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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第三部 闇の皇子と焔色(ほむらいろ)の罠
95/124

第2章―2

 ――あつい、いた、い


(スピカさま、がんばって)


 ――だめ、しんじゃう、だれ、か……シ、リウス!


(ほら、もう少し)


 ――は、やく、


(上手)


 ――ま、だ? ……あぁ、もう、しんじゃいたい、


(息を止めて、ほらもう一度)


 ――――――――!!


(やったわね……! がんばった! あ! え、うそ――――!?)



 * * *


 遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえる。

「あたしの、あかちゃん……」

 体はベッドに埋まってしまったかのようで、動かそうとしても感覚が戻らなかった。特に腰は自分のものとは思えないほどに重い。死にそうなくらいに辛かった痛みは嘘のように去ったけれど、代わりにずしんとした怠さが全身を覆っていた。でも、疲れているはずなのに興奮して頭も目も異様に覚めていた。

 今がどのくらいの時刻なのか分からないけれど、部屋が明るくなってるってことは半日はかかったんじゃないかしら……。

 赤ん坊はまだ抱かせてもらえない。産まれてすぐに別室に連れて行かれた。まだ沐浴をさせているのかもしれないけれど、随分かかっている気がした。せめて顔だけでも見せて欲しいのに。

 男の子? 女の子? シリウスに似てる? あたしに似てる?

 頭の中でいくつも疑問が浮かんで来るけれど、答えてくれる人は周りにいなかった。人は全部出払っているみたいで、遠く赤ん坊の声に混じって大人の叫び声や怒鳴り声が聞こえてくる。

 ――普通じゃない

 不安がどんどん増して来て、たまらずに起き上がろうとする。力の加減が分からず、ベッドから転がり落ちる。

「はぁっ!」

 全身を床で強く打ち付ける。骨盤がぐらりと歪んだ気がした。ガタンと大きな音がして、扉が大きく開いた。

「スピカ!? 何やってるの!」

 飛び込んで来たのはシュルマだった。

 侍女の彼女は、あたしの為にオリオーヌまで付き添ってくれていた。

「シュルマ……ねぇ、赤ちゃんは? な、んで会わせて、もらえないの?」

 言ってるうちに涙が出て来る。ひどく情緒が不安定だった。

「元気なの? 男の子なの? 女の子なの?」

「……スピカ様…………。赤ちゃんは元気ですよ、男の子です」

 シュルマは固い調子でそう言う。いつもの気軽さはそこにはなく、顔が異常に強ばっている。

「どこか、おかしいの?」

 五体満足じゃなかったら……どうしよう。

 あたしの不安を悟ったのか、シュルマは横に首を振る。

「どこもおかしくありません。元気な立派な男の子です」

「じゃあ、なんで……」

「とにかく、安静に」

 シュルマはあたしに肩を貸して、ベッドへと誘う。あたしは、動揺のあまり、力の制御を忘れていた。シュルマの見た光景が一気に頭に流れ込む。


「…………う、そ」


「スピカ様?」


 シュルマが怪訝そうにあたしを見る。

 力の事を彼女は知らない。でも、もうそれを隠す余裕は、あたしには無かった。


「なんで……。なんで、そんな髪……」


 有り得ない。どうして。あたし………………シリウスの子供を産んだはずなのに。

 黒髪でも金髪でもなく……それらが混じり合った色でもなく――


 赤い髪。

 それは、あの男の。そんなわけない。そんなわけ――――


 必死で否定するあたしの脳裏に、一筋の記憶が入り込む。


 あたし……あの夜、……シトゥラから逃れて雪山で遭難した夜……シリウスに抱かれる夢を見た。とっても幸せで、本当にあった事かと思うくらいに、生々しい夢を。

 そして、目覚めた時に一番近くにいたのは…………ルティ。あの赤い髪・・・のアウストラリスの王子、だ。

 もし……あの時の夢が現実だったら。知らないうちに、彼を受け入れてたとしたら――


 心の隅にあった恐怖が増幅して全身を蝕んだ。体が引きつけたように硬直する。息が出来ない。だれか。だれか、誰か!!


 ――あたしが産んだのは――


「――――いやぁああああああ!!!!」


 遠くで叫び声が聞こえた。自分の口から出ていることにも気づかなかった。気がついても、叫び声を止める事が出来なかった。

 シュルマが驚いて医師を呼びに行くのが視界の端に映った。直後目の前が真っ暗になる。瞼の裏にシリウスの顔が浮かぶ。

 あたし……彼に、なんて言えばいいの……?


 急激に迫りくる深い闇の前で、赤い髪の男の声が鳴り響く。


『……このままで終わると思うな! スピカは……遅かれ早かれ必ず俺の所アウストラリスに戻って来る。その血シトゥラの意志でな!』


 あれは……こういう事だったのかしら……

 消え行く意識の隅で、小さくそう考えたのが最後だった。胸の中を暖めていた光は消え、後には冷たい闇だけが広がった。


 * * *


 ――産まれそうだ

 その知らせを受けたのは昨日の朝だった。予定より10日ほど早く、気を緩めていたところ、不意をつかれた。

 僕は知らせを受け取ると取る物も取らず、僅かな供だけを連れて必死で馬を飛ばした。

 晩夏の温い風の中、思い出すのはスピカと出会ったあの逃亡劇。あのときにはこんな幸せが待っているなんて考えられなかった。期待に胸を膨らませ、同じ景色を緩む頬をそのままに眺めつつ、全力で駆けた。

 ――がんばれ、スピカ

 今もまだ彼女は必死で陣痛と闘っているかもしれない。オリオーヌまでは馬を変えれば丸1日で到着する。少しの休憩を取っただけですでに半日以上駆け続けた。もう夜明けが近い。遅く昇った下弦の月が南の空に浮いていた。一睡もしていなかったけれど、興奮して眠気など感じなかった。

「皇子、さすがに少しお休みください」

 闇の中、後ろから叫ぶような声が聞こえる。

「大丈夫だ、ミアー」

 振り向かずに答えた。後ろにいる侍従は二人。一人はミアー。レグルスの忠実な部下で、少し前の事件でいろいろと僕たちの事情を知ることとなった。

 もう一人はループス。こちらも近衛隊の一員だった。レグルスが自分の代わりにと、護衛を選んでつけてくれていた。レグルスが選ぶだけあって、二人ともかなり腕が立つらしい。

「もう産まれてますよ、さすがに。朝の時点で陣痛が始まってから丸一日は経っているのですから。今更急がれても間に合いません」

「そんな事、分かってるよ」

 僕は少しミアーを振り返る。

「少しでも早く顔を見たいだけだ」

 そう言うと、後ろで溜息が二つ聞こえる。

「お妃様は幸せですね。こんなに愛されて」

 ループスの低い呟きに少し顔が赤くなるのが分かる。そうだよ、愛してるんだ。だから、当然だろう。

 僕は咳払いをして照れを誤摩化すと、再び馬を急がせた。

 馬は青々とした草原の中の一本道を駆ける。メランボスの森を抜け、集落を抜けたら、あとはこの道をひたすら真っ直ぐ行くのみだった。道に敷かれた白い石が、朝焼けを反射してほのかに光り綺麗だった。光がスピカの元へと導いてくれているような気さえした。

 と、前方に黒い影を見つける。道を塞ぐように立ち尽くす、あれは――――

「叔母さま?」

 僕と同じ黒い髪。そうだ、見間違える訳が無い。なんでこんなところで、待ち伏せるようにして……まさか、スピカに何かあった!?

 目の前の闇の色が僕の心を一瞬で真っ黒に染めた。

 慌てて馬を止める。

「シリウス」

「――スピカに何か!? えっと、赤ちゃんは?」

「……産まれたわ。無事に。男の子よ」

 視界の端で朝日が昇り始め、彼女の左頬を赤く照らし出す。無事に、と言う割に、その顔色は驚くほどに青ざめていた。

「……なんで、そんな顔してるんだよ」

「シリウス……子供はね……、『ラナ』にそっくりなの」

 叔母は後ろのミアーとループスを気にしながら慎重に口を開いた。

「ラナ」

 一瞬意味が分からなかった。そして直後、その意味を知る。

 それは、スピカの母の名。彼女の母にそっくりと言う事は……

 僕はゆっくりと首を横に振る。何か重たいものが肩にずっしりと置かれるような感覚があった。


「…………嘘だろう」

 嘘だろう? 何が? 『ラナにそっくり』。祖母に似て何が悪い?

 自分に必死で言い聞かせる。

 そうだ、祖母に似ている。それだけの事。それなのに、納得できない自分がいた。

 飲み込めない理由は分かっていた。

 僕は、――――怖くて聞けなかった。スピカに、聞けなかった。彼女が攫われていた時の事を。

 彼女は、何も言わなかった。だから――何も無かったのだと、そう信じていた。

「あなた、聞いたの? スピカに」

「…………」

 黙って首を振る。

「こうなってしまったからには……聞かなければいけないわ、分かるわね?」

「ラナに似てる。今そう言ったじゃないか。それでいいじゃないか」

「分かってるでしょう? あなたは『皇太子』なの。もう甘えは許されない」

 ぐっと詰まる。

「聞いて……答え次第では……あなたは子供を……もしかしたらスピカと子供両方を諦めなければいけない」

 拳を握りしめた。何か差し込まれたように胸が痛んだ。違う――おばさま、違うんだ。

「いえ……違うわ。答えは関係ないかもしれない」

 そう。彼女の立場を考えると、子供が真に僕の子供であろうと、関係なかった。赤毛の児を産んだ、その事自体が……裏切りだった。

 彼女の母は既に他界している。祖母に似ているといくら言おうと、誰が信じるのだろう。それよりは、彼女と噂のあった『彼』の子供と言った方が、あまりにも分かりやすい。そして、皆は、きっとそれを信じるだろう。

 しかも『彼』は、アウストラリスの王子ときている。今不安定な情勢が悪化すれば……スピカと子供が嵐の目となってしまうのが目に見えていた。『彼』が王子だと知れば、ジョイアはスピカ達を外交の材料として扱う。厄介払いが出来たと、貴族どもは喜んで彼女を取引に使う。彼らは、僕には選べない事を知っていて『国民』と『彼女』、どちらを取るのだと迫るだろう。ジョイアに、僕の隣に、彼女達の居場所はなくなり――そして、『彼』はスピカを取る。

 着々と置かれた布石。その手が垣間見え、背筋を悪寒が上った。僕はいつの間にか、どうしようもないところに追い込まれていた。

 こんな手を打つっていう事は、彼は知っていたと言う事なのか。スピカが産む子供が、赤い髪をしている事を。どうして? それは――

 叔母は恐る恐るのように続ける。声に哀れみがにじみ出ていた。

「スピカがね……子の髪の色を知って……嘘みたいに取り乱したの……あの子、ラナの事を思いつく余裕も無かったみたいで。だから……」

「――もういい。関係ない」

 沸き上がる感情を無理矢理に押さえつける。今はこれ以上考えたくない。

 僕は一体……今まで何をやっていたんだろう。あいつは種をまいてその時機を待ってるだけだった。僕はその可能性に気が付いて対策を立てていなければいけなかったと言うのに……僕がした事は……。

 痛みに耐えかねて胸を掴むと、懐に入れていた紙がクシャリと音を立てる。

 スピカを守ると言いながら……僕は、何も出来なかった。

「な、何を言ってるの、関係ないって……。あなた」

「――スピカに会いに行く」

 声には何の感情も含まれなかった。冷たく重い響きに叔母の口が塞がる。


 朝日が沈み行く夕日のようにも思えた。

 熱く茹だる頭とは逆に氷の様に冷めて行く心。今にも凍えて倒れそうだった。

 とにかく、顔を見ないと駄目だった。彼女の前で、彼女の瞳を見て、言うべき事があった。


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