われた。直後、防具を巻いた腹に鈍痛が走り、地面に膝を付いた。――剣の腹で、殴られたのだ。
「う……」
「一本です」
呆れたような声が頭上から降ったかと思うと、腕を抱え上げられた。
「……駄目です。躊躇っては」
「でも」
「あなたの剣くらい、避けられます」
「万が一あたったら、まずいだろう? 死ぬよ?」
「あなたは……何の為に剣を習っているのです」
「……」
「あなたが躊躇っている間に、あなたは死にます。自分の身も守れない人間が、人を守ることが出来ますか」
「……僕は、人を切りたくない」
そこまで言われて、ようやくぽつりと本音が溢れる。僕の行動は矛盾してる。でも、どうしても人が傷つくのを見るのは駄目だった。レグルスはやれやれとため息をついた。
「あなたが人を傷つけたくない、そう思われるのは、素晴らしい事です。だが……それは、少しでも間違うと甘さと言われます。わたしは、その甘さが、いつかあなたを滅ぼすのではないか、そう心配しています」
レグルスは木の根元に腰掛け、置いてあった水筒を僕に差し出した。僕は蓋を開けると、音が鳴るくらいの勢いでそれを飲み干した。再び差し出された布を受け取ると、顔の汗を拭い、彼の隣に腰掛け、俯いた。
足下では庭の芝が夕日に赤く燃える。目線をあげると離宮の開かれた窓の奥で、燭台に火が灯されるのが見えた。僕は隣のレグルスの様子を伺う。彼の周りには、先ほどのルキアに対する微笑ましい態度が嘘のような厳しい雰囲気が漂っていた。
――――何か、他にも言いたい事があるんじゃないのか。
ルキアが産まれたとき、僕は彼の頼みを断った。以来、いつもレグルスが何か言いたげにしているのを感じていた。一度、話をしないといけない、そう思っていた。だけど話をする機会がなかなか無くて。多分、そうする時が来たのだ。僕は黙って続きを待った。
じりじりと時間が過ぎる。足下に木の影が届き、それは次第に長く、そして薄くなった。
レグルスは何かを覚悟するように口を開く。
「あなたは、甘い。……今度の事でもそうです。あなたのせいだとは誰も思っていない。あなたは被害者だった。
だけど、私はお願いした、スピカの願いを聞いて欲しいと。スピカはあなたと子供、どっちをとるかで迷っていた。あの子が、あなたをとると言えば、仕方ないと思っていました。あの状況であなたがとれるとしたら、スピカだけでした。あなたのことだ、もしルキアの存在を消せば、私があなたもスピカも許さない事を分かっていたのでしょう? だけど、それはつまり、ルキアと私を消してしまえば、スピカだけは残せたということだ。私はあなたのスピカへの執着を知っていましたから、あなたがそうすると思っていました。それなのに、あなたは……全てを取ろうとした。
ルキアを救ってくれた事には感謝します。あなたは優しい。でも――甘い。甘すぎる判断です。策などどこにあると言うのです。私には道など見えない。このままだとスピカも、ルキアも、どちらも最悪の形で失うことになる。
――もし、どちらか一方でも欠けたら、その時は、今度こそ私はあなたを、『あなた達』を許しません、絶対に」
僕は息が出来なかった。相槌さえ打てなかった。僕が頭の隅で考えた事を見抜かれていたのもある。しかし、それ以上に、おぼろげに感じていた事をはっきりと形にされて、心が凍えた。――レグルスは、スピカの味方であったとしても、未だに僕の味方ではない。そして『あなた達』というのは、スピカと僕ではなくきっと――。
「あなたは、スピカの願いを聞くべきだった。愛するもののために、自らの想いを犠牲にするべきでした。私は、前に言ったでしょう。スピカが幸せであれば……それは『誰』の隣でもいいと。ああ、幸せが何かなど聞かないで下さいよ。生きていなければそんなもの、存在しない。恋は破れても、またする事が出来ます。でも命は一度きりなのです。
私が言っている事は……分かりますね? もし、スピカが自分の意志であなたの元を離れた時は……もう追わないでいただきたい」
レグルスは立ち上がる。
僕は彼の言葉が何か予言めいているように聞こえて、不安で胸をかきむしりたくなる。否定して欲しくて、問いかける。
「レグルス……君は」
――まさか、僕からスピカを攫おうとしているのか?
縋るように彼を見ても、見えるのは彼の肩越しに映る真っ赤な夕日。彼の表情は逆光で確かめられない。
「……皇子には私の覚悟を知っておいて欲しかった。私はあなたの事は好きですよ。息子のように思っていると言うのは本当です。――でも……時折ふと思い出すのです。あなたは……やはり、あの帝の子だ」
やっぱりそうだ。レグルスは――――
「リゲル様を……あなたの母君を殺した、帝のね」
夕日が沈む。
闇の中、現れた彼の緑灰色の瞳は冷たく凍えていた。
僕はずっと勘違いをしていた。レグルスは、……父を、いや、僕を含め、何も許してなどいなかった。