第1章 兆し
窓の外は新緑がキラキラと日の光に輝いていた。そよぐ風が、丸い形をした柔らかい色の葉をそっと撫でて行く。まるで、太陽の下で微笑むスピカの瞳の色だ。
僕は頬杖をついてそれをぼんやりと眺めていた。
「なにシケた顔してらっしゃるんです」
その冷たい声に僕は書類から顔を上げる。
「イェッドか」
いつの間にか書斎に入り込んでいたその大きな影は、今は僕の側近となったイェッドだった。
「またスピカ様の事ですね」
お見通しだ。隠そうとも思わないけれど。
僕は書斎に用意されたもう一つの机を見やる。今はその使用者はここには居ない。机の上は綺麗なまま塵一つ落ちていなかった。
「心配して何が悪い」
悪態をつくと、イェッドはちらりと机の書簡の山を睨んだ。
「いいえ。何も悪くはありません。お仕事さえしていただければ、ですが」
僕は本来ならスピカがやってくれるはずの仕事を彼女の数倍時間をかけて行っていた。つまりそれは、『他国から送られて来た書簡に含まれる〈意図〉を読み解く事』。
スピカは、妃になったあと、そういった仕事を僕の傍で秘密裏に処理することになっていた。彼女が言い出した事だった。
彼女が触るだけで、書いた人間の意図が簡単に分かるのだから、僕の仕事は半減するはずだった。でも……それをしてくれる彼女は居ない。僕のせいだから、文句も言えない。
ため息をつく。
もうスピカが宮を出て行ってから……二月ほどになる。僕がもうちょっと注意していれば、こんな事にはならなかったのに。
今更悔いても仕方が無い。だけど会えないのが相当に辛かった。
この状況を作り出してしまったのは、――やっぱりあの旅ってことになるのかな。
僕とスピカは、立太子の儀の後すぐに、新しい妃の紹介も兼ねて国内の視察に出発した。北部から南部まで国内の主要都市をぐるりと一周する。まあ視察と言ってしまえば聞こえは良いけれど、つまりは……新婚旅行みたいなもの。視察と言うのは、それに理由を付けるためのものだった。そうしないと予算が下りない。
ジョイアは独裁国ではない。皇族はそれなりに力を持つけれど、同時に、義務を果たさねばならない。僕はこのところの事件でいろいろ学んだ。この国の制度は僕が下手をうてば、すぐに壊れてしまうほど脆いものだ。有力な貴族が僕たちを利用して国を動かしている。傀儡になりたくない、などと思っていたけれど、それも馬鹿みたいな話。皇族はすでに傀儡なのだ。そして、今は上手くバランスがとれているこの力関係も、『彼ら』が否と言えば、あっという間に崩壊する。僕が扱い辛いと感じたら、当然彼らはもっと扱いやすい傀儡を用意し出すだろう。
今は、まだ父がいるから良い。でも、僕はいつまでも父の作り上げたものに頼るわけにはいかない。……いつか自分で『彼ら』とも折り合いを付けなければならない。逃げてばかりは居られないのだ。
僕たちは馬車に揺られ、まずは最初の訪問先、オリオーヌ州ツクルトゥルスへ向かった。
スピカは出発前からちょっと体調を崩していたようで、青白い顔をしていた。馬車の中で気がついて、中止にしようと言ったんだけど、彼女は自分の都合で迷惑かけられないし、すぐに良くなるに決まってると強情を張って、僕の言う事を聞いてくれなかった。彼女はツクルトゥルスには絶対に行っておきたかったらしい。彼女の故郷だ。当然なのかもしれない。
レグルスの話では、彼女はその力を知る人々には敬遠されていたと聞く。だから彼女にはあの土地に友人がほとんど居なかったはずだけど、彼女はあの土地やあの土地に住む人々を今も愛している。そういうところ、強いなあと感心する。
と言っても、彼女が言うには、一番のこだわりはアルフォンスス家みたいだった。僕たちが出会って、そして将来を誓い合った思い出の地。彼女が僕と同様に彼の土地にこだわってくれてるのが、堪らずに嬉しかった。だから僕は彼女を強くは引き止められなかったんだと思う。
そういった理由もあって、僕たちはあえて宿はとらず、今は僕の別荘となった元アルフォンスス家に2日滞在する事になっていて……、僕はそれなりに計画も立てていた。視察が終わったら、二人っきりでゆっくりと温泉にでも浸かりたいなとか、そういうこと。
しかし――――
スピカは、ツクルトゥルスに着くなり、体調が悪化して倒れてしまった。
過労? それとも病気? と焦る僕に医師が告げた言葉は――――
「おめでとうございます」
「は?」
「ご懐妊です。二月から三月くらいでしょうか」
「ごかいにん?」
その言葉の意味が理解できなかった。
怪訝とする僕に、目の前の若い医師は冷ややかな瞳を向ける。
「皇子? 宮で体調管理はどなたがされていらしたのです? 駄目ですよ。大事な体なのに、こんな無理をさせては」
「だいじなからだ」
ようやく頭が働きだした。ええと、それってさ、つまり――――
「子供が出来たって事?」
裏返った声が出た。
「ええ」
目の前の医師は束ねていた長い髪を一度解くと束ね直す。ああ。この人、女性……だ。医師の性別なんか、今まで気にもしなかった。
宮での体調管理、ってイェッドがやってたはずだけど、男だからか? 気がつかなかった? スピカが遠慮して言えなかった? そう言えばセフォネが月のものがどうとか言ってたような……あ、僕は、さすがにそこまで詳しくない。ああでも……そうか、先日まで、それどころじゃなかったんだ。
頭の中でいろんなものがぐるぐると駆け巡った。
「とにかく、視察は中止です。いいですね?」
こういう事は事前にしっかり管理していただかないとと文句を言う医師の前で、僕は呆然としたまま頷いた。
二月から三月って……えっと……いつ? 僕は指折り数えだす。
今が立太子直後ってことは、三月前だと、成人の儀……あのとき? それとも……あのシトゥラ家での……。二月だったら、あれ? わけ分かんなくなって来た!
混乱して頭をかきむしる。そんな僕を見かねたのか、医師が呆れたように補足する。
「なんでそこまで動揺していらっしゃるんです。される事されたら出来てもおかしくないじゃないですか。
……成人の儀も含めて前後一月くらいですよ。お話では月のものが狂う事が多いそうですから、多少誤差はありますが。……妃とお話しされますか」
さばさばと言う医師に、僕はただ頭を縦に振った。
* * *
「あ、シリウス」
スピカは窓辺のベッドの上で上半身だけ起こして、ぼんやりと窓から覗く外の闇を見ていたけれど、僕が部屋に入るなりすぐにこちらを振り向いた。燭台の光に照らされたその頬がほんのり上気している。輪郭がすこし柔らかく見えたのは多分気のせいじゃない。僕は彼女を見て実感した。ああ、スピカはお母さんになるんだって。
「聞いた、よ。えっと、なんて言えばいいのか」
おめでとう? それも変だし。
「うん。シリウス、ありがとう」
彼女はさらりと、僕が言うべき言葉を言ってしまう。
呆然とする僕の後ろで、医師が扉を閉める。気配が消えたとたん、僕は彼女に駆け寄って、抱きしめる。
「スピカ、……旅は中止だ」
「うん」
「えっと……ありがとう。大事にしよう、その、僕たちの」
「愛の結晶?」
冗談めかしたその言葉に全身が熱くなる。
スピカを抱きしめたまま、髪に顔を埋めたまま「うん」と小さく頷く。
嬉しいはずなのに……すごく恥ずかしい。なんだろう、このくすぐったさは。
「そっかぁ……シリウスがお父さんになるんだ」
彼女はさらにそんな事を口に出す。そして赤い顔の僕を見てクスクス笑う。
「なんだかくすぐったいね」
笑顔が眩しくて、見てられなくて、誤摩化すように彼女をベッドに押し付けると、その唇を塞ぐ。当たり前のようにスピカがそれに応えてくれる。
キスが深まり、気持ちが盛り上がるにつれ、ある事にふと気がつく。え……ってことは……もしかして。
愕然とした。
それに合わせるように扉が叩かれる。そのタイミングからして、様子をうかがっていたのかもしれない。ベッドから飛び起きたところに入室して来た医師が鋭い目で僕を見つめた。
「皇子、しばらくはダメですよ。安定期まではとりあえず禁止です。流産してしまったら大変ですから」
「…………」
もちろん何が、などとは聞かない。
でも、僕たち……まだ、数えるほどしか……してないんだけど!! 指を折ってみるけれど片手で……足りる。足りてしまう。
思わず目で訴える。――新婚なんだ! これから色々と――
「避妊されないのが悪いのです」
これだから男は、そんな毒の入った女性独特の冷ややかなまなざしに撃沈した。
そういう訳で、急遽僕だけで残りの視察を行う事に。理由はとりあえずスピカの状態が安定するまでは伏せておくことになった。
「じゃあ、気をつけるんだよ」
スピカは体調が戻り次第、ゆっくりと宮へと帰ることになった。
僕は予定を変更して、オリオーヌの逗留を伸ばした。スピカの護衛が到着するのを見届けて出発する事にしたのだ。その間、一人でツクルトゥルスの視察を終えた後、ある事を思い出して急遽国境のハリスまで足を伸ばした。
念のため、宮からは叔母とレグルスを呼び寄せた。レグルスは、今回は僕の護衛から外れていたのだ。――外れてもらっていた、が正しいけれど。父親がついて来たら、さすがに……いろいろやりにくかったから。悪い事してる訳じゃないけど、遠慮してしまうというか。
部屋の窓から手を振って見送る彼女は、顔色の悪さも手伝って儚げに見えた。なんだかとても心配で、僕は後ろ髪を引かれる想いでオリオーヌを離れた。
その後、国内を半月ほどかけて回った後宮に戻ったのだが、スピカはまだ帰って来ていなかった。
不思議に思ってセフォネに尋ねると、「安定期まで滞在する事に」とすげなく言われてしまい、愕然とさせられた。「傍に居れば皇子が我慢しないから」と警戒されての事だとは(あんまりだ)、結構後になって知った。
そして本日に至る。
もうすでに、五の月。窓から忍び込む空気はからりと乾いて緑の萌える匂いがする。宮で一番のさわやかで気持ちのよい季節だ。医師が言うにはすでに安定期。指折り数えていたその日が来ても、彼女は帰って来ない。
馬車の振動が良くないらしく、一度帰ろうとして途中で腹痛を起こしてしまったため、様子を見ているのだ。
もう、あちらで出産した方がいい、僕はそう思っていた。
宮は彼女の敵だらけだ。変に戻らない方がいい。そう考えだした。今はまだ彼女の妊娠については宮では伏せてある。以前の怪我の療養中と誤摩化している。しかし戻れば必ず知れ渡るだろう。彼女に子供を産んでもらうと困る人間はたくさん居るのだ。味方の居ない今のままの宮は危険だった。
いろいろ考えたけれど、アルフォンスス家は宮に比べると狭い分、警備を固めやすいし、外にしか敵は居ない。
僕が我慢すればいいだけだ。分かっている。しかし、……体の方はそうも行かなかった。僕の意志に反して熱を持てあます。彼女を抱きしめたいと悲鳴を上げる。
妃を一人しか持たないと言う事は、こういう事かと、身に染みて実感する。成人の儀の前、その想いは同様に味わったはずだけれど、彼女を知らなかった頃よりも焦燥感はひどかった。……多分僕はこの新婚生活をすごく楽しみにしていたんだと思う。
どうしようもなくて彼女を思い浮かべながら自分を慰めてみるものの、後に来るのはひどい罪悪感だけ。
頭の中で彼女を貪り尽くす自分に、何をしているのか、と嫌悪感でいっぱいになるだけだった。
貴族どもはそんな僕につけ込み、隙あらば娘を送りつけようとする。セフォネにきつく言って取り合わないようにはしているけれど――なかなかに辛い日々の連続だった。
* * *
「産まれれば、また元通りなんだ……」
僕が自分を励ますようにそう呟くと、イェッドが呆れた声をだす。
「何を言ってるんですか。そんな訳無いでしょう」
「なんで?」
「産まれたら、子供の世話は誰がするのです」
「……………誰?」
そういえば、乳母はもう決まってるのかな。何も聞いてないけど。
「……スピカ様ですよ。当然でしょう」
は? スピカ?
「え、乳母は」
「あなたに乳母は居ましたか」
「…………」
そう言えば居ない。ミルザには居たのに。…………ああ、そうか。
「そうです。彼女の実家にはそれだけの力が無い」
そうだった。乳母は……妃の実家が用意するもの。娘の妊娠に合わせて、丁度乳飲み子を持つような母親を用意できなければならない。そんな手間は、力のある貴族だから出来る事で。
アルフォンススで出来なかった事が、スピカの実家に出来る訳が無かった。
「レグルスに聞いても、丁度良くそういう親戚とかいないのかな」
僕が思わずぼやくと、イェッドはさらに呆れた。
「居る訳無いでしょう。彼は――――」
イェッドはそこで言葉を切ると、誤摩化すように咳をした。そして続きを気にする僕が耳を疑うような発言をした。
「……ともかく、産まれて一年は、夫婦の時間は諦めた方が賢明ですよ」
なんだって?
「……今、いちねん、って聞こえたけど、何かの間違いだよね……?」
もちろん産後すぐになんて考えていない。でも――――
「いいえ? 女性は繊細なんです。子を産んだばかりの女性は、はっきり言ってそれどころじゃありません。子が乳離れするくらい育つまでは月のものも来ませんし、ということは、妊娠もしません。どういう事か分かりますか?」
「つまり、妊娠を気にせずに……」
「違います。馬鹿ですか、あなた」
一刀両断だった。な、なんだか遠慮というものが全くなくなって来てる気がするんだけど。
怯む僕に、イェッドは滔々と話し続ける。その顔は医師のものだった。
「性欲は本能ですからね。女としての本能より母としての本能が勝つ。つまり、そういう欲求が薄くなるってことです。あなた、そんな風ですと、お情けも貰えないですよ」
ただでさえ、スピカはそういうのあんまり積極的じゃないってのに。僕が強引に進めないとうんと言わないって言うのに。……さらにってこと?
愕然とする僕にイェッドは追い討ちをかける。
「基本的に、子が一番、夫はその後余裕があったら。一年はそんな感じです。ひょっとしたらそれ以降も続くかもしれませんが。……ああ、何ですか、その目は。嫉妬は無しですよ、あなたの子供なんですからね」
僕は……二番なのか。
だ、だめだ。受け入れられない、ソレ。
僕は机の上の書類に顔を突っ伏した。
「さて」
そんな僕に、イェッドがさらに口を開く。
とどめでも刺す気かよ。恨みの籠った視線を投げ掛けると、彼はにやりと笑った。
「私は来週お休みを頂きます」
「なんだって? 聞いてないけど」
「オリオーヌで祭りがあるので」
「あ」
僕が立ち上がると、書類が雪崩を起こした。気にせずに言う。
「僕も行く」
「お仕事はどうされるので?」
「……今から片付ける」
そうだった。オリオーヌでは、初夏、今の時期に豊穣の女神を祭る。そしてその時期には、確か――――
「スピカの誕生日だ」
そのくらい、祝いに行っても誰も文句を言わないはずだ。いや、言わせない。
スピカが僕より少しだけお姉さんになる日。三月くらいの間だけれど。昔それがひどく悔しかった事を思い出す。
「まったくあなたと言う人は…………」
ぼやきながらイェッドが退出して行くけれど、僕は彼を見やる事も無く書類に目を通しだす。
お腹、大きくなってるかな。
そろそろ耳も聞こえるかもしれないし、お腹の子供に挨拶しないとな。おとうさんだよって。産まれてくるの、待ってるよって。
そうだ……スピカを独り占めするのは止めてくれって……頼んでおかないと……。
思わずそう考えてしまい、直後自分の幼稚さにぐったりと肩が落ちる。
……なんだか、僕、スピカの子供みたいだよな……。で、産まれて来る弟か妹かに嫉妬してるっていうか……。
頭を振ると、僕は少しでも父親らしくと、背筋を伸ばし、書類の山と戦う事にした。
* * *
「なんでなんだ……」
僕は書類の山の前で頭を抱えていた。
終わらない。終わらなかった。……仕事が。
考えられなかった。昨日までは順調だったというのに、そう、昨日の夕方の事。
突然の雨のようだった。大量の書簡が宮に届けられたのだ。
何事かと思って、目を通すと……それらの送り先の大半は北のハリスと南のオルバース。どちらも「国境の街」からの嘆願書。
――――増えている。
僕は少し前に感じた危惧を改めて感じた。
春先から雨が減っていると聞く。ジョイアの話ではない。隣国『アウストラリス』の話だ。
嘆願書は、隣国からの不法入国者が増えて、その対応で応援を頼むという国境警備からのものから、違法の就労者が増えて、国内の失業者が増えつつあるというもの、それに治安の悪化や、物価の値上がり、生活苦まで様々だった。
どうやらここ一月分が纏めて届けられたらしい。先月の倍以上のそれらに、頭を抱える。これはとてもじゃないが放置できない。
「それでは、皇子、頑張ってくださいね」
イェッドは冷たくそういうと部屋を出て行こうとする。彼の手には既に大きな荷物が抱えられていた。
「ちょっと待て!」
「なんです。休暇は返上しませんよ。あなたと違って、私は半年も前から申請してるのですから。不在の間の引き継ぎもやっています」
「…………分かってる。ついでに頼み事だ」
僕は諦めの溜息をつくと、机の引き出しから小さな包みを出す。
「これをスピカに。それから――――」
「伝言はやめてくださいね、鳥肌が立ちますから」
「…………」
寸前で釘を刺され、僕は口を閉ざす。
僕はイェッドを待たせて便せんに言葉を綴る。この頃ようやく言えるようになって来た言葉が頼り無さげに便せんの上に乗った。それに封をすると、もう一通、手紙をしたためた。
「こっちはスピカ、こっちはレグルスと一緒に見てくれ」
間違えないように、強く言いながら渡すと、イェッドは口の端をにやりとゆがめた。
「間違えたらどうなるんですか」
「……鳥肌が立つだけだ」
少し赤くなって上目遣いで睨むと、彼はそれを胸元にしまう。そして一礼して扉から消えた。
僕は扉をしばし見つめていたけれど、大きくため息をついて書類の処理に戻る。
それからふと思いついて、自分の予定表を開くと、スピカの出産予定日周辺の欄を赤のインクで塗りつぶした。