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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第二部 闇の皇子と緋色の花嫁
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第9章―2

 ……僕に寝るなって言うのか。

 僕は憂鬱になりながら書類の束を机に放り投げると、叔母のところへ向かう。

 廊下からはもう日の光は消え、蝋燭に照らされた暗闇が夜の訪れを告げていた。

 ひたすらに気が重かった。

 きっとあの夜の事を聞かれるに決まっていた。それからスピカの態度についても問われるに決まっている。

 正直に言う必要はない。

 でも……誰かに聞いて欲しい気もしていた。


 薄暗い廊下をくぐり抜け、叔母の部屋の前で立ち止まると、深呼吸をする。いくら息を吐いても重苦しい気持ちは消えなかった。

「叔母様」

 思い切って扉を開けると、叔母は一人、窓際で佇んでいた。

 すでに人払いをしていたらしい。

「待っていたわ」

 絨毯を靴で擦る音が部屋に響き、叔母が近づいてくる。その白い顔が部屋の中央の燭台に照らされ、ぼんやりと浮かびあがる。そこにいつもの優しげな表情は浮かんでいなかった。

 叔母は僕に椅子を勧めると、自分も目の前の椅子に腰掛ける。

 テーブルの上の茶器で茶を注ぐと僕の前にそっと置いた。

「……何の話かは分かってるわよね?」

 僕は頷く。

「いったいあなたたち、何があったの」

「……」

 僕は黙って少し冷めた茶を飲む。

 そしてカップをテーブルに置くと、自分の顔がそこに浮かび上がった。僕の心が現れるかのように水面がゆらゆらと揺れる。

 僕はまだ迷っていた。

「当ててみましょうか」

 冷たい声に顔を上げると、背筋をピンと伸ばした叔母が無表情に僕を見下ろしていた。

 僕と同じ色のその瞳が色を濃くする。

「他の女の子を抱いたのね?」

 言葉が胸を抉った。反射的に否定の言葉が飛び出す。

「抱いてない! ……でも、……スピカはそう思ったかもしれない」

 一度口を開くと止まらなくなり、気がついた時には、洗いざらい話してしまっていた。――エリダヌスの事。彼女に問う事さえさせずに、強引に事を進めた事。それから……彼女を疑った事。


 叔母は静かにそれを聞いていた。

 その顔が険しく強張っていく。話し終わる頃には目が赤く充血していた。ひょっとしたら泣いているのかもしれなかった。

 重たい沈黙の後、彼女はその沈黙を飲み込むように大きく息をつくと言った。

「……なんで男ってこんなに勝手なのかしら……。いやね。一度手に入れたら自分の所有物みたいに思っちゃって。しかも自分のことは棚に上げて一方的に責めるなんて。……サイテーね」

「分かってる」

 僕はぎゅっと目を閉じる。

 もう僕はひとりぼっちで戦わなければならないと覚悟していた。

 それでも次の言葉を聞くのが怖かった。

「そう言う事情なら、……スピカの心を取り戻すのは至難の業よ」

 叔母は相変わらず強張った顔をしていたが、意外にも掛けられた声は柔らかかった。

 もっとののしられてもおかしくないのに、そう不思議に思いながら答える。

「それも、分かってる」

「何か手はあるの?」

「無いよ。……ただ謝るしかないと思う」

 小細工は通用しないと思っていた。

 叔母は頷くと僕を誘う。

「今から面会に行こうと思っていたのよ。――あなたも一緒に行く?」



 生温い風が頬を撫でる。空気が湿っていた。夜には雨になるかもしれない。

 長い渡り廊下を叔母と並んで歩きながら、僕はおそるおそる尋ねた。

「僕に呆れてるんじゃないの? どうしてまだ協力してくれるの?」

 叔母は肩をすくめると、少しだけ微笑む。

「私にも責任があるからよ。スピカが心を読まないようにしてるって言わなければ良かったわ。……まさかこんなことになるなんて思わなかったものだから。 ――でもね。一番の理由は、私は、あなたたちの絆を信じてるからなの。……あなたたちって、再会してからは喧嘩なんてほとんどしたことないでしょう?」

 喧嘩、か。確かに――そう呼べるものは一度っきりかもしれない。

 あの時も僕は無理矢理スピカにキスをして。その後勝手に自暴自棄になって、スピカに殴られた。

 ……同じじゃないか。いや、もっとひどいか……。

 なんだか、あまりにも成長していない自分にげんなりする。

「今まで喧嘩しなかった方がおかしいの。……あなたたちって、ずっと一緒にいる割には意思の疎通ができていなかったし。――自分を格好良く見せる必要なんか無いのよ。スピカはあなたの駄目なところも含めて全部好きなはずなんだから。誠意を持って接すればきっと分かってくれるはず。あの子はそういう子でしょう?」

 確かに僕は彼女にひどいことばかりしている。なのに、彼女は僕を見捨てずにいてくれた。それに甘えすぎて、こんなことになったんだけど、……心を込めて謝れば許してくれるかもしれない。

 不安で壊れそうになっていた心が少しだけ暖まるのを感じた。ちいさく息を吐くと叔母がくすりと笑う。

「私は、なんだかんだ言っても、あなたが可愛くて仕方が無いのよね……我ながら、甘いとは思うけれど。レグルスのこと言えないわね」

 叔母は自嘲するように言うと、表情を引き締め、こちらを射抜くように見つめた。

「でもね。――あなたにはスピカが必要だわ。……絶対に逃がさないで」


 *


 長い廊下を渡りきると、城門を抜け、山を少し下る。

 宮から城下町までを結ぶ大きな道を下り、うっそうと茂る林の隙間にある目立たない脇道に入る。しばらく行くと急に視界が開けた。

 山の中腹にあるそこは、ひどく寂しい場所だった。

 辺りは静まり返っていて、時折ホウホウと鳥の声がする。

 篝火は入り口の脇に二つ並べられ、牢の正面の門だけが明るく照らされている。

 石造りで四角い平屋の横長の建物が、林の奥へと傾斜に合わせて曲がりくねりながら伸び、壁にはツタが一面に生い茂っている。昼間は日陰になるのだろうか、地面に近い部分は苔らしき物で変色しているように見えた。窓は人が一人やっと通れるくらいか。頑丈そうな鉄格子がしっかりと嵌っている。

 門番は二人。周囲を見回っている兵が二人。

 皇宮に比べて警備は手薄と言って良かった。それを見ていると不安が増して来た。

 ……これじゃあ、今までよりも簡単に連れ出されてしまいそうだ。

 『その』可能性をどうしても否定できなかった。

 僕はそれを見て、夕刻からずっと考えていたことを決行することに決めた。


 門番に声をかけ、面会の申請書類に署名をすると、建物の中に通される。

 つんとカビ臭い匂いが鼻を刺す。一気に不快感が増した。

 ……こんな陰気ところに閉じ込められていれば、すぐに具合が悪くなりそうだった。

「ここの衛生管理っていったいどうなってるんだよ」

 思わず前を歩いている管理兵に声をかける。

「なにぶん予算が少ないもので」

 彼はちらりとこちらを見ると、困ったように顔をしかめる。そういえばメサルチムもそう言っていた。僕はそう思い出す。

「囚人に手を出す輩がいると聞いたけど?」

 僕は思い出したついでに聞いてみた。

「…………そんな、ただの噂でございます」

 男はこちらを見ようともせずに答える。その喉が一瞬ごくりと動く。

 妙な間があったのが気になる。どうやら、噂は本当らしい。一瞬で心の中がざらつく。

 平和だと思っていたこの国にも、しっかりと闇がある。僕が知らないだけで――。


 いくつもの扉を目の端に映しながら長い回廊をずっと進み、かなり奥まった場所で男は立ち止まった。

 突き当たりに小さめの扉が見える。

 端に女性の兵士が二人腰掛けていたけれど、僕と叔母を見ると立ち上がって敬礼する。大柄な人影と比較的小柄な人影が一つずつ床に映し出される。

「こちらです」

 扉の脇に燭台が一つ。周囲だけが橙色に染まっていた。そこから離れるに従い闇が濃くなる。暗さも手伝って重たい色をした木の扉は、端の方が湿気で腐りかけている。

 扉に開いた顔がやっと入るくらいの小さな窓にはやはり鉄格子がついていて、外から鍵がかかるようになっていた。

 兵が窓を開け中へと呼びかける。

「面会だ」

 部屋の中からは物音一つしなかった。

 僕は待ちきれずに前に出ると、窓から部屋を覗き込む。


 部屋の中には粗末な寝台が一つあるだけだった。部屋の隅に一つだけ置かれた小さな燭台が、寝台の上の人影を心細く照らす。シーツを頭から被っているが、淡い黄色のドレスが端から覗いていた。

 その人影は震えているようにも見えた。

「スピカ」

 僕は呼びかけるけれど、答えは無い。

「話がしたいんだ」

 ――無音だった。

 誰も口を開かない、耳が痛いくらいの沈黙。

 そこにいる全員の心臓の音まで聞こえて来そうだった。

 僕はしばらくそのままじっと待つ。

 生温いカビ臭い空気が纏わりつく。息苦しくさえあった。

 こめかみから汗が流れ落ちる。

「スピカ」

 沈黙が耐えられなくなり、そう口に出したところで兵が後ろから声をかけた。

「申し訳ありませんが、お時間です。……話す気がないようなので……」

 気の毒そうな声色だった。

 後ろを振り向くと、叔母も眉を寄せて、仕方なさそうに首を振っている。

 出口へと促されるが、僕は壁際にあった古ぼけた埃っぽい長椅子に座り込んでそれを拒む。

「……僕は朝までここにいる」

 レグルスにはスピカの護衛が出来る人間をここに潜入させるよう頼んでいた。彼はスピカの事件に関しては今回何も手を打てないけれど、通常の業務である近衛兵の配置に関しては当然多少口利きが出来るはずだったのだ。どこにいるかは知らないが、きっとどこかから見守っているはずだった。

 しかし、それだけじゃ安心できなかった。

 昼間は事件を調べなければいけなかったから、せめて体の空く夜くらいは自分で守りたかった。

 シェリアのこともあるし、部屋にはどうせ戻れない。彼女もまさかここまで来ることもないだろう。

 いっそ好都合だった。

「困ります」

 脇にいた女性兵士の一人が困惑した声を上げた。

「殿下をこんな場所になんて……」

「でも、君たちも一晩ここにいるんだろう? 女性でも耐えられるんだ、僕だって平気だよ」

 スピカがあんな粗末なところで寝ているんだ。

 僕だけ柔らかい場所で眠るのも嫌だった。

「でも規定がありますし」

「それなら……ここで暴れて捕まればいい? 一晩留置されようか?」

 最後の手段としてはそう考えていた。

 宮に戻るより、軽犯罪でも起こしてここに捕えられた方が良かった。――少しでもスピカの近くにいたかった。

 兵士たちは顔を見合わせる。

 一介の兵士にこの判断は出来ないはずだった。

 もし上に話が行ったとしても、今の時期に騒ぎを起こされるよりは、僕の行動に目を瞑る方が楽に決まっている。そう読んでいた。

「誰もいないものとして普段通りにさせて頂きます。お構いできませんが……それでもよろしいですか?」

 しばらく彼らはこそこそと話し合っていたが、女性兵士がそう告げに来た。

 僕は頷く。

「また、決して逃がそうなどはされないよう。脱獄すると刑が重くなります」

「分かっている」

 スピカは無罪だ。ここを出る時はえん罪を晴らしてからだった。出来るだけ早く、こんな暗い湿った所からは出してあげたい。



 叔母は心配そうにしながらも、僕を残して宮へ帰っていった。

 叔母の言葉にもスピカは反応せず、彼女はひどくがっかりしていた。僕もそうだ。彼女の態度は、僕とつながりのあるものすべてを遠ざけようとしているように見えて、ショックだった。

 僕は長椅子の上で膝を抱え込んで壁に寄りかかる。

 ……どう切り出そう。

 何から言えばいいか、分からなかった。

 少し離れた場所で、先ほどの女性兵たちが黙々と食事を小窓から牢へと差し込んでいた。

 大柄な方の女性が近づいて来て、パンと水を差し出す。

「ここの食事ですので粗末なものですが、どうぞ」

 僕は少し驚いて彼女を見上げる。深く帽子を被っているため、薄暗いこの場所ではその表情は読めなかった。

 僕はまだ夕食をとっていなかった事を思い出す。

 今まで食べる気もしなかったのだけれど、目の前に食べ物を見ると、急激に空腹感を感じる。でも、いいのか? 足りなくならないか?

「これ、いいの?」

 僕が尋ねると、彼女は少しだけ口元を緩ませると首を横に振る。

 質問に答えることもなく、彼女は引き続き食事運びを再開した。

 ……まあ、いいか。空腹そうに見えたんだろう。

 僕はありがたくそれらを頂くことにした。

 パンは堅く乾いていた。あまり噛まずに飲み込むと、パンのかけらが喉に刺さる。食べ物を食べて痛いなんて嘘のようだった。水がないととても食べれらたものじゃなかった。カビが生えていないだけマシのかもしれない。水で流し込むようにしてそれを食べてしまうと、一息つく。

 いくら囚人でも、この扱いは無いな。

 僕はぼんやりとそう考えていた。

 清潔とは言いがたい粗末な部屋、淀んだ空気、粗末な食事。

 こんな所に長くいれば、たちまち体を崩して刑期が終わる前に牢を出ることになるだろう。

 メサルチムが言っていた予算のことは、本当だったんだ。もしスピカがここに入ることにならなければ……きっと見過ごしてしまっていた。

 国を守るなんて、かっこいいことをスピカに言った割には、僕は自分の国がどういう状態なのかも知らないんだ。そう思うと、恥ずかしくて情けなかった。

 外を見る前に……内を見るべきなのかもしれない。そう思った。

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