第11章―2
一歩一歩がなぜだか重たかった。
――不安? それとも、これでスピカの自由を得ることが出来るという期待か? それとも――
悩みつつたどり着いたその部屋。
扉を叩くと聞きなれた澄んだ高い声がして、僕はそれに応えるように思い切って扉を開く。
「――ミルザ」
「お兄様、どうされましたの? 怖い顔をなさって」
柔らかく微笑む妹に僕は問う。
「聞きたいことがあるんだ」
「……どうぞおかけになって?」
ミルザは僕に椅子を勧めると、侍女を呼び、お茶を用意させる。
テーブルの上に乗っていたフルーツが少しだけ甘酸っぱい香りを放っていた。僕はその中からオレンジを一つ取り出すと、それをいじりながら、黙って茶を待った。
「聞きたいことってなんです?」
「……うん。お茶が来たら、話す」
やがて待っていたものがやってくると、僕は口を開いた。
「君の父親って、メサルチムだったんだね。ミネラウバ。――いや、タニアか」
テーブルの上に、茶器が落ち、音を立てて割れた。茶菓子も、銀で出来たフォークも同様に散らばる。
見上げると、青白い顔をしたミネラウバが目を見開いて僕を見下ろしていた。
「宮では、侍女はその身分を隠して勤めること、すっかり忘れてた」
僕は淡々と言う。
目の前ではミルザがきょとんとして僕とミネラウバを交互に見つめていた。
おそらく、ミルザの耳にはそのことは届いていないのだろう。
「え、タニアって……つまり、お兄様の」
「そうだ。なんで顔さえ見せないのかって不思議だったんだ。メサルチムには……言っていないんだろう? 前回の事件のことは」
ルティと繋がっていたことなど、メサルチムがもし知っていたなら、いくらあいつでも妃候補にするなど考えないだろう。僕がタニアが誰か知れば、その話は父親にすぐに知れる。普通に考えても、年頃の若い娘にとってそんな話がつきまとうのは、将来を考える上で致命的だろう。親が知らないとすれば、……なんとしても隠し通そうとするに決まっている。
ミネラウバは少し震えながら、割れた茶器を片付けている。
「……私は……」
「ごまかせはしないよ。こればかりは。なんならメサルチムを呼んでもいい」
ミネラウバは手に持っていた茶器を再び落とす。
あの強引な父に、この意志の弱そうな娘なら、だいたいの力関係は想像がつく。やはり絶対に知られたくはないのだろう。
「君がやったんだろう」
「……なんのことでしょうか」
震える声で言うと、彼女は僕をまっすぐと見つめた。
僕は初めて彼女の瞳をしっかりと見た気がしていた。青いその瞳は微かに震えていた。
静まりかえった部屋に僕の声が響く。
「エリダヌスを殺したのは、君だ」
「いいえ。それはスピカ様です。……皇子もご自身でご覧になったでしょう?」
震えながらもきっぱりとミネラウバは否定した。
「いや、違う。彼女は犯行時刻には僕と一緒に居た。それは確実なんだ」
「皇子はあの娘を手放したくなくて、庇われていらっしゃるのです」
「たとえそうだとしても……彼女には不可能だった」
ミネラウバの表情が一瞬強張る。
「君は、スピカが怪我をしたことを知っていたか? 右手の手のひらに」
「右手……」
「彼女は、右手で力の要る作業をすることはもう出来ないんだ……例えば、剣を握るとか……ナイフを使うとかね」
「……」
「だけど、発見時、彼女がナイフを握っていたのは、右手だった。そして、遺体を調べたら、致命傷は右利きの人間から刺されたものだと分かった。もしスピカがやったなら、左側からの傷でないとおかしいんだよ」
ミネラウバは盆の上に壊れた茶器を乗せながら、黙って僕の話を聞いていた。
「本当に使えなかったかどうかなど……分かりませんわ。火事場の馬鹿力、などと言うではありませんか」
「いや……それ以上に、おかしいことはあるんだ。……君、暗かったから分からなかった? それとも、気づいたけれど気にならなかったのかな?」
「何をです」
僕は、右手を上げると、手に布を巻く仕草をする。
「スピカの手の包帯だよ」
「……包帯?」
「彼女は傷を隠すために手に包帯を巻いているんだ。そして、発見時、その色は白かった」
「……」
「どういうことか、分かるだろう?」
僕は、ハンカチを手に巻くと、茶菓子用のフォークを持ち、テーブルの上に置いたオレンジに思い切りそれを突き刺す。オレンジをフォークごと持ち上げると、一気に果汁が滴り、手に巻いたハンカチに染み込んで行く。
「こういうことだ」
部屋には沈黙が広がった。
「だから、どうされたのです」
ミネラウバは、きっと顔を上げると、僕を睨むようにその青い瞳を煌めかせた。その表情は、さっきまでの彼女とはまるで別人だった。僕は一瞬怯む。
「え?」
「だからといって、私は関係ありませんわ……。だって、あの部屋は密室だったのですよ? 一緒に確認されたではありませんか?」
「悪いけど、だからこそ、君だと思ったんだ。『あれ』が出来るのは……君しかいなかったから」
――あの時、おかしいと思えば良かった。なぜ、彼女があの場所にいたのか。
わざわざ彼女はあの部屋の前に戻って、血だまリを発見していた。まるで、見つけて欲しいかのように悲鳴を上げて、僕を呼び寄せた。
「僕はさっき、現場を見て来た。そして意外なものを見つけたよ。……エリダヌスの遺体があったその場所にね」
僕はテーブルの乾いた場所に黒い紙に包まれた茶菓子を置くと、その上からオレンジを絞り、果汁をしたたらせた。甘酸っぱい香りが部屋の中に一気に広がる。
「……こんな風にさ、遺体が元にあった場所の下に痕が残るのは分かるよね?」
僕は、黒い紙の茶菓子を手前に少し滑らせると持ち上げる。
茶菓子の下にはその形通りに果汁が取り囲んだ何も無い場所が残っていた。
「問題は、この『何も無い場所』の位置だ」
僕は茶菓子で果汁が広がらなかったその場所を指で押さえる。
「遺体が移動されて、僕も初めて気がついた。これは扉のすぐ側になければいけなかった。なのに、エリダヌスの遺体のすぐ下にあったんだよ。変だろう? ……つまり、エリダヌスの体は扉を完全には塞いでいなかったんだ。どうして僕が『エリダヌスの体が扉を塞いでいた』と証言したか。――それは君がそういう風に演技をしたからだ。本当は扉は塞がれていなかった。それなのに君は扉が重くて開かない振りをした。そんな演技を必要とするのは一体誰だい? 犯人以外、あり得ないだろう?」
どんどん青ざめるミネラウバの前で、僕は淡々と続けた。
「本宮や外宮の守衛は、『妃候補』や『不審人物』は見なかった、そう言った。僕は聞き方を間違った。……侍女侍従については聞いていないんだ。当たり前にウロウロしているからね。だれもタニアとしての君は知らないし。もし、君の名前を出して尋ねたら、きっと見かけたと答えが返ってくると、僕は確信してるよ?」
ミネラウバが、ふとその顔に笑顔を浮かべた。――それはぞっとするほど美しかった。
「あなたを……甘く見すぎてたのかもしれませんね。……まったく〈彼〉と張り合えない、そう思っていましたのに」
そう言うと、彼女は茶器を乗せた盆をテーブルに置く。
「……君……まさか、まだ」
まさか――僕の妃を嫌がった理由というのは――
ふとミネラウバが顔を扉の方に向けた。彼女の視線を追うと、そこにはいつの間にかレグルスがいた。
黙ったまま彼女は扉に向かう。
僕は、彼女にどうしても聞かなければならなかった。慌てて問う。
「君にどうしても聞きたいことがある。……なぜエリダヌスを殺す必要があった?」
彼女がやったというのは確実だった。
ミネラウバがタニアだとすると、『妃の座を狙った』と一応の動機はつけられる。しかし、もし、彼女がまだルティのことを忘れていないとすると……それは、別の意図が隠されているような気がしてならない。
ミネラウバは、静かに首を振る。そして、少しだけ意地悪そうな表情を浮かべると僕を見た。
「……ご想像にお任せしますわ」
そしてミルザの方を見ると、深く頭を下げた。
「ミルザ様、今までありがとうございました。……私はもっと早くこうなるべきだったのですわ」
ミルザは何が起こったか分からないといった様子で呆然としていた。
薄い色の金髪を揺らしながら部屋を出て行くミネラウバを見送りながら、僕は必死で頭を働かせた。
――どうしても、何か食い違っているような気がしてならなかったのだ。