表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第二部 闇の皇子と緋色の花嫁
89/124

番外編 隠された瞳―3

 どこか遠くの方で水が流れる音がしていた。窓を開けると、雨の匂いがした。暗闇の中、雨が部屋の明かりに照らされれ、所々細く白い筋を描いている。

 指先が窓についた水滴で冷やされ、ジンと痺れる。あたしは手を拭うと、そこに息を当て暖める。


 ……そろそろ、眠ったかもしれない。


 あたしは長椅子から身を起こすと、そっと立ち上がり、いくつもの牢の扉を横目で見ながら、『あたし』の居る牢の前へと足を進める。

 あたしが牢に着いたあとすぐに、シリウスはやって来た。何も答えない〈あたし〉にも彼は諦めず、牢に泊まり込むと言い出した。そして父が予言していた通りに、牢の中のシュルマに向かって懺悔を繰り返した。見ていられなくて飛び出そうとしたあたしは、ミアー――父があたしの護衛につけてくれた女性だ――に引き止められて、淡々とお説教をされて、極めつけに今度やったら宮に送り返すと脅されて……大人しくなった。正直、父さんに怒られるよりも堪えた。だって表情がないんだもの。怖い。


 牢から少し離れた場所の長椅子でそのミアーが頭を揺らしながらうつらうつらとしていた。あたしとシリウス両方に目が届く場所だった。あまり近くだと眠れないだろうという配慮だろう。その手元に長剣を置いたまま。おそらく少しの気配でも対応できるよう、訓練されているのだ。昔、父にそんな風に教わった事を思い出す。

 騎士にはなりそびれちゃったけど、きっといつか役には立つわ。

 そんな風に思いながら、息をひそめ、ミアーの前を通り過ぎる。

 シリウスとの距離が縮まるのを感じて、急に胸が暴れだす。どくん、どくんと脈打つようなその音。廊下に響くんじゃないか、そのくらい大きな音に聞こえた。

 寒かったのかもしれない。シリウスは長椅子の上で体を丸めて眠っていた。

 毛布をかけようと、彼の目の前に立つと、今まで影になっていたその白い顔が蝋燭の光に浮かび上がり、はっとする。

 その頬には、一筋の涙の痕があった。

 子供のような寝顔にそれはあまりに痛々しく映る。

 我慢して、我慢して。堪えきれなかったその想いが、そこに流れ出てるように見えた。


 あたしは、気がついた時には、その一雫の涙に口づけていた。そうすることで彼を少しでも慰めたかった。


 苦い。


 口の中に涙の味がじわりと広がる。鼻の奥が痛くなり、あたしはすんと鼻をすすった。

 その音に反応するかのように、彼の瞼がぴくりと動き、驚いて体を離す。


 ――あ


 目を見開いて彼を見つめると、その黒い瞳がじっとあたしを見つめ返していた。


 あたしは身動きできなかった。

 漆黒の瞳は、あたしを逃がしてはくれなかった。どこに逃げようとも追いかけて捕えられてしまいそうだった。

 瞬きもせずにあたしを見つめる闇の眼に、あたしは根負けして、近づく。

 一旦足が動くと後は吸い寄せられるようだった。


「シリウス」

 あたしは気がつくと彼の名を呼び、そして、彼のその左手を握っていた。

 いつもと同じ、ひんやりと少し冷たい手。

 彼はこれを現実とは思っていないようだった。その瞳は夢を見ているかのように甘く輝いていた。それを見ていると、まるで、時がこの宮に戻る前に戻ったかのように思えた。

 そして現実との差異に胸が痛くなり、思わず謝る。彼を苦しめていることが辛かった。

「ごめんね」

 あたしは、彼が何か言いたげに口を動かすのを見て、意を決して彼の心に忍び込む。どうしても彼の言葉を聞きたかった。


『何で君が謝るんだよ?』


 あたしは答えてあげたかった。全部洗いざらい話してしまいたかった。

 もう、こんなシリウスを見るのは嫌だった。辛過ぎたのだ。

 でも――それをすれば、今迄のことが全部無駄になってしまう。傷だけを残してしまうことになる。

 だから、せめて。――彼は夢だと思ってるから。このくらいは赦して下さい。

 ぎゅっと彼の手を握りしめる。そして彼の耳元へと唇を寄せ、そっと囁く。

「あたしも、あなたのこと、愛してるの。きっとあなたよりもたくさん」

 彼の目が一瞬大きく見開かれる。そして少し不満げにあたしを睨んだ。


『僕の方がたくさんだ』


 変なところで負けず嫌いなんだから。

 あたしは胸の痛みを堪えるため、少しだけ微笑む。そうしないと涙がこぼれそうだった。

 その場を去ろうかと思ったけれど、……名残惜しくて足が動かない。

 あと、ちょっとだけ。あたしはすばやく彼の額の黒髪を払うと、その形の良い額に軽くキスをする。直後離れようとしたけれど、一瞬早く後頭部にシリウスの手が回っていた。


 ――あ


 避ける暇もなく、唇が触れる。

 そのあまりの甘さに、膝の力が一気に抜けた。


『こんな夢なら、覚めなければいい』


 彼は眠ってるはずだった。その心を読んでも明らかだった。そのはずなのに、彼の体はまるで普通に意識があるかのように振る舞い、あたしはぎょっとする。

 唇を重ねたままもう一方の腕で腰をしっかりと固定された。そして後頭部に回された手で帽子が脱がされたかと思うと、纏めていた髪をほどかれる。一気に落ちる髪が波のようにあたしとシリウスを包み込んだ。

 それはいつもの手順だった。

 あたしは、彼が寝ぼけながらもこの続きを求めてるのを感じて、さらに焦る。

 夢だと思ってるせいか、迷いがなかった。腰に回された手があたしの肌を求めて服の隙間から滑り込む。その指先がさらに服の奥へと進み、熱を与え始める。慌てて手首を押さえると、突然もう一つの手が胸に触れる。不意打ちに思わず体が跳ねる。声が漏れそうで、歯を食いしばろうとするけれど、今度は彼の舌に阻まれた。そのまま絡められて呼吸ごと飲み込まれる。痛いくらいの遠慮のない激しい口づけ。目眩がした。

「――ん、んん!」

 逃げようと身じろぎするけれど、すでに足に力が入らない。彼はあたしが逃げることを許さない。

 ふいに体が反転して、目を開けると、あたしの上にシリウスが居た。

「待って」

 そう言うと、彼が顔を上げる。朦朧としたその目はやっぱり夢を見ている。彼は、にっこりと幸せそうに微笑んだ。

『待てない』

 彼の指が軍服の襟にかかる。見ると、すでに前は殆ど開けられていて、残すは襟元のボタン一つだけだった。

 あたしは、思わず身を引く。シリウスがすかさず膝を進め、あたしに覆い被さった。二人分の重みに絶えきれず、長椅子がミシと悲鳴を上げた。

 ――こ、壊れる! 壊れたらさすがに起きちゃう! っていうか、ホントに寝てるの? もしかして演技? だったらどうしよう。あ、ちょ、ちょっと、シリウス――――!



 * * *


「殿下が参っていらしたので、少しだけならと見逃そうと思っていたら……とんだことになるところでした」

 淡々と言うミアーにあたしは俯いたまま顔を上げられなかった。目の前の革靴をじっと見つめながら、

「少しだけのつもりだったの」

 と言い訳するものの、あぁ……恥ずかしすぎる。

「隊長があなたたちのことを心配される訳も、よく分かりました」

 やれやれという感じでミアーは大きなため息をつく。

 視界の端には毛布に包まって寝息を立てるシリウスの姿が映っている。

 あの後、ミアーがあたしをシリウスの腕の中から強引に引っ張りだしてくれたのだ。

 離すまいとするシリウスとミアーの力比べは、お茶のせいもあり、ミアーの勝利に終わった。よくよく聞くと、あのお茶は慣れないと幻覚を見る事もあるらしい・・・。それにしては……まあ、都合良く薬が効いたものだなとちらりと思う。

 シリウスは何が起こったかよく分からなかったらしく、しばらくぼんやりとその瞳を空に漂わせていたけれど、結局そのままクタリと眠りに落ちていった。その顔は随分と明るさを取り戻していて、あたしはほんの少しだけ安心できた。

「あなたはいつもそうなんですか? 出来る範囲の中で最大限のことをしようという心意気はいいのですけれど。そのギリギリの線だけは見極めて頂かないと。あなたは、陛下とのお約束を危うく破られるところだったんですからね?」

 再び始まったミアーの説教にあたしはただ頷くだけだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ