第10章 過ぎ行く時―1
午後になると、イェッドが兵からの情報を集めて戻って来た。
〈宮に流れている僕とスピカに関するうわさ話について〉と書かれた表紙をめくると、小さな字が並んでいた。
「どちらも単純に会話を拾っただけのものです。纏める時間がありませんでしたので」
僕は頷くと、まず叔母が作ってくれた調査書に目を通す。
――あぁ、あの子? たいして美人でもないのに、皇子に取り入ったっていう?
――大層な技術を持ってるそうよ? なんでもお母様がそういうお仕事だったとか
――え、それって閨での?
――そうそう
――だって、いままで女性に全く手を出さなかった皇子が、なんですもの。自分から積極的に迫ったに決まっているわ
――あんな大人しそうな顔をしているのにねぇ
――人は見かけに寄らないって言うじゃない? ほら。ルティリクス様っていらしたの覚えている?
――あ、知ってる。あの方に憧れていた侍女を知ってるのだけど――随分あの娘にはご執心だったみたいよ? そうやって取り入っておいて、皇子も狙っていたって事よ!
――あぁ、そうか。将を射んとすればまず馬を射よって言うものね。あのルティリクス様は馬ってこと? 酷い話――
――それがね。そうでもないみたいよ。だってまだ交流があるみたいで……あの方の配属ってオリオーヌでしょう? 彼女、宮に戻るまでずっとあちらに居たみたいじゃない? つまり……
――え? まだ繋がってるの? うわぁ……二股なんて、良い根性してるわねぇ
――たぶん二股どころじゃないのよ。ほら、近衛隊の……
そこには生々しく、毒々しい会話文がそのまま書かれていた。
読むに連れてだんだんと気分が悪くなる。――これは、ひどい。誰がこんな事言い出したんだろう。噂の発生源に言及した会話をいくつか拾ってみるものの、どうにもはっきりせず、苛立つ。
その後は途中でイェッドが纏めてきた調査書に切り替わる。兵の中で広がっている僕のうわさ話だった。
――そういや、あいつも可哀想だったなぁ。
――ああ、あの。大抜擢だったのに、……恋人が目当てだったのかな。
――時期的にもそうだろう。恋人が宮に侍女として上がるなり、すぐに目を付けられたんだきっと。
――恋人は奪われ、地位も奪われるなんてな。踏んだり蹴ったりだ。
――あれ? あいつは辞めさせられたんじゃないだろう? 恋人を奪われて我慢ならなかったって聞いたけどな。……たしかに可愛かったからなぁ。俺、誘おうと思ったんだけど、あいつが相手じゃなあと思ってて、やめておいたんだ。
――お前もか? 俺、じつは……な。誘った後で突然襲われたんだ。あれ、もしかしたら……が手を……
――そうなのか? あり得るな。しかし誰かお諌めしなければいけないんじゃないのか? さすがに行き過ぎているだろう?
心の中でいろいろと反論しながら、我慢して読み進めると、やがて何か微妙な違和感を感じた。
え、これ? 何か食い違っている……?
僕は自分で会話を纏めてみる。侍女の中で流れている噂では、スピカが僕とルティとを二股をかけていて、未だルティとも繋がっているという。
兵の中で流れている噂では、僕が一方的にスピカに惚れ込んで、ルティから権力を傘に奪ったという。ルティはその後、それに傷ついて職を辞し、国に帰ったと。
どっちもどっちで、ひどいことに変わりがないが、ともかく、男と女で真っ二つだった。
情報源が二つある……そんな感じがした。
僕がそう言うと、イェッドは淡々と返す。
「そんなものですよ、噂なんて。自分たちが面白いように作り上げるのですから。女性はスピカに対するやっかみ、男性はあなたに対するやっかみでしょう」
「……そうかな」
そう言われてみればそうなのかもしれない。……ただ何となく引っかかった。
それに……
「スピカの目撃証言は、無しか」
「はい」
期待していただけに、がっかりしたが、イェッドがにやりと笑いながら呟く。
「何をがっかりしているのです? 逆におかしいですよ。これは」
「え?」
「スピカ様は誰にも見られずにあの現場に入ったことになります。どう考えても、だれかが嘘をついています。……と思って、ちょっと調べて来ました」
「……」
僕は複雑な気分になる。有能なのか、そうでないのか。
「これです」
イェッドが取り出したのは、事件当日の守衛の割当だった。
「事件が起こった日の西の外宮の担当を見て下さい」
「……グラフィアス……か」
「そうです」
やはり、ヤツが一枚噛んでいると思って良さそうだ。……しかし、それだけじゃ足りない。
「本宮の守衛とか、分からないかな?」
僕が言うと、イェッドは荷物からもう一枚紙を取り出す。
「特にこちらは問題ないようですが……」
僕は紙を覗き込む。
確かに……特に気になる名前はそこにはなかった。
「うーん」
イェッドは、不可解そうに俯く僕に向かってさらりと言う。
「ところで、皇子、宿題は進んでますか?」
「……」
どうしてそういう話の運びになるんだろう……。
僕は焦る。
まったく目を通していない。貰ってから机の上に放置したままだった。
「明日までですからね」
やってないことはなぜかばれているようだ。
じろりと彼は僕を睨む。
「分かってる」
正直、どうでもいいという想いが心の隅で燻っていた。明日までに事件が解決しなければ……僕は皇太子という立場を捨ててしまいそうだった。
僕のやる気の無さを感じたのだろう、イェッドが意地悪そうに目を細めて僕を見る。
「ジョイアの国民より彼女をとるというのですか。……まあ、ジョイアにはミルザ姫もいますし、それもいいのでは」
意外な言葉に視線を向けると、その茶色の瞳とぶつかる。
「……皇太子でないあなたに彼女が守れるか、見物ですね」
イェッドは面白そうに笑っていた。
言い返せないのが悔しかった。
その立場を手放せば、何も出来ないことなど、そんなことはよく分かっていた。
それに、そんなことをしてしまう僕には、スピカは二度と微笑んでくれないだろう。スピカだけではない。……僕のために力を尽くしてくれた人々に僕は二度と顔向けできない。
イェッドは僕を決して甘えさせてはくれない。でも、それは今の僕には必要な厳しさだった。
「しなければいけないことは、全てやる。手抜きはしない」
僕はイェッドを見つめて、今度は力強くそう言った。
「ああ、そうそう、忘れるところでした」
そう言うと、イェッドはまた荷物をごそごそ漁り出す。
荷物をあらかた漁っても探し物は見つからなかったらしく、今度は自分の衣類のポケットを漁り出す。
「あ、ありました。これ」
見るとそれは妃候補たちの証言を集めたものだった。折り畳まれていてしわしわになっていた。
「……これ、普通最初に見せるだろ……」
僕は思わずこぼす。
一番上はシェリアの証言だった。
どうやら、グラフィアスにも変わらずの態度だったらしい。証言は僕に話したことと変わらなかった。
先ほどの兵の証言と照らし合わせてみる。当日の守衛、つまりグラフィアスは彼女の姿を見ていない。彼が嘘を言っていない限りは、彼女の犯行は不可能だろう。
それに、守衛と言っても、西の外宮はグラフィアスが担当でも、東の外宮は別の人間が担当なのだ。ごまかさなければいけないのは、グラフィアスの目だけではない。……やはり彼女はやっていないと考えていいのかもしれない。
同じ理由でタニアも除外できるのだろうけど……。問題は別にあった。
兵と侍女の証言を見ると、ほとんどの人間が彼女の顔を知らないのだ。
ここにやって来て外宮入りすることになってから、彼女を見かけたものはいない。
――まず彼女には侍女がいない。
理由を聞いたが、分からないということだった。
証言書を見ると、ここに来てからのやり取りは、ほとんどがメサルチム経由で、証言をとる時にやっと顔を見せたということだった。
存在そのものに疑いを抱いていたのだが、……一応ここに居ることは居るらしい。
しかし証言自体が「ずっと部屋で臥せっていた」と言うだけのもので、事件当日彼女を見かけたと言う証言も見あたらない。
顔を知らないのだから、見かけるも何も無いのだろうが、知らない人物がウロウロしていたら目立つに決まっていた。
怪しいことに変わりないが、やはり……違うのだろう。
アリエス王女の証言は、「その時間には寝ていた」というもので、期待はずれだった。何か見たのではないかと思っていたのだが……。
本宮の守衛の証言を見ると、アリエス王女が外に出るのは見ていないということらしいし。
僕だって、あんな幼い少女が殺人を犯したなどとは考えたくはない。
悔しいが……結局は特に進展はみられないようだった。
突破口は……グラフィアスか。
もしヤツが嘘をついているようなら、話がまるで違ってくる。
シェリアを見かけたのかもしれないし、タニアも見かけたのかもしれない。アリエス王女の証言もごまかしている可能性だってある。
まず、彼自身が怪しいのだ。
彼がエリダヌスを害する直接的な動機はもちろん見当たらない。
しかし――彼がスピカを手に入れるためにそうしたのだとしたら。
それも立派な動機だ、そう僕は考えていた。
「グラフィアスに話を聞いてくるよ」
僕はそう言うと立ち上がる。
「……グラフィアス、ですか? その前に守衛でしょう」
イェッドが不可解そうに言って僕を止める。
「なんで?」
「彼がもし嘘をついているとして、認めると思われますか? こういうのは外から固めるべきでしょう。まず、本宮の守衛。彼は、スピカ様を見ていないと言っています。そこには矛盾があるはずでしょう? どうも変な圧力を感じますからね、個別に呼び出して聞いた方がいいでしょう」
確かに、ヤツの目的が僕の考えている通りなら、何が何でもスピカを有罪に持っていくつもりだろう。となると、嘘の証言でもなんでもやってのけるに決まっている。
……今、彼に聞くのは時間の無駄かもしれない。
「お分かりだと思いますが、無駄に時間を使えないんですからね。……頭を使って、効率よくやって下さいよ」
イェッドはため息をつくと、机の上の宿題と僕を交互に見つめた。
まださぼると思ってるのだろうか……。
僕は、ちょっと嫌な気分になりながらも頷いた。
――変な圧力、か。
僕は考えていた。
兵の証言にも侍女の証言にも一貫して不自然さを感じていた。
スピカの事になるとみな口を閉ざしてしまっている感がある。
宮仕えをしているものは大抵貴族と何らかの繋がりがある。今回スピカがこういう立場に立ったことで、一気に彼女を排除しようと言う動きが活発になっていてもおかしくない。
となると、その圧力をなんとか除く必要があるのだけれど……。
僕は、その方法について一計があった。
ある意味とても危険ではあるのだが、……もう背に腹は代えられない。
自分の武器について考えると、純粋に使えるのはこれだけだった。
――昔の僕とは違う。調節だって出来るはずだ。
僕は自分に言い聞かせると、イェッドに声をかけた。
「イェッド、もうちょっと付き合ってくれるか?」
*
「あの……お話というのは」
僕は、目の前に座った男をじっと見つめる。
その小さな目が天井辺りに向けて泳いでいる。かなり動揺しているのが分かった。
僕は一人の男を部屋に呼び出していた。
イェッドは僕らが座っている部屋中央のテーブルから少し離れた場所に椅子を構えて座っていた。
「君、事件が会った夜に、本宮の守衛をしていたんだってね」
僕は静かにそう言う。
「……はい。それが、どうかされましたでしょうか」
「君は、スピカを見ているはずなんだけど」
一瞬間がある。
「……あの事件の犯人ですね? 見かけておりません」
「犯人じゃないよ。……君もよく知ってるだろう?」
僕は少しずつ男を見つめる目に力を入れる。
「な、なんのことでしょう」
男は少し顔を赤らめる。しかし僕の目から目を離すことが出来ないようだった。
――もう一押しか
「僕だって、こんなやり方は嫌なんだけどさ。……君がこれ以上そう言い続けるのなら、君はその立場を失うことになると思うよ。……自分の意志によってね」
僕は一回瞬きをすると、ゆっくりと瞼を押し上げ、男を再度見つめる。
男はちらりとイェッドを見ると、困ったように大きく息をつく。
彼はその筋張った手を膝の上で握ったり閉じたりとひどく落ち着かなかった。顔は先ほどよりさらに赤くなっている。
「皇子……こ、困ります」
「君、確か、妻子があったと思うけど」
その辺は先に調べていた。
「イェッドが見てるからね。何かあったら、君はクビ」
そう言いながらも僕は男から目を離さない。
男は額から脂汗を流し始める。そしてガタガタとその体を震わせた。
やがて、吐息のような小さな声が男の口から漏れた。
「……み、見ました」
「本当に?」
「はい」
僕はそこでやっと彼から目を逸らす。変な汗を全身にかいていた。
――こんな力、スピカ以外に使いたくないな……といっても、彼女には残念ながら通用しないけど。
大きく息をつくと、再度尋ねる。
「もう一度――詳しく教えてくれるかな」