終章
厳粛な空気の中、つつがなく立太子の儀が執り行われた。
夜の闇のような僕の隣に、真昼の光のようなスピカが並ぶ様は、なぜかとても人の心を打つものだったらしい。父も叔母もレグルスも、さらには驚くべき事にイェッドまでが涙ぐんでいた。
僕は『シリウス』という名を披露し、正式にジョイア国皇太子となった。
そして――隣に立つスピカは正式に僕の妃となった。
各国の代表がそれぞれに祝辞を述べる中、もっとも警戒したアウストラリスの代表は僕の知らない人物で、当たり障りの無い祝辞を述べただけだった。国としてどうするのか――そこからはまだ何も汲み取れなかった。
その後中庭に面した広間に会場を移して披露宴が開かれ、僕たちは各国の賓客を接待する。
付け焼き刃の知識だったけれど、僕とスピカはなんとか失礼のないよう、彼らをもてなした。
日が暮れ、宴が終わると、ようやく僕とスピカはその仰々しい服と肩書きを外して元の僕らに戻ることが出来た。
僕は部屋に次から次へとやってくる、挨拶と称して新しく娘を紹介しようとする貴族にうんざりして、闇にまぎれてこっそりとスピカの部屋に忍んできていた。
――今夜こそは、誰にも邪魔されずに過ごしたかった。
部屋の扉を叩くと、シュルマが顔を見せ、僕の顔を見ると笑いを堪えるような顔をする。少し聞いたところに寄ると、やはり僕は彼女に向かって散々懺悔と、愛の告白をし続けたらしい。僕としては、正直、もうあわせる顔が無い。彼女は僕の引きつった顔から気持ちを察してくれたのか、早々に退散する。
案内された部屋の中、スピカは僕の贈った艶やかな若草色のドレスに着替えていた。下ろしたままの金色の髪が余計に華やいで見える。春のツクルトゥルスに咲く黄色い花のようだ、僕はそう思った。
「はい、これ」
スピカはまず一通の手紙を僕に差し出した。
「なに?」
僕は怪訝に思いながらもその便箋を開く。――それはスピカに宛てられた父の手紙だった。
読み終えて、いくつかの謎が解ける。
辿り着けなかった部屋をはじめとした、数多くのすれ違い。妙にスピカに冷たかったセフォネや、イェッドの不自然な態度。それから――スピカがなぜ、僕の前に姿を見せなかったのか。そして、彼女の謝罪の意味。
「これを受け取ったのは?」
「うん。牢に行く前の晩よ。あなたが部屋の前に来た後すぐに」
「そう、か」
じゃあ、あの時の僕の言葉は――
そう思って見つめると、彼女は少し赤くなって頷いた。その仕草で十分に彼女の葛藤を理解した。
「――陛下にね、お願いされて……どうしても断れなかったの。ごめんなさい」
「父上……」
今回あがいてもあがいても、何か見えない手に阻まれているような……そんな気分になったのは、このせいだったのか。
父は過去の事もあって今まで僕に遠慮して甘かった分を一気に取り戻そうとしているのかもしれない。
そんな風に思う。
おかげで、目が覚めたこともあった。確かに、僕には皇太子としていろんなことが足りなかった。
「厳しいけれど、いいお父様よね。……うちの父さんとは大違い」
スピカがそう呟く。
「いや……レグルスをそんな風に言っちゃ駄目だ」
――皇子も頑張りましたけれど、後一歩でしたね――
レグルスが宴の合間、僕にそう言ったとき、分かった。僕がメサルチムの言葉に動揺して、彼にスピカの警護を頼んだとき……既にレグルスは入れ替わりまで計画したのだろう。万が一のことを考えて、手の使えないスピカの代わりを、あの見かけ以上に腕の立つ侍女に任せて。
だから、彼女が連行されるとき、あんな風に気の毒そうに僕を見たのだ。
……その機転のおかげで……今回は助かったのだけれど。制約の多い中、彼は出来る限りの事をしてスピカを守っていた。
後一歩と言えば……イェッドの宿題にしてもそうだ。
さっさと終わらせていれば……。
彼に貰った宿題の最後のページに一言書いてあったのだ。僕が皇太子としてやるべき事をやれば、自然に目に入るように。――父に簡単に手助けをするなと言われていたのだろうか? そうも思ったけれど、どちらかと言うとイェッド本人の判断のような気もする。
『人と人のつながりは血縁だけではありません。交友関係も疑いなさい』
――あの後貰った調書によると、グラフィアスは、以前からルティとかなり親しくしていたらしい。
本人に確認したところ、あの誘拐事件後も接触していたと言う。そして、今回の件に協力した。うまくいけば、そのままアウストラリスに職が用意されていたそうだ。
道理で、彼は知るはずの無い情報を知っていた。
情報をまったく伏せてあるはずの誘拐事件だったのに、『成人の儀の翌日二人で逃げた』と。
実際は違うけれど、その辺はルティから聞かされたのだろう。根は真面目そうな人間だ。そう聞いて同情もしたのかもしれない。
そういう訳で微妙にずれた情報が伝わっていたのだ。噂が二種類あったのも……そのせいで。あ、そうだ。そういえば……宮に流れたもう一つの噂は——
考えを巡らせようとした時、スピカが急に真面目な顔を僕に向ける。
「ねえ、シリウス。……あのね……えっと」
「……どうした?」
スピカが戸惑ったように下を向く。聞くのを躊躇っているようだった。
「他の妃候補たちは……」
「ああ……」
僕は一気に憂鬱になる。
僕は結果として……スピカ以外のすべての妃候補を失った。
もちろん、それ自体は喜ばしい事だ。だけど……
「シェリアは、親の収賄容疑のあおりを受けて、結局辞退したよ。あと、本物のエリダヌスは……事件にショックを受けてガレへと帰った」
あれだけしつこかったシェリアは、アレクシアの容疑が固まると同時にケーンに帰ることになった。普通、子が親の罪を被ることは無いのだけれど、なぜか急に態度を変えたので、僕は心の底からほっとしていた。彼女に関しては、どうも胡散臭い印象を拭えないままだった。あの後スピカのうわさ話をよく読み直したら、スピカの母親の話が混じっていたのだ。――となると、情報を流した人間は限られる。その辺、もうちょっと調べてみようかと思っていた矢先の事で。穿ち過ぎかもしれないけれど、……もしかして逃げられたのかも。
そして本物のエリダヌスにも慰労のため少しだけ会ったけれど、被害にあったエリダヌスとは似ても似つかない大人しい娘だった。その分打たれ弱く、痛々しいくらいに憔悴してしまっていた。
スピカはシェリアの名が出たとき、妙に嬉しそうに顔を輝かせたけれど、僕が言葉を継ぐと再び神妙な顔になる。
「あと……タニアは知っての通りだし」
結局タニア――ミネラウバは容疑を認めたものの、はっきりとした動機を口にする事は無かった。彼女の口からルティの名前が出る事も無かった。
それがルティを庇っての事なのか……真実は未だ謎のままだ。
また、エリダヌスの身代わりの少女の身元も、未だ分からない。シトゥラとどう関わりがあるのかさえ、まったく掴めないままだった。
「あと……アリエス王女には」
僕がなんだか納得いかないのは〈そこ〉だった。
「――振られた」
真面目な顔をして話を聞いていたスピカが、それを聞いて吹き出した。
「そ、そういえば、あたし……あの夜、王女に出くわしちゃったのよね……」
そうなのだ。
王女はどうも……僕の事を誤解したまま国に帰ってしまった。
いや……誤解じゃないのか。彼女は僕がスピカを泣かせたところを目撃していたそうで。つまり、事件におびえたわけでも、容疑におびえたわけでもなく……単純に僕におびえて帰ってしまったのだ。
12歳の少女には、あの時の僕の態度とスピカの姿は衝撃が強過ぎたらしい。
ティフォンから妃候補がやってくる事はもうないだろう。
スピカは僕に背を向けてくすくすと笑い続ける。余りに長く笑い続けるので、僕が少し気を悪くすると、彼女はそれを察したのか、振り向いて顔を上げた。
「ごめんなさい、喜んじゃいけないのかもしれない。……でもなんだか嬉しいの」
彼女は目の端に溜まった涙を指で拭いながら、そう言う。その顔には色んな感情がごちゃ混ぜに詰まっているようだった。
その泣き笑いの表情が胸に刺さり、思わず彼女を引き寄せる。
「これからも、僕が君以外に妃を娶る事は無いから」
――君が僕の最初で最後の妃だ。
僕は彼女を抱きしめると、その耳元で念を押すようにそう言った。
腕に力を入れると、先ほどの父の手紙が胸元でカサリと音を立てる。あ、そういえば……!
「ねえ、君にあげた手紙、あれ、返して欲しいんだけど」
「だめよ。一生とっておくんだから」
「……! や、やめてくれよ――!!」
書いたことを思い出すと顔から火が出そうになる。
「『君が隣にいない世界は僕にとって意味は無いんだ――』」
一体何度読んだんだろうか、スピカが嬉しそうに暗唱しだしたので、僕は慌ててその口を塞ぐ。
――ああ、もう敵わないな
そう思いつつ、ようやくそういう雰囲気になったことに僕はホッとする。腕の中のスピカは黙って僕の胸に背を預けていた。
スピカが気の済むまで話を聞こうと決めていたのだけれど、このまま朝になったらどうしようとも思っていた。
「……そろそろ、話をやめてもいいかな」
僕がそう言って見つめると、スピカは真っ赤になって頷いた。
小さく開いた窓から見える月は満月。闇を溶かしてしまいそうなその優しい光に祝福される中、僕たちは心を込めて愛し合う。
――この幸せがずっと続く事を願いながら。
-fin -