第9章―4
気がつくと、廊下の燭台からは火が消え、壁の上部に少し開いた窓からうっすらと朝の白い光が差し込んでいた。
僕の隣には誰もいない。甘い、甘い夢は霧のように消えてしまっていた。
――やっぱり、夢か。……なんて都合のいい……
自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。それにしても……情けない。
僕は眠ってしまった自分に舌打ちしながら、長椅子から跳ね起きる。
体の上に掛けられていた毛布が滑り落ち、軽い音を立てた。
カツカツと靴音が鳴り、後ろを振り向くと、昨夜の女性兵士が朝食の入った籠を持ってこちらに向かって来ていた。
「……なにも異常はありませんよ」
僕が伺うように見ていたのに気がついたのだろう。
彼女はそう言うと、牢の小窓を開け、中の様子を覗き込み、僕を促した。
牢を覗き込むと、寝台の上には昨日と同じようにスピカがシーツを被ったまま横たわっていた。
壁にドレスが掛けられている。シーツの裾からは灰色の囚人服が少しだけ覗いていた。さすがに着替えたらしかった。それ以外に部屋には何の変化も無かった。
規則的にその影が上下する。眠っているようだ。
目の前にパンが差し出され、僕はそれを受け取ると、椅子にしゃがみ込む。
ふと、手のひらに違和感を感じ、光の射す方向へと手をかざして――僕はパンを落としそうになった。
「――まさか」
僕の右手の小指に、蜂蜜のように輝く1本の髪の毛が絡まっていた。
僕は朝食を配り終えた女性兵士が戻ってくるのを待ち、尋ねる。
逸る気持ちを抑えられず、声がうわずっていた。
「昨夜、本当に何も無かった? 誰か、牢を一時的に開けるとかしてない?」
彼女は何を言われているか分からないという表情を浮かべる。
「……何をおっしゃられているのです? この国の警備をなんだと? 昨日一晩交代で見回っていましたが、そんなことはありませんでした。鍵の管理も万全です」
急に態度が硬化したように感じる。
職務怠慢を指摘されたように思ったのかもしれない。
僕は慌てて、髪の毛のことを言う。
「……椅子に付いていたのが絡まったのでは? ……金色の髪の毛なんてどこにでも落ちていますよ?」
彼女はかなり不可解そうだった。
僕がなんでそんなことにこだわるのか、分からないのだから仕方が無い。
僕は髪の毛を大事にハンカチに包むと、一瞬それをぎゅっと胸の前で握りしめ、ポケットに突っ込んで、立ち上がる。
頭がおかしくなったとでも思われたのかもしれない。彼女は気の毒そうに僕を見つめていた。
「……また、今夜も来るから」
僕は扉に向かって言う。
あれは夢ではなかったと……信じ込みたかっただけなのかもしれない。
諦めない、いくらそう言い聞かせても、気持ちがくじけそうだった。
たとえ勘違いでもいい。今は、何かにすがってでも頑張らなければならなかった。
建物の出口まで付き添ってもらい、ふと僕は女性兵士に尋ねる。
「君、名前は?」
呼び名が無いと不便だった。どうせ今日もここに来るのだ。知っておいて損は無い。
それに――――レグルスの部下というのは、彼女なのかな。
確信は持てなかったけれど、僕はなんとなくそんな風に思っていた。
任務は極秘だ。だから聞くわけにはいかないけれど、誰か分かるものならば自分で直接頼みたかった。
……僕がいない間、スピカを守ってくれ、僕の目になってくれ、と。
「……ミアーと申します」
彼女は少し驚いた表情を浮かべたけれど、すぐに僕の意図を理解したらしい。少しだけその唇に笑みを浮かべる。そうして見ると、思っていたより若いのだと分 かった。少し浅黒い肌にもつやがあり、帽子の端から覗く髪の毛は赤褐色で滑らかに光っている。細いその目は青く、力強い光をたたえていた。
「そう。ミアー湖と同じ名か。いい名前だ。――じゃあ、ミアー。スピカを頼む」
「……全力で職務に当らせて頂きます」
彼女はただそれだけ言うと、力強く頷いた。
僕が眠っているうちに雨が降ったらしい。牢から出る時には止んでいたけれど、宮に戻るまでの道が所々ぬかるんでいた。
部屋に戻ると、セフォネは僕が戻らなかったことで何か言いたげにしていたが、あの事件以来、妙に気を使われているようで、結局小言は無しだった。
アリエス王女のところに行くため、身支度をする。
昨晩あの牢で過ごしたのと、先ほどぬかるんだ道を歩いたので、服も何もかもドロドロだった。そんな格好ではさすがに王女に失礼だった。
用意されていた朝食を無理矢理詰め込みながら、ふと思いついて二通の手紙を書き、封をしてセフォネに託す。
そして、食べ終わると持って帰って来たパンを手に、まずは父のところへと向かった。
「申し訳ありません、帝はただ今会議中です」
部屋の前の兵にそう言われ、行く手を遮られる。
朝の会議か。
僕は仕方なく、そのパンを父に渡してもらうようその兵に頼む。
「父の予定は?」
兵は懐から紙を取り出して確認する。そうして少し申し訳なさそうに言う。
「……本日は予定が詰まっておりまして」
「じゃあ、明日少しでいいから会う時間が欲しいと伝えておいてくれる?」
「かしこまりました」
兵は不思議そうな顔をしたが、結局はそう頷いた。
その足でミルザのところへ向かう。
こちらから訪ねるというのに、さすがにイェッドを連れて行くわけにはいかなかった。何事かと思われる。だから代わりにミルザを同席させようと思ったのだ。
部屋に入ると、ミネラウバがはっとしたような顔で僕を見る。
……そうだった、ここには彼女がいるのだった。
叔母に過去のことだと言われたけれど、分かってはいても未だにどうしてもいい印象は抱けない。
彼女も後ろめたいのだろう、すぐに顔を伏せて黙り込む。気まずかった。
ミルザが奥から現れて、ようやく場が和む。
「お兄さま? どうなさったの、こんな朝から」
「おはよう、ミルザ。……あのさ、アリエス王女に話が聞きたいんだ。……それで」
「分かりましたわ。ついていけばいいのですね?」
ミルザはにっこりと笑うとすぐに頷いた。しかし、すぐに顔を曇らせて僕の顔を覗き込む。
「お兄さま……大丈夫ですの? 顔色が悪いですわ」
「あ、ああ」
あまり眠れていないし、食欲だってそんなに無い。本調子とはとても言いがたかった。
「あんなことになってしまったから、仕方ないですわね……。でも私、スピカには出来ないと信じてます。彼女は……お兄さまが悲しむようなことはしないはずですもの」
ミルザは力強くそう言った。
「……そうだな、スピカはやってない」
力なく微笑むと、ミルザはその綺麗な弓状の眉を少し上げて僕を睨んだ。
「もし……この程度で壊れるような関係でしたら、私、認めてませんわよ。お兄さま。しっかりなさって」
まっすぐ僕を見つめるその青い瞳に、不覚にも泣きそうになる。
このまだ幼なさの残る妹に心配されるなんて、相当情けない顔をしているのだろう。
「ありがとう、ミルザ」
僕はやっとそれだけ言うと、気力を振り絞って微笑んだ。
アリエス王女の部屋は本宮の一番南西にあるミルザの部屋と並びにあって、ちょうど反対側の一番南東の部屋だった。そして、スピカが勉強をしていた部屋の二つ隣にあった。
明るい廊下の上を僕とミルザの靴音が響いていく。
「ミルザは、あの夜、もう寝ていたのか?」
ふと思いついて聞いてみる。
「事件のあった夜ですか? さすがにもう寝ていましたわ」
それはそうか。まだ13なのだ。そんな遅くまで起きているわけは無い。だとしたら、同じ年頃のアリエス王女に何を聞いてもおそらく無駄だろう。寝ていたに決まっている。
無駄足に終わるかもしれない、か……。
しかし穴を残しておくわけにはいかない、僕はそう思い直す。
僕は目撃者を捜していた。
僕がスピカを置いてあの部屋を出た後、ひょっとしたら、スピカを見ている人間がいるのではないか、そう思っていたのだ。
というより、スピカを誰も見かけていないという方が不自然だった。
本宮の出入口も外宮の出入口も、兵が見張っているのだ。
どうやってスピカが誰にも見られずに部屋に戻れるというのだろう。
シェリアが、姿を見られずに移動は出来ないとそう言っていたが、それはスピカについても同じなのだ。彼女の発言を思い返して、そう気がついた。
夜半とはいえ、まだ侍女たちは完全に下がってしまってはいなかったし、夜中に起きた人間が見かけたかもしれない。
その小さな可能性に賭けていた。
イェッドには兵からの、叔母には侍女からの目撃情報をそれぞれ集めてもらうよう、今朝、手紙を書いて頼んでいた。
そして僕は、それ以外の人間を当たるつもりだった。
――どこかにきっと、綻びがあるはずだ。
アリエス王女はの部屋に通されたのはいいけれど、なかなか本人は現れなかった。
ミルザと並んで椅子に腰掛けると、侍女がお茶を運んでくる。
それをゆっくりと飲み干しながら、黙って王女を待っていたが、カップが空になっても王女は現れない。
侍女が心配して、奥の寝室を覗きにいく。そして「もう少しだけお待ちください」と申し訳なさそうに言われ、目の前のカップに再度茶が注がれた。
さすがに三度それが繰り返されると、隣にいたミルザが業を煮やしたようにして、立ち上がった。
「私、見て参りますわ」
キッパリとそう言うと、彼女は戸惑う侍女を押しのけるようにずんずんと奥の部屋へ入っていった。
奥の方で話し声がして、しばらく後、ミルザに後ろから押されるようにしてようやく王女が現れた。
顔色が悪い。よく見ると、握りしめたその小さな手が少し震えていた。
「……も、申し訳ありません。少し体調が優れなくて」
弱々しい声で彼女はそう言った。目が泳いでいる。
朝、様子を侍女に尋ねた時にはそんなことは無かったので、僕は驚く。
預かっている王女に何かあると国として問題だ。
「大丈夫ですか? 何か悪いものでも食べられたとか……」
僕が思わず一歩近づくと、王女は明らかに動揺する。
「いえ」
「お熱でもあるのではないですか?」
僕が少し手を伸ばすと、彼女は目を見開き、後ろに後ずさる。
「ど、どうぞ、おかまいなく!」
悲鳴のような声を上げると、王女は僕から目を逸らして、ミルザの後ろへと回り込むようにした。
「……な」
どういうことだ。
この間とずいぶん態度が違う。
ミルザも驚いた顔をして王女を見ていたが、一拍後、どうしたものかと、ため息をついて僕を見つめる。
「……お兄さま、何かされたんですか?」
疑いのまなざしが痛い。
僕は慌てて首を振る。
確かに、そう思われても仕方がないほど、僕に対しての態度がおかしい。この間が嘘のようだ。
こうして会うのも二度目だし、当然……まったく心当たりは無いんだけど。
ミルザの冷たいまなざしを避けつつ、とりあえず聞くべきことは聞かないと、と切り出す。
「あ、あの……事件の夜のことを聞きたいのですが」
まさか、この王女が犯人だとは思えないが、いくら何でもおかしかった。
何か知っているのかもしれない。
王女は、なにか口にしようとしたが、結局首を振って、ガタガタと震え出す。
「も、申し訳ありません。何もお話しできることはありませんわ!!」
それだけ言うと、王女は身を翻して、奥の部屋へと駆け込んだ。
……どういうことなんだ。怪しすぎるだろ、あれは。
僕は、傍に控えていた侍女に、尋ねる。
「王女の様子がおかしいのって、いつから?」
侍女は一瞬口ごもったが、ややして困ったように言う。
「事件の翌日からでしょうか。しきりに国に戻りたいと仰られて」
国に戻りたい?
「王女は、先日の事件の時この部屋に?」
「ええ。お休みになられていました」
「誰かそれを証明できる?」
侍女は僅かに顔を強ばらせる。
「……私が下がる頃は確かに眠っておられましたが、それ以降となると……あの、皇子、まさか」
僕だって疑いたくはない。というか、さすがに無理だと思う。あの細い腕は、ナイフなど握ったことの無いのではないかと思えるのに。
しかし、いくらなんでもあの態度はおかしい。
念のために尋ねる。
「何時に君は下がったんだ?」
「十の刻辺りだと」
つまり、王女の不在証明は無い、か。
僕が考え込むと、侍女が遠慮がちに申し出る。
「あの……近衛隊の方には、何か深刻にお話しされていたようですが」
「近衛隊……グラフィアスか」
ヤツとももう一度話す必要がありそうだけれど……先日のやり取りを思い出して、憂鬱な気分になった。