番外編 隠された瞳―4
あたしはその場をミアーにまかせ、宮へと戻る事となった。彼女は上手く誤摩化してくれると妙に自信満々に言っていたけれど……さすがにちょっと心配だった。
父の部屋で侍女の服に着替えると深く帽子を被る。早朝で出仕していく人波にまぎれ本宮の入り口をくぐった。
「ヴェガ様、昨日の事話したら怒るだろうな」
思わず呟く。怒ったときの彼女はとても怖いのだ。あたしは彼女の事が大好きだけれど、あのときの彼女だけは小さい頃から苦手だった。
よくシリウスといたずらして怒られていたのよね。
あたしはため息をつきつつ、ヴェガ様の部屋の扉を叩く。
扉が開いたかと思うと、中から人が飛び出して来た。
「ヴェガ様!?」
まず、侍女ではなく本人が現れた事に驚き、そして、いつも落ち着いている彼女には似合わないその勢いに驚く。
彼女はあたしの顔を見ると、引きずるようにあたしを部屋の中に連れ込み、思いっきり抱きしめた。
「よかった――! スピカ」
「ヴェガ様……どうして」
まるであたしが来るって知ってたかのよう。
「レグルスが教えてくれて。あと、陛下も」
ああ、ヴェガ様にも手紙が届いたんだ。
彼女はあたしの背を撫で続けた。
「ごめんね、シリウスがあなたに酷い事を……」
「……!」
一気に顔が赤らむのを感じる。
な、なんで知ってるの? な、なに? シリウスったら話しちゃったの?
「え、えっと、ヴェガ様が謝る事ではないです。それに、シリウスは反省してるみたいだったし」
あたしがそう言うと、ヴェガ様はあたしの肩を痛いくらいにしっかりと掴み、きっとあたしの目を覗き込む。
「だめよ、簡単に許しちゃ!! 気がすむまで殴ってもいいのよ。あの子、そうじゃないとまた繰り返すんだから!」
過激な発言に焦る。
殴るのはまずいでしょう、さすがに。皇子なんだし!
そう思いつつ、昔一度殴ったことがある事を思い出す。
ああ、無謀だったわ、今思うと。
「シリウスを殴るなんて……」
彼女はあたしの様子を見て大きくため息をつく。その黒い瞳には微かに苛立たしげな光が宿っていた。
「いつからかしら? あなたがそんな風にシリウスに遠慮するようになったのは。少し前は違ったでしょう? 皇子であろうと、あなたはちゃんとシリウス自身を見てたはずなのに」
父にも言われた事にドキリとする。
「いつからって言われても……最初から、です。だって……シリウスは皇子なんです」
「子供のときもそう思ってた? 再会したころは、そんな風じゃ無かったでしょう?」
子供の頃は……違った。再会した頃も。
彼はただのシリウスという男の子だった。
そうだ。たぶん、シリウスの気持ちに気がついた時。あの時に初めて意識したんだと思う。彼の隣に並ぶってどういう事なのか。そして、その地位の重さ、その立場の違いに気がついた。
それでも最初は父を習って一定の距離に自分を置けばいいと思っていた。だって、側近として生きていくってそう思ってたから。父みたいな態度なら許されるって思っていた。
でも、妃になって欲しいって言われて、そうして妃として城に戻って来て。シリウスの周りの人間の態度を見てそれじゃ駄目だって、そう思った。今まで通りじゃいけないような、そんな気になった。
「宮の雰囲気にのまれちゃった? シリウスが変わったように見えたのかしら? あの子は昔のまま何も変わっていないというのに」
そうなのかもしれない。
変わったのは、あたしの方だったのかもしれない。
あたしは、周りに惑わされて、シリウスだけを見ることが出来なくなっていた。彼が皇子の立場を忘れられるのは、あたしの前だけだというのに。
『――アイツが可哀想だ』
父が言ったことの意味が、今、ようやく分かった気がした。
あたしが、言われたことを噛み締めていると、ヴェガ様はため息をつきながら椅子に腰掛ける。
あたしにも椅子を勧めると、テーブルの上に置いてあった茶器でお茶をいれてくれた。コポコポという音と上品な香りが辺りに漂う。
なぜヴェガ様が自ら? 気になって、部屋を見渡すと、侍女の姿が無い。
「あなたが来るって聞いたから、侍女は下がらせてるの。誰かいるとくつろげないでしょう」
彼女はそう言って少し微笑む。いつも思うけれど、なんでヴェガ様は何も聞かなくてもあたしの言いたいことが分かるのかしら。
そう不思議に思って彼女を見つめると、あっさり言われる。
「あなた、顔に出やすいのよ」
「……」
あたしの力なんて……ヴェガ様のこの観察力にはまったく敵わないんじゃないんだわ、多分。
そんな風に肩を落としつつ、帽子を脱ぐ。先ほどから蒸れて気持ちが悪かったのだ。
帽子とともに髪留めが外れ、ふわりと肩から背中へと髪がうねった。
「あ」
あたしの髪は、細くて量が多いためか、纏めるのにとても時間がかかる。髪留めがスルスルと滑ってなかなか留められないのだ。
その手間を思ってため息をつくと、ヴェガ様が何かを思い出すように呟いた。
「そうしてると、昔を思い出すわね。相変わらず綺麗な色。かくれんぼをすると、あなたのその髪が草の色や花の色に溶けてしまって捕まえられなかったから、シリウスはいつも『スーはずるい』って悔しがってたわよね。逆に、あの子はどこにいてもすぐに見つかっちゃうから」
くすくす思い出し笑いをしたかと思うと、ヴェガ様は優しくあたしを睨む。
「あの子、本当に全力であなたを捕まえようとしてるから。私もね、あの子に捕まえてほしいのよ。……でも、無理は言えないから」
「ヴェガ様」
無理は言えないと言いつつ、彼女の瞳は真剣だった。何が何でも説得しようという顔をしていた。
「子供の時みたいに素直に接すればいいの。ワガママだってもっと言えばいいわ。あなたただでさえ我慢しすぎてるんだから」
あたしは、静かに首を横に振る。こんなに心配してもらえて、あたしは幸せ者だと思った。
「いいんです。ワガママなんか聞いてもらえなくても。あたしは彼の側にいたいから、だからそれさえ叶えば、それでいいんです」
「……!」
ヴェガ様は直後拍子抜けしたというような表情を浮かべた。
勢いを削がれ、すぐには次の言葉が出て来ないようで、手元のカップを持ち替えたりしている。
彼女は大きなため息ののち、漸く言葉を漏らす。
「呆れた。どういうこと? 私、相当時間をかけて説得しないとって思っていたのに。あの子、いったいあなたに何を言ったって言うの? だって……あなた……」
訳が分からないという風に目を見開く彼女の前で、あたしはシリウスの言葉を思い出して思わず赤くなる。
それだけで十分だってそう思えた、あの言葉。
「あいしてるって」
ヴェガ様はあたしの言葉に固まっていた。ぽかんと口が開いている。
……そんな、変なこと言ったかしら?
あたしが怪訝に思っていると、その顔に徐々に怒りが浮かんできた。ふと彼女の手元を見ると空のカップを握り締めた手がぷるぷると震えている。
「……それだけ?」
え?
「まさか……あの子……それさえもあなたに言ったことが無かったとか?」
「え? ええ」
「寝所の中でも?」
「……」
あまりに直接的な表現にあたしが黙り込むと、ヴェガ様はウフフフと不敵に笑い出す。
「ま、さ、か、そこまでどうしようもないとは思わなかったわ。ふ、ふふ、これは……あとでお仕置きしないとね」
目だけ笑っていないその笑顔は、怒った顔より数倍恐かった。
お、お仕置きって。
昔を思い出して血の気が引く。あたしの記憶にあるのは、彼女がシリウスのお尻を何度も叩いているそのシーンだけだった。今それをやられると、あまりにも絵にならない。
「あなたもあなたよ? そのくらいもっと言ってもらいなさいよ! 満足するまで何回でも! あの子鈍いんだから、はっきり言わないと分からないの! ああ、それどころか言っても分からないくらいなのよ! ――大体その言葉一つも言わないって、……あなたたちベッドの上では会話の一つもないってこと?」
ああ。
例の追求が始まったのを感じ、あたしは部屋を逃げ出したい気分になる。怒られてる方が何倍もマシだった。でも、今日は逃げ場がどこにも無い。助けてくれる人も、居ない。
もっと話すべきことは他にある気がしたけれど、彼女を取り巻き出した雰囲気はそれを許してくれそうには無い。
――どうやら観念するしかなさそうだった。