第2章 変化と自覚―1
「日記ですか」
その低い声に振り向くと、そこには懐かしい面影があった。扉が閉まる音がして、白いものが多く混じった茶色の髪が風にふわりと靡いた。
「イェッド先生」
「もう、先生ではありません。イェッドと。……体調はどうです?」
そうだった。彼の役目はシリウスの立太子と同時に終わっていた。たとえ先生と呼んだとしても今はもう医師という意味でしかない。彼はあたしの臣下という立場になってしまっていた。
あたしが椅子から立ち上がろうとすると、彼は軽く首を振ってそれを制する。
「そのままで」
あたしは少し微笑むとそのまま体の向きを変える。
「ようやく落ち着いてきました」
そっとお腹をなでると服の皺が伸び、少しだけ目立って来た腹部が形を現した。つわりが治まったのはつい最近。それと同時に、このところ急にお腹が膨らんで来て自分でもびっくりしている。それにお腹の中でぽこぽこと何かが動いているのがたまに分かって、すごく不思議な気分。
でも……その変化一つ一つを忘れたくなくて、毎日気づいた事を紙にしたためていた。
「シリウスはどうしてます?」
心配なのはシリウスの事。あたしが帰れなくて、寂しい想いをしてるはずだった。あたしだって……当然寂しい。同じくらいそう思ってくれてたら、少しは気分が安らぎそうだった。
「鬱屈してますよ、ご想像の通り。呆れるのを通り越して感心するくらいあなたの事しか考えていないみたいです」
その言葉に頬が赤くなる。
「今日もついて来ると我が儘を言われて……」
「え?」
うそ。来てくれてるの!? 思わず腰を浮かせたのに、イェッドは「結局は仕事が終わらなくてダメでしたが」、さらりとあたしの浮ついた気分を地に落とす。
期待させないで欲しいわ……。がっくりと肩を落とす。そんなあたしを気にせずに彼は呟く。
「──慌ただしくなりそうですよ」
その茶色の瞳に深刻そうな影が浮かび、あたしはびくりとする。その瞳の色に触発されて不安が膨らんだ。茶色の瞳を見るたびに、どうしても『彼』のことを思い出さずにはいられない。嫌だと思っても条件反射だった。
「それって……アウストラリスのこと?」
あたしが恐る恐る問うと、彼は頷く。
そっか……。やっぱり、噂は本当なんだ。屋敷の中に籠っていたとしてもいろんな話が人づてに耳に届く。
アウストラリス。あの乾いた土地は今さらに乾こうとしているらしい。この土地でもちょっと春先の気候がおかしかったと聞く。ジョイアでさえ、少しの気候の変動で、作物に重大な影響が出てしまう。だから毎年この時期に雨の恵みを願って、祭りを行うのだ。
「そんなにひどいの」
「不法入国者が今年に入って既に例年の倍です。このまま何も対応しないと必ず大きな問題になります」
あたしは頷いた。
「あの国は……どう出るのかしら」
「不穏な動きは既に。治安の悪化、物価の上昇……まるで計ったかのようです。どこか確実に絡んでいると思われます。皇子も……裏で色々気にして動いてはいるようですが。あなたも、……体の事が無ければ協力を願いたいところですけれど、今回ばかりは仕方がありません」
あたしは俯く。こんな時に使えない力じゃ、何の為のものか分からない。
「……宮に戻っちゃダメかしら。手伝える事、あるかもしれないし」
「ダメです。今はまだ」
ため息をついた。分かってはいるつもり。我慢する事も覚えたはず。でもやっぱりじっとしているのって性に合わないみたい。
「皇子があなたと子供の為に必死で我慢しているのですよ。あなたも我慢してください。もう……母親なのですからね」
────母親、か。
イェッドが退出した後、あたしは、ひとりぼんやりと外を眺めていた。窓の外には遠く東の山脈が見える。険しい山の頂上は未だ雪で覆われて、夕日に照らされて、その色が桃色に輝いていた。窓から入り込む空気は少し冷たく、あたしは膝掛けを腰の辺りまで持ち上げる。
ため息をつく。そっとお腹を撫でる。もう癖みたいになっていた。
こうしてお腹が膨らんで来ても、まだなんだか実感できなかった。
ここに、シリウスの赤ちゃんがいる。
今はとても嬉しい。ようやく嬉しさが膨らんで来た。
でも……最初それを知ったとき、嬉しく思う前に、なんだか怖かった。そして、そう感じてしまった事がなんだか申し訳なかった。
多分、あたし、まだお母さんになる覚悟なんて全然出来てないんだと思う。だって、シリウスの妃になることでも、つい最近まですごく悩んでいたくらいなんだもの。
シリウスの子供──つまり、ジョイアの皇位継承権を持つってこと。あたしの子供が、そんな地位を生まれながらに持ってしまう。普通の子供では有り得ない。きっと普通の人生は歩めない。産んだあたしも同じ。今まで以上に大きな嵐に巻き込まれる。平和な日々はあっという間に去ってしまう。そのことが怖い。叫びたくなるくらいに、怖かった。
でも、誰にもこの恐怖は話せなかった。シリウスには絶対に。話せば、彼が心配してしまう。せっかくの宝物を、あたしが喜んでいないって思われてしまう。──そんな事は無いの。本当に嬉しいの。だから絶対にそんな風には思われたくなかった。
彼が子供の事を知った時のあの顔。突然の事に戸惑ってはいたけれど、純粋に喜んでいてくれるのが心を読まなくても伝わって来た。怖くてたまらなかったというのに、その顔を見たとたんすごくほっとした。
もう宮を出て二月。ずっとシリウスと離れていて心の隅で不安が膨らんで行くのが分かった。あの腕の中に包まれて、安心したかった。そうしたらきっとただのスピカに戻って……普通の女の子みたいにこの事を喜べるはずだった。
あたしは彼に守られようなんて思っていない。ただ、彼といるとあたしはそれだけで強くなれる気がしていた。
────シリウスに会いたかった。
*
「本当に行かないの? 毎年すごく楽しみにしてるくせに」
ヴェガ様が心配そうにあたしの顔を覗き込む。
「ええ」
「護衛の事なら気にしなくていいんだぞ? ずっと籠りきりなんだ。今日くらい大目に見てやる。たまには外に出て運動しておけ」
父にそう言われて心が揺れる。確かに、誕生日に合わせたようなこの祭りを毎年楽しみにしていたし、……運動不足も否めなかった。
それでも首を振るあたしに、父はさらに言う。
「お前……この頃少し太っただろう」
ムッとしつつもぎくりとした。なんとなく全身がふっくらして来てるのは……自分で気にしていた。確かに、間食が増えていた。でも、お腹が空いてたまらないんだもの。父に言われるくらいだし、もしかしたら自分で思ってるよりひどいのかも。不安になる。シリウスに見られないからって……気を抜きすぎかしら。
でも、そこまで言われてもなんだか外に出るのが怖かった。漠然とした不安が払えなくて、何かを楽しめるような気分になれない。
あたしが頑に首を横に振ると、ヴェガ様は大きくため息をついて肩をすくめる。
「分かったわ。じゃあ、あなたの分まで楽しんで来るわね。お土産買って来るから」
そういうとヴェガ様はまだ何か言おうとする父を連れて扉の外に姿を消した。
あたしは椅子の背もたれに背中を預けると、軽く伸びをする。さっきの父の言葉が頭をかすめて、体操でもしようかしらと、立ち上がる。
とたん扉がまた音を立て、返事をすると、今度はイェッドが現れた。
「先生は一緒じゃないんですか?」
確か、イェッドはこの祭りのためだけに休暇を取っているはずだった。彼の故郷もこのオリオーヌで、毎年欠かさず参加しているらしい。
「頼まれ事をしているのを忘れていまして」
彼は胸から一通の手紙と小さな包みを取り出すとあたしの目の前に差し出した。
手紙は一度封を切られている。そして妙に分厚かった。怪訝に思って尋ねる。
「これは?」
「皇子から預かってきました……ですが、まだ開けずに持って置いてもらえますか」
「?」
あたしが首を傾げると、イェッドは珍しく微笑んだ。
「意味はそのうち分かりますから。それでは」
あたしはテーブルの上に受け取った手紙と包みを置く。
ごわごわした封筒。一瞬記憶を読もうかと思ったけれど、何となく気が乗らなくてやめておいた。
包みをちらりと見やる。手のひらに乗るくらいで綺麗な薄い緑色の紙で包まれている。
きっと誕生日のプレゼントだと思う。シリウス、あたしの誕生日、忘れてなかったんだ。そう思うと、今すぐにでも包みを開けたくなった。……見たいわ。どうして先生はあんな事。
不思議に思いながら、テーブルに突っ伏すと、頬をくっつける。目の前に横たわる包みを至近距離で見つめてみるけれど、中身は透けて見える事は無い。指で触れればすぐに分かるんだけど。
そう思った瞬間、お腹の中で小さくぽこぽこと動く気配がして、思わず苦笑いする。
(だめだよ)
そう言われてる気がした。
立ち上がって窓辺に立つと祭りへ向かう人の流れが見える。子供達が興奮した声を上げながら駆けて行く。しばしそれに見入っていて、ふと気がつくと夕日が辺り一面を赤く染め上げていた。
* * *
(————————!!!!)
なにかしら? 階下が騒がしい。何か怒ってるような声が聞こえるんだけど……
あたしは薄く目を開ける。あれから夕食を食べてすぐに横になった。この頃ひどく眠くて、いくら寝てもすぐに夢の世界に誘われてしまう。
明かり取りの窓を見る。まだ外は真っ暗。夜は明けてないみたい。
何事? ベッドから身を起こしたとたん廊下に足音が響く。扉がそっと叩かれる。
燭台に灯を灯し、恐る恐る扉を開ける。直後風と供に滑り込んで来た影に驚く。
「! なんで!?」
「……会いたかった……!」
掠れた囁きとともにすぐに唇を塞がれる。じん、と全身が痺れて、体の力が抜けた。背に手を回すと、そこは汗で湿っていて、漏れる吐息が荒いのは、彼が必死で駆けて来たからだとすぐに分かる。
しばし夢中で口づけをかわした後、彼は少し慌てたように身を離す。二月ぶりなのにと名残惜しくて彼を見上げると、余計に困った顔をされた。
「シリウス……どうして? 仕事が終わらなかったって……」
いろんな事が不思議で、あたしが尋ねると、彼ははにかんだ笑顔を見せた。
「仕事で来たんだ。ハリスに用が出来て」
「仕事?」
彼は気まずそうに小声で続ける。
「ごめん、ついでみたいになっちゃって。本当は祭りに一緒に行きたかったんだけど」
そのいたずらを怒られていい訳するみたいな様子に思わず吹き出す。これは一体————誰へのいい訳?
「まさか、…………わざわざ仕事を作って来たの?」
思わず聞いてしまう。だって、余りにあからさますぎて。ついでなのは仕事の方。きっと、そう。
シリウスはぐっと言葉を詰まらせる。
「君にもバレちゃったか……なんでだろ。あんまり堂々と言えないから……上手くやったつもりなんだけどな。下でレグルスに散々怒られてさ。『立場と言うものをお考えください』だって。仕事なのは本当なのに」
少しふて腐れて、彼はベッドに腰掛ける。
あたしは笑いながら窓際の燭台にも火を灯す。じっと音を立てて、それは彼の漆黒の瞳を照らし出した。
「あれ? これって」
彼の声に振り向くと視線の先にはテーブルの上の包みと手紙。
「ああ、イェッド先生が……あ、そっか」
思わず手を打った。
「なに?」
先生は、この事態を予想してたってわけね。多分、なんとかしてやって来るって思ってたんだ。再会して最初のあたしの誕生日だし……相当そわそわしてたんだわ。
その情景を思い浮かべてくすくす笑うと、シリウスは不満げに眉を寄せる。
「開けてないの、まだ。開けてもいいかしら?」
シリウスはまだ眉を寄せたまま、頷く。その頬に少し朱が混じった。
「別のものも考えたけど、誕生日だし……身につけられるものがいいかなって思って」
包みを開けると、それはネックレスだった。華奢な金の鎖の先端に綺麗な緑色の石がついている。
——きれい——
「お守りだって」
「え?」
見とれていたあたしは、その言葉を聞き逃しそうになった。
「安産のお守り」
シリウスはそう言ってにっこりと笑う。そしてあたしを引き寄せると膝の上に座らせて、そっとお腹を撫でた。
「あ! すごい。大きくなってる」
彼は目を輝かせる。まるで子供のようなその表情に鬱積していた心の不安が吹き飛ばされる。……あたし、素直に喜んでいいのよね?
「あ、なんで、どうして泣くんだよ。気に入らなかった?」
「違うの。嬉しいだけ。ありがとう、シリウス」
いろんな感情が一気に沸き上がってきた。涙に喜び以外のものが混じっているのを悟られたくなくて、誤摩化すように無理矢理笑うと、手紙を手に取る。
「これも読んでいいの?」
「う、ん」
彼の喉がごくりと鳴る。一気に顔が赤くなるところを見ると、書いてある事はだいたい想像できた。
「あれ?」
紙を開くと、予想に反して大量の文字が視界に入る。でも筆跡がシリウスのじゃない? …………えっと、妊娠中の夫婦生活…………?
「ひゃっ」
あたしは思わずそれを床に落とす。
「? どうし、た?」
シリウスが足下から拾い上げてさっと目を通して、あたし同様に手紙を取り落とす。その顔は真っ赤。
「なんだよ、これ……この字、イェッドか?」
「封が開いてたの」
あたしは奥にあったもう一枚の紙を取り出すとそれを開く。そっちは予想通りの言葉がシリウスの字で書かれていた。嬉しいはずなのに、動揺して上手く気持ちを飲み込めなくて、なんだか悔しい。
イェッド先生は……シリウスの行動を警戒してたって事なのかしら。……医師だから、念のためってこと? これをあたしに読ませたって事は、あたしが結構軽はずみな行動するって思ってるみたいよね。だとすると、その通りだったりするから……なんだか恥ずかしい。あたし深読みしすぎてる?
ごちゃごちゃといろんな事を考えていたけれど、せっかくこうして会えたのに、このまま別々の部屋で寝るのは勿体ない気がしていた。多分、あたしはしばらく宮に帰れないし、彼もずっとここにいるわけにはいかない。子供が産まれたら、しばらくはこんな風に二人っきりで過ごせないだろうし。
シリウスはいつも自分だけがって思ってるみたいだけど、それは誤解。彼以外の方がそのこと分かってるっていうのもなんだかおかしかった。
「一応……我慢するつもりで来たんだけど。これ、ありがたく受け取ってもいいのかな」
やがてシリウスがそう呟く。そして確認するようにあたしの瞳を覗き込んだ。