第3章 繕いだらけの幸せ―1
「……ピカ、……スピカ!」
遠くで声が聞こえる。まだ、寝かせてて。昨日は全然寝れなかった……
「おい、こら! 皇子が戻られたぞ!」
耳元で囁かれて反射的に飛び起きた。
「え、シリウス?」
思わず大きな声が出て、その声に反応するようにルキアがふぇと泣き出した。
「……あぁ」
せっかく寝かしつけたのに……
思わず声の主を睨むと、
「バカめ、頼んでおいたのはお前だろう?」
父が呆れた様にため息をついていた。そしてゆりかごに目を落とすと一転してその厳つい顔を緩ませて手を伸ばす。
「あ! 父さん手を洗ったの!?」
「お」
そのごつごつの大きな手がぴたりと止まる。渋々の様に父は部屋の隅に手を洗いにいく。親ばかは対象を孫に変えて継続中だった。それはもう、見てて恥ずかしいくらい。父が言うには、娘とは別の可愛らしさらしい。
あたしがそっとゆりかごから抱き上げると、ルキアはぴたりと泣き止み、甘えるように頬を胸に押し付けて来る。その仕草が可愛くて仕方が無い。頬にキスをする。だいぶんしっかりして来た首を支え、縦に抱く。するとその小さな手があたしの寝間着をぎゅっと掴んだ。
微かな音に振り向くと、扉がそっと開かれ、恐る恐るの様に漆黒の瞳が部屋の中をのぞいた。
「起こしちゃった? ごめん」
「……お帰りなさい。こちらこそごめんなさい、先に寝てしまってたわ。寝るつもり無かったのに」
「寝ていていいんだ。顔だけ見るつもりだったから」
そう言って、彼はその長い黒髪を器用に後頭部で縛ると、父の後に続く様に手を丹念に洗い、ベッドの脇にやって来る。そして長い指で恐る恐るふわふわの頬に触れ、幸せそうに微笑んだ。
「ルキア、ただいま、お父さんだよ」
暖かい声でそう話しかけるシリウスは、次第に言葉通りにお父さんの顔になっていく。毎晩、遅くまで宮で仕事をして疲れてるだろうに、その事を微塵にも感じさせない。
しかも今は冬。彼の纏う空気は未だにひんやりと冷たい。部屋は暖房が効いていて分からないけれど、外は相当に寒いはずだった。それなのに、彼は本宮の自分の部屋で休まずに、律儀にこの離宮まで戻って来てくれる。だからあたしも彼が帰ってくるまでは起きていようとするのだ。
ルキアが産まれて三月ほど。あたしとルキアは新年の喧騒が通り過ぎるのを待ち、こっそりと宮へ戻って来た。
〈療養〉という言い訳は意外に長い間通用していた。あたしが邪魔な人間には都合が良かったらしい。帰って来なければいいと皆期待していたようだった。あたしが居ない間にシリウスに新しい縁談がいくつかあったと言う事を風の噂で聞いていた。そもそも皇子である彼ならば妊娠中の浮気などごく普通のこと。過去には腹違いの子が同じ年に何人も産まれたこともあるらしい。彼は何も言わないからこっそり心配してたんだけど、彼が鼻にもかけなかったという事をセフォネから聞いて、心の中が暖まった。
あたしが子を産んだ事はさすがに隠し通せる事ではなく、宮の中でひっそりと広まっていた。この国の慣例として子が一歳の誕生日を迎えてから、正式に発表する事となっている。
悲しい事だけれど、一つの誕生日を迎える前に病などで子が命を落とす事が多いためだった。もちろん命を落とす理由は病だけではない。過去、勢力争いに巻き込まれて、暗殺される子も多かったと聞く。
そんな理由もあって、シリウスはあたしを宮に戻す手配を慎重に整えていた。帝に事情を話したところ、髪の色の事はしばらく伏せておくこととなり、子が目につかない様にと離宮をあたしとルキアの為に用意してくれた。帝が子の髪の色について何と言ったのか、あたしはまだ知らないでいた。帝が新しい皇子の顔を見に来ないこと、シリウスがその事に触れたがらないことから、だいたい想像はつくのだけれど。
この離宮は以前ミルザ姫が使っていた離宮で、本宮から馬の足で半刻ほど山を下りた場所にある静かな場所だった。警備に多少不安があったため、彼は妊娠中と同様に父をあたしの傍に置く事にした。その上、自らの警護の人員を裂いてこちらによこしてくれていた。そして、それでも不安なのか、ひっそりと苦手な剣の稽古を再開したようだった。あたしが何も知らないと彼は思っているみたいだったけれど、そんなこと、手の『まめ』を見れば、すぐに分かる。
彼は離宮に住み着いた。朝早くから出かけ、夜遅く帰って来る。そんな皇子というのは過去に例が無かった。
あたしが彼の負担を心配すると、シリウスはただ「君は何も心配しなくていい。ルキアを頼む」そう言うだけで、全てをその背に背負ってしまおうとしていた。その姿を見て心が揺れる。
――あたしは、ルキアを産んですぐに彼が言ってくれた言葉を撥ね付けられなかった。シリウスの事を考えたら、絶対に受け入れてはいけなかったのに、あまりに心を揺さぶられて、断る事なんかできなかった。ただ自分の為に受け入れてしまった。
そして今あたしはその事を後悔し始めている。
彼がルキアを見る時の愛情の籠った眼差し、お父さんの顔。
彼は――いつか来るかもしれない別れに耐える事が出来るのだろうか、そんな事を考えてしまう。
あたしは……シリウスを信じたいと強く願う一方で、どうにもならない現実と戦っていた。
日に日に赤くなるルキアの髪を撫でる。
顔を覗き込むと、無垢な丸い茶色の瞳があたしの戸惑った顔を映し出す。
――こんなに可愛らしいのに。こんなに愛しいのに。シリウスの子供だと、なんで証明できないの。
事実を確認する事は出来た。
もう一度、シトゥラへ行って……あの部屋を調べればいい。あの夜の出来事を『見れば』いい。
それはとても大変な事。あの屋敷に潜り込むなんて……捕まえてくれと言ってるようなもの。
そして、もし侵入を果たせて、過去を見て、何も無かったとしてどうやってそれを証明すればいい? あたしはそれを知って、安心できるし、シリウスも信じてくれるだろう。
でも……あたしを信じない人間には、そんなのあたしがそう言ってるだけだと、それだけの事だと言われてしまうのだ。
宮に流れていたうわさ話を思い出す。シリウスの妃になるのを嫌がってルティと逃げたあたし。そして髪の色が明らかになれば、その間に孕んだ子供だと言われてしまう。
万が一、本当にルティの子供だったり……、どうしても違うと証明できなかったら。
きっと、あたしも、ルキアも――――
考えついたその思考に身震いする。
「スピカ? どうした?」
その心配そうな声にはっとした。
「な、何でもないわ」
慌てて暗い思考を振り切り表情を取り繕った。シリウスはただでさえ疲れてるんだから。余計な心配はかけちゃいけない。
「……ごめんね、あんまり育児を手伝えなくて。疲れてるんだろう? 毎晩、起きてなくていいんだよ」
「あたしがあなたの顔を見たいのよ。寝ちゃったら見れないじゃない」
あたしは小声で言いながら、いつの間にか腕の中で眠ってしまったルキアをゆりかごに戻す。そして部屋の隅で名残惜しそうにルキアを見つめている父を見やる。眠ってるから連れて行ってもらってもいいけれど……と一瞬考えたけれど、泣き出した時の事を考えると妙に心が騒いだ。
結局あたしは……――父さんはいつも一緒でしょ、と目で訴える。父の洗った手は孫を抱く事無く哀れに揺れた。
扉から父の悲しげな大きな背中が消えるのを見て、あたしはシリウスに微笑みかける。
ルキアが次に起きるまで。ほんの一刻か二刻の二人だけの時間。
躊躇うように唇が触れる。ゆっくりと目を閉じる。
シリウスは無理しなくていいって言うけれど、それはあたしの台詞。こんな風に毎日無理してでも戻って来る彼が愛しい。
体は本調子じゃなかった。でもそれを隠してでも、彼に応えてあげたかった。
あたしは、焦っていたのかもしれない。
多分、この幸せな時間が永遠には続かないと……頭の隅では分かっていたのだ。
*
手の中でペンをくるくると回す。その影が書類の上を同じ様に踊っていた。
いつしか文字ではなく影を追っている事に気がついて、僕はペンを回すのをやめ、文字を追う事を再開する。
各都市から集められた嘆願書の内容を纏めて、会議で報告する。それが僕の仕事の一部だった。父からその役目を任されたものの、仕事を始めた立太子直後よりも嘆願書の数が随分と増え、日に日に時間がかかる様になっていた。その上、僕には個人的にしなければいけない事が大量にあり、もう自身の許容量を超えているような気がしていた。
それでも、やらなければ終わらない。目を閉じて、書類の内容を反芻する。
――ハリス、オルバース……不法入国者の数は……先月よりさらに増える、か。兵をまた派遣しないといけないのか。一度また視察にいくべきか……でも……宮を空ければ、スピカとルキアが
何を考えていても最終的に思考が行き着くのは彼女のところだった。
目を開けると、目の前の壁で暖炉の炎の色がゆらゆらと踊っていた。しっかりと閉じられた窓は冬の外気と同時に外の光を完全に遮っていた。日が暮れたのか確かめたくて、天井近くの小さな明かり取りの窓を見やると、外はもう真っ暗だった。ああ、もう、帰らないと。スピカがまた寝ずに待っている。
「疲れていらっしゃいますね」
低い声に扉を振り向く。いつの間にか、イェッドが扉の脇に佇んでいた。
「……いいや」
前髪で表情を隠しながら言う。多分、顔色はひどく悪いはず。
「目の下に隈が」
「……」
「たまには本宮でお休みなられては? 毎日戻る必要も無いでしょう?」
「……」
「侍従の言う事は聞けませんか。……じゃあ、主治医として言います。スピカ様を休ませて下さい。それからあなたもお休みください」
「……」
分かっていた。スピカの疲れが極限で、僕の疲れも極限に達しようとしてる事など。
分かっているのに。
離宮に帰る事にしたのはもともとは単純に警護の強化のため。僕が居れば自然、警護も手厚くせざるを得ないから。もちろんスピカやルキアの顔を見たいってのも否定しない。でも……それ以上の事は願っていなかった。
彼女はそう自覚していないみたいだけれど、なにか義務だと思っている節がある。頑張っている僕にご褒美をあげるかのような、そんな感じがする。そうだ、以前イェッドが言っていた「お情け」、きっとそれに近い。
悔しい。僕は、もっと頼られたいと思ってるというのに、……彼女は僕を存分に甘えさせるくせに、自分はまったく甘えようとしてくれない。
その母のような態度は、以前よりもひどくなっている気がした。
僕は昨日のスピカの様子を思い出して、深いため息をついた。
――ルキアへの態度と僕への態度があまり変わらないことに、彼女は気がついているのだろうか。
いくら情事の最中だとしても、ルキアが泣き出せば瞬時に母親の顔を取り戻すスピカ。お乳をあげて、おむつを替えて、寝かしつけると今度は僕の番というように。ルキアにお乳をあげるのと同じ顔で、「お腹が空いてるんでしょう」って言うような気軽さで、僕の腕の中に滑り込むスピカに、彼女が見せる艶やかな顔が作り物なのではないか、そんなことさえ考えてしまう。
それに……スピカはどこか変だ。いくら寝てるからといっても……、僕は隣にルキアがいるのは落ち着かない。スピカがどうして平気なのか分からなかった。以前の彼女なら……キスでさえも人目があれば嫌がっていたと思う。
僕が頼み込んで、ルキアを預けたことはあるけれど、それも一度きり。ルキアはすやすやと眠っていたはずなのに、何か察したように激しく泣き出した。それ以降、彼女はレグルスにさえ任せない。理由を付けてルキアを一瞬たりとも離したがらない。母親が子を想う気持ちにしても、行き過ぎているような気がした。
多分……誰かに奪われるのを無意識に恐れているのだと思う。そしてその恐怖がスピカを狂わせてる様にしか見えなかった。
彼女は自分がおかしい事にも気づかない。レグルスも叔母も、彼女の周りの人間は、スピカを壊れ物のように扱う。少しでも均衡が崩れれば……本当に彼女が壊れてしまうのではないかと思えた。
僕は彼女を現実につなぎ止めたくて、彼女を抱いた。僕と過ごした日々を、二人で乗り越えて来た事を思い出して欲しかった。
彼女は当たり前の様に僕を受け入れてくれた。
でも彼女を抱いても彼女を手に入れられなかった。彼女の心はどこか遠くを漂っていて、僕はそれを追いかけ続ける。そして、訪れるのは空しさだけ。体が満足するだけだった。何の為にそうしてるのかも分からなかった。ルキアが産まれる前、心の底から求め合ったのが嘘のようだった。
歪だった。終わりにしたかった。でもどうすれば終わりに出来るのか、今の僕にはわからなかった。
「本当は顔を見るだけでいいはずなんだ。でも……スピカのあの縋るような目を見ていると……駄目だ。明日にでも消えてしまうんじゃないかって、不安で堪らなくなる」
思わず弱気が口から飛び出す。レグルスや叔母には言えなかった。特にレグルスには。あのスピカと同じ色の瞳は、いつも僕に何かを訴えている。弱気になっているのは知られたくなかった。彼女を手放せ、そう言われるのが怖かった。
何でもいいから突破口を僕は探していた。イェッドなら……僕たちに近すぎず、遠すぎない彼ならば、何か見えるものがあるのではないか、そう思った。
彼は黙ったままだった。その茶色の瞳が何かを探し求める様に天井を彷徨う。
やがて彼は小さな声で呟いた。
「あなたは、いえ、私たちは……彼女の事を何も分かっていないのかもしれません」
「え?」
「あの子の自己犠牲の精神は……異常です。特にあなたに対する『態度』は……傍目に見ていても不自然なくらいですし。昔からですか?」
そうか、皆にもそう見えるのか。自分では分かっていた事なのに、落ち込むのが分かる。
「……多分。いや、違うか」
昔は、スピカも子供らしい子供だったはずだ。おぼろげに我が儘を言い合って喧嘩した思い出だってある。それが変わったのは……
僕は思い出す。
じりじりと全身を焼き付ける太陽。息が苦しいほどの熱気。止まらない涙。握りしめた黄色い小さな花。瞼の裏に浮かぶのは――母の墓だ。その隣で……金色の髪をした幼い少女が僕を心配そうに見つめていた。
――あたしが守ってあげる。あなたが泣かなくてもいいように
彼女が変わったのは、きっとあのとき。僕が失った母という大きな存在を埋めようとして……彼女自身が僕の母になろうとした。
そして未だ、彼女はその幼い約束に縛られたまま、僕の『母』であろうとする。
シトゥラの娘はもともと自己犠牲を何とも思わないと……昔聞いた。その性質と約束が絡み合って、今のスピカの精神を作り上げているのかもしれない。だとしたら、僕は、その約束を壊さなければならないのだ、きっと。
「スピカは……昔言ったんだ。『あなたを守ってあげる』って。そして未だにその約束に縛られているんじゃないかと思う」
「じゃあ、あなたはそれを反古にしてあげなければいけないのですね」
イェッドがふむと納得したように頷いた。けれど、……一つの懸念が僕を頷かせなかった。
彼女を縛っている約束の重みが彼女を僕の元にとどめているとしたら――
その約束が壊れた時に……彼女は僕の隣に居続けようとしてくれるのだろうか。
母ではなく、恋人として、妻として、僕の元に留まってくれるのだろうか。
そのとき、改めて気がついた。僕は『彼女に自由を』と口に出しながら、そんな事をまったく望んでは居ないのだ。彼女の翼をもいでいるのは……他の誰でもなく、僕自身だった。
*
「あなた……浮気の一つでもしてみたらどうです」
突如イェッドの口から飛び出した言葉に、僕はうんざりする。なんで彼がこんな事を言い出すのか分からない。
「何言ってるんだよ」
「一つの案ですよ。そうすればスピカ様も妬いて、自分が妻だと思い出されるかもしれません」
少しだけ心を動かされる。久しくそんな愛らしいものは見ていない。彼女が焼きもちを焼くところを見てみたい気もした。……いや、彼女の事だ。妬くのではなくて……即、出て行くか。だいたいレグルスに殺される。
「問題外だ。自分から手放してどうするんだよ」
そう言い捨てると、イェッドは声の調子を落として呟く。
「『スピカが居ないと生きていけない』」
「?」
「あなたはそう言います。事実そう見えます。しかし、それは本当であれば問題です」
「なぜ? だって、僕にはスピカが必要だ」
「人は、もともと一人です。そして、お互いが自立しているからこそ、いい関係が築けるのです。あなた達の関係は、……互いが互いにもたれ合ってる様にしか見えない。支えを失って一人で立てないような関係は、互いの為に良くない」
一体何が言いたい? 人は支え合って生きるものだろう? 支えを失わない為に、頑張る事は駄目なのか? 彼が言いたい事がよく分からなくて目で説明を求めると、イェッドは苛ついたように眉をひそめる。そして短く息をつくと、腕組みをして、うろうろと部屋を歩き回る。
「とにかく」
彼は何かを振り払うように短く言う。
「悪循環を抜け出さないといけませんね。お二人とも心身ともに疲れすぎて、今の状況から抜け出せなくなっている。
……スピカ様は……あの子は、あなたの為に何かしなければいけないと思い込んでいるようですし。それが自分の仕事だと。つまり、今、夜しか会えないのが問題なのでしょう。……そうですね、あなたの仕事を一緒にしてみてはどうですか」
「僕の仕事?」
「彼女が子供を身ごもる前にしようとしていたお仕事があるでしょう」
思い当たる。すっかり忘れていたけれど、そういえばそんな事があった。
「でも……ただでさえスピカは疲れてるのに。それに本宮にスピカが来るとなれば、ルキアをどうすればいい」
今の時期は特に寒い。馬で移動すると骨まで凍りそうだというのに。彼女が体を壊したら大変だ。
僕が問うと、イェッドは呆れて溜息をつき、嘆願書を持ち上げ、音を立ててめくった。
「意外に頭が固いのですね。あなたが仕事を離宮で行えばいい話でしょう。この仕事は本宮でしか出来ませんか」
「あ」
そうか。仕事はここでするものだと思い込んでいたけれど、よく考えれば、嘆願書を読んで纏めるだけの仕事だ。離宮で十分出来るはず。
「会議には出ていただかなければなりませんが、それ以外は離宮で仕事をされていても問題ないでしょう?」
*
「ただいま」
僕が部屋を覗き込むと、スピカがベッドの上のルキアの横に寝そべっていた。その脇にはレグルス。小さな影がバタバタと動くのが見え、尋ねる。
「起きてるの? ルキア」
スピカはにっこりと微笑んだ。
僕は髪を縛ると手を洗いにいく。ルキアをあやしていたレグルスが恨めしそうに僕を見る。しかし結局はスピカに睨まれて部屋を出て行った。
レグルスの背中が扉から消えるとスピカがはしゃいだような声で僕に訴えた。
「あのね、今日、ルキアが笑ったような顔をしたのよ」
久々に本当に嬉しそうな彼女の顔を見た。僕もそれを見て嬉しくなる。
「赤ちゃんって、もう笑うの?」
「ん。喜んだりとかは、まだ先みたいだけど、そういう顔もするんだって。すっごく可愛かったの。……父さんなんて顔が緩んじゃって」
「そっか、僕も見たかったな」
「シリウスが帰ってくる頃にはいつも寝てるから……ほら、ルキア? お父さんよ。笑ってみて」
スピカの呼びかけに、ルキアはその大きな目をきょろきょろと動かす。僕と目が合うと、ただじっと僕を見つめて来た。その恐れを知らない瞳の中に、部屋の微かな光が映り揺らめいた。羨ましいくらいに澄んだ瞳。吸込まれそうだ、スピカ以外でそんな事を感じたのは初めてだった。
最初に見たときより随分と肉付きが良くなった。手も足もすごく細くて、折れそうだったのに、今はむちむちしていて、手首や足首が紐で縛ったように皺が入っている。
手のひらは弾力がある。僕の筋張ったマメだらけの手とも、スピカのしなやかな手とも違う、その小さな手。指先でそっと押すと、握り返して来るのが可愛い。
不思議だった。なんで、こんなに可愛いのか分からなかった。毎日「お父さんだよ」ってルキアに言い聞かせているうちに、自分の中に自覚が産まれて来たようだった。
どことなくスピカに似た唇の形、小振りな鼻、広いおでこに意志の強そうなしっかりした形の良い眉。くるりと反り返った長い睫毛、くっきりとした二重まぶた、その下から覗く茶色の瞳。そして、柔らかく燃える炎に似た赤い髪の毛。
今のところ僕に似たところは一つもない。でも……色以外、「あいつ」に似てるとも思えない。
そんな事を考えていると、父と対面した時のことが、ふと、浮かび上がった。
あれは三月前のこと――。
髪の色を恐る恐る持ち出した時の、父の反応は、僕が拍子抜けするくらいあっさりしていた。
「そうか」
それだけ?
目を見開く僕に、父は言った。
「自分に似ないと、切ないものだろう?」
ふと目を上げると褐色の瞳と褐色の髪が目に入った。
「……あ」
そう言えば、とはじめて思い当たった。
「親不孝ものめ。まぁ、私のした事を考えれば……仕方が無いが」
自分が父親になった後でも、父の気持ちなど考えようとした事も無かった。
僕は、未だに引きずっているから……どこか、受け入れられないのだ。徐々に胸の内のしこりは溶けかけているとは思う。でも、心のどこかがまだ冷たく強ばっていた。
――いつまでもこのままではいけない。僕の力のせいだと言うのに、父上は自分を責め続けている。忘れよう。あれは、父上ではなかったんだ。
心が重くなりかけて、慌てて思考を無理矢理に切り替える。
――――確かに、僕も、ミルザも、父に全く似ていない。
僕は母にそっくりで、ミルザも義母にしか似ていない。父の面影などどこにも無かった。
「お前であれ、ミルザであれ……間違いなく私の子であると証明できないのだ。囲って閉じ込めて、始終監視していなければな。――いつの時代も……同じ事が繰り返される」
父が感情を表に出す事は珍しく、その憂鬱そうな声に驚く。――同じ事?
「父上も、そんな風に悩まれたのですか」
僕の問いに褐色の瞳が遠く過去を彷徨う。
「――――」
ふとその口から微かに何か溢れたように見えた。でも――僕の耳にその呟きが届く事は無かった。
あれは、一体なんだったんだろう。あの時は、気持ちに全く余裕がなくて……ただどうしようと考えを巡らせる事で精一杯で、父の様子に気を配る事まで出来なかったけれど。
何か嫌な予感がして、胸を押さえる。
「シリウス? どうかした?」
スピカが心配そうに僕を覗き込む。ああ、こんな顔させちゃ駄目だ。僕は誤摩化すついでに、夕方イェッドと相談した事を切り出す事にした。
「何でも無いよ。あ、そうだ。今日はスピカにお願いがあってさ」
スピカは頷いてくれるかな。少し不安になりながら切り出す。
「なあに?」
「スピカに仕事を手伝ってもらいたいんだ」
「しごと?」
「ほら、前にやってもらおうとしてた仕事があるだろう? 書簡の解読」
「あ、うん。でも」
スピカの眉が下がるのを見て、遮るように言う。
「ルキアの事なら心配ないよ。仕事はここでやればいいんだから」
「でも、それじゃ、かえってシリウスの仕事の邪魔にならないかしら。書簡、あなたも目を通すのでしょう。二度手間にならない?」
「僕も、ここで仕事するからいいんだ」
「シリウスも? え、じゃあ」
見開いた目が燭台の光を反射して明るく輝いた。彼女が纏っていた灰色のベールが地に落ち、中から彼女本来の力強い色が広がった。思わず笑みがこぼれる。
「そうだ。昼間もずっと一緒に居られる」
スピカの顔が赤く紅潮していく。その瞳に強い光が宿るのを久々に見て、僕はほっとした。そしてイェッドに感謝する。
「僕はね、スピカ。君と一緒に居るだけで、それだけで満足なんだ。……無理しなくていいって言ったのは、そういう意味で。夜しか会えないと、どうしてもそういう事になっちゃうけど、僕が求めてるのは君と一緒に居る時間で、君の体じゃない。一緒に居る事が出来れば、それでいいんだ」
「え、えっと、じゃあ、」
スピカは急に赤くなってモゴモゴと口ごもる。
「どうした?」
「あたし……てっきり、シリウスが毎日帰って来るのって……だから頑張らないとって」
ほら、やっぱり義務だと思ってる。
僕はため息をつく。そしてさっき勢いで言ってしまった言葉を少しだけ修正する。断言しすぎていた。素直にとられると困ってしまう。
「半分くらいは、誤解」
「半分くらい?」
きょとんとするスピカに答えず、広いベッドに寝転がる。僕とスピカの間に挟まれたルキアは、いつの間にか眠っていた。ぷっくりとした唇が乳を求めているのかむにゃむにゃと動き、可愛らしい小さな寝息が部屋にそっと響く。
「今日はこのまま三人で眠ろう」
「で、でも」
「ルキアの機嫌が良くて、すやすや眠ってて、誰かに預けてもいいくらい――僕の相手はそういう時だけでいい」
やっぱり、スピカの心の余裕がある時だけにしたい。今の彼女を抱いても空しいだけだから。
スピカは少し困ったような顔をしていた。ルキアを預ける、その言葉が彼女の心を重くしているのかもしれない。
早く、スピカが心から僕を求めてくれるような、そんな日が来るといい。手は打ち始めた。きっと結果はそのうち出るはずだ。……それまで、また、我慢すればいい。
そう思いながら、スピカとルキア、それぞれの頬にキスをする。何か言いたげなスピカの目を笑って避けると、仰向けになって静かに目を閉じた。