第8章 一縷の望み―1
結局、強引に部屋まで連れて行かれ、見張りまで付けられてしまった。部屋を抜け出すつもりだっただが、行動は読まれているらしかった。
翌朝、僕はセフォネに大目玉を食らう。
「まだ、体調が完全ではないというのに……。儀式に出られなかったらどうするおつもりです」
いざとなったら、僕も姿をくらませようかな。
僕は半ばセフォネを無視するように部屋を出る。
とにかくイェッドと話をつけなければいけなかった。
「お断りします」
何も言わないうちから断られた。
「何も言ってないんだけど」
僕は憮然とする。
「顔を見れば分かります。……分かってらっしゃいます? 式までもうあと実質三日しかないんですよ?
恥をかくのはあなただけではないのです。ひいてはジョイアそのものの恥となるのですよ」
「分かってるから頼んでいるんだ。授業をさぼるつもりもない。今まで以上に取り組むつもりだ。……ただ、この先、隣にスピカがいないんじゃ、立太子にになんか意味がないんだよ」
イェッドはため息をついて言う。
「あなたは……なぜ彼女を妃にしたいのですか」
「え?」
今更何を言うのだろうと思った。
「ただ、欲しいから? 身の丈に合わない身分など、彼女を苦しめるだけでしょう。あなたは、彼女のためにも諦めるべきです。あなたの母が良い例です」
「母上……?」
「彼女は愛され、求められてここにやって来ました。帝も、彼女をとても大切にしていました。しかし、やはりシャヒーニ妃と比べると、全てにおいて苦労して、その上、あんなことに。――彼女の心にはずっとレグルスがいたはずです。レグルスは絶対認めませんけれど。それはラナとスピカに対する裏切りだと彼は思っているのでしょう。私と出会った頃、レグルスは彼女に見合った身分を手に入れるためだけに、必死になっていました。危険な任務をこなして、ついには騎士団の副隊長にまで上り詰めて。その矢先ですよ、彼女が帝に会ったのは……」
初めて聞く話だった。でも……どこか、そんなことがあった気はしていた。
彼が僕を見る目に、すごく懐かしそうな光がちらつくことがあったのだ。
レグルスがイェッドを苦手そうにしていたのは、イェッドが彼の過去を知っているからなのかもしれない。
妙に納得していた。
――息子である僕には……知られたくなかったのだろう。
「レグルスの気持ちがあなたに分かりますか? 大切な人を権力で奪われて、その上、その人は幸せになるどころか、死んでしまって。……やっと忘れた頃に、またその息子に自分の大切な一人娘を奪われる。しかも、そいつは、娘を少しも大事にしない。あいつは……馬鹿みたいに寛大だと思います」
僕は何も答えられなかった。
「あなたには、その身分に相応しい妃候補がたくさんおられるのです。スピカ様は諦めて下さい。彼女が不幸になるだけです。彼女にはもっと相応しい人物がたくさんいるはずですよ。もともと隣国では何の問題なく王妃にだって納まることのできる血筋に生まれているのですし。どちらが幸せかなんて、考えなくても分かるのではないですか」
「……知っているのか、スピカの素性」
驚いて顔を上げる。知っている人間は限られているはずだった。
「レグルスと長い付き合いなのです。ラナのことも知っていますよ。当然でしょう」
頷くイェッドの目を見つめながら、僕は彼が言う、スピカに相応しいという人物に想いを馳せる。
そして首を振り、低く呟いた。
「スピカが好きなのは……僕だ」
それが過去形になろうとも、相手はルティではない。
イェッドは呆れたようにその茶色の目を丸くする。
「びっくりしますね、その台詞。あれだけ手酷く振られたくせに……どこから出てくるのですか、その自信は」
「自信なんかない。……でも、信じたいんだ」
――あのときの約束を。
色々あって忘れそうになっていた。でも、ほんの一週間前じゃないか。僕たちはあの思い出の場所で、誓ったはずだ。
彼女は確かに頷いてくれた。
あの笑顔が作りものなんて思えない。
あの時の幸せな気持ちを取り戻せないなんて、信じたくない。
「たとえ、あなたがそうやって彼女を救われたとしても……彼女の心はもう手に入らないかもしれませんよ? それでも助けられるのですか?」
「ああ」
僕は即答してイェッドを見つめた。
何を言われようと、僕は諦めるつもりはなかった。
僕を止めることが出来るとすれば、それはスピカだけだ。
部屋に沈黙が落ちる。
やがてイェッドは僕から目を逸らすと、不機嫌そうに手元の分厚い資料をめくる。
その内容は式に集まる各国の主要人物とその家系についてだった。
イェッドは突然鋭い声で僕に問いかけた。
「テュフォンの現皇位継承者第三位の人物は? あとその母方の貴族はどちらの出身でしょうか」
「キファ王女。アリエス王女の姉で、その母はボレリアス家から嫁いでいる。継承権第一位の王子と同腹だ。たしか……ボレリアス家は煙草でかなりの財を得ているとか」
イェッドは目を細めて、資料をめくる。
「アウストラリスの第二王子は? その強みとは」
「アステリオン王子。アウストラリスの最大の貴族プリオル家出身の母を持つ。プリオル家は岩塩の鉱山を持っていて、それで財を得ているらしい。……本人の手腕はいまいちだけれど、家の経済力は無視できないらしく、継承権争いに最後まで食い込んだ。最後は手腕と将来性を買われて、末の王子――ルティリクスがその地位に就いたけど」
こちらをちらりと見ながら、彼は驚きを隠せない表情をしている。
「あなた……出来ないふりをしてらしたのですか?」
「昨日、今までに貰った資料に全部目を通しておいたんだ」
閉じ込められて、かなりやけくそで。
「……宿題は出しますよ」
「分かった……じゃあ!」
イェッドは渋々のように資料を閉じると、その上で手を組んで、こちらをじっと見つめた。
「記憶力はやはり良いようですね。……現場を思い出してみますか?」
僕は記憶を辿りながら、紙に部屋の見取図を描いていく。
ほぼ正方形のその部屋には、出入り口正面に大きめの窓。右側に暖炉。左側に寝台。寝台の脇には衣装棚が壁一面に据えられていた。
人が隠れることが出来そうなのは……寝台の下か、衣装棚の中、扉の裏くらい、か。
しかし、そこは兵に確認されていたし……。
「そういえば東側の窓、格子が嵌められてるらしいね」
窓をしっかり見た訳ではなかったが、「人が通れない」と思った事は確かだった。おそらくその格子の影が見えたのだろう。
「外宮の外側にあたる部屋は、内側の部屋とは違って、警備重視のため全て格子が入ることになっているそうで。……あの部屋も例外ではありません」
「簡単に外れたりしないのかな?」
「調べてはいると思いますよ。まだ調査が続いていますのでおそらく中には入れませんが、外側からなら見ることが出来るはずです。行ってみますか?」
僕は頷くと、彼とともに部屋を出た。
例の部屋の周りには、近衛隊の兵が侍従を引き連れて辺りの捜索を行っていた。
地面に這いつくばるようにしているもの、垣根をかき分けて顔を突っ込んでいるもの、皆それぞれに真剣だった。
「あ、皇子殿下……」
僕に気がつくと、その場を仕切っていた兵が近づいて来て、足元に膝をつく。
「現場を見せて欲しいんだけど」
駄目元で言ってみる。
「恐れながら……殿下。殿下のお立場では、現場に近づかれると捜査に影響が出ますので……」
ひどく言いにくそうに彼は答える。
僕が捜査を攪乱するとでも思っているのだろう。スピカに不利な証拠品でも見つけようなら、隠すとでも。
……もともと部屋に入ろうとは思っていない。僕は気にせずに尋ねる。
「あの窓の格子って外れた形跡とか、なかった?」
「いえ。男二人掛かりで引っ張りましたが、外れませんでしたし、しっかり釘で打ち付けてあって、釘には錆までしていました。不自然に錆がとれた痕なども見つかりませんでしたし、動かしたとは思えません。それに、あの高さです。細工をしようにも……」
窓はやはり僕の背よりも少し高い位置にあった。
あの窓の格子を外して、そして侵入して、元に戻すという作業を夜のうちにするとなると、それはかなり大変だし、必ず不審者として目につくだろう。
「そうか」
となると、窓からの逃亡は考えられない、か。
「暖炉は? 登れば屋根まで繋がっているだろう?」
「今調査中です。……ですが、辺りに煤が付いていたというような報告は今のところはありません」
どんどんスピカの立場が悪くなっていく。
分かっていたけれど、さらに追いつめられた気分になる。
何か。
何か1つでも、彼女がやっていないという証拠品が見つけられれば。
しかし、この状態では調べる事は難しいと思えた。下手に調べると、僕が彼女を庇うあまり証拠品の隠滅を行ったなどと言われそうだ。あのグラフィアスはきっと黙っていないだろう。
「もしかしたら」
それまで黙っていたイェッドがふと呟いた。
「鍵は現場ではなく、あなたの記憶の中にあるのかもしれません」
「記憶?」
「なにかおかしいと思った事があるのではないですか?」
「……」
僕は事件発生から今まで、確かに妙な違和感を抱き続けていた。
ただ、立て続けにいろいろあってそれが何なのか考えることが出来なかったのだ。
僕がそう言うと、イェッドは少し面白そうに顔を緩めた。
「実は私も変だと思っている事が少しありまして。
……部屋でまとめてみますか。何か出てくるかもしれません」
僕たちが外宮をぐるりと廻って、近衛隊の詰め所横を通り過ぎようとすると、レグルスが血相を変えて僕に近寄ってきた。
「どちらに行かれていたのです。……スピカが!」
相当に宮の中を駆けずり回ったらしい。珍しく息が切れていた。
「どうした!?」
「……今朝になって、自供を……!」
「なんだって!?」
僕は目を剥く。
どうして急に。まさか……強要された?
嫌な考えが頭を支配する。
「容疑者から、犯人に扱いが変わって……今からすぐに牢に移されるそうです」
「今から!?」
僕は身を翻すと、スピカの部屋に向かう。
「例の手配は?」
足を急がせながら、後ろから付いてくるレグルスに尋ねる。
「もう昨日のうちに手配済みです」
僕は少しだけホッとして頷く。
外宮の入り口を曲がると部屋の前に構えるグラフィアスが目に入った。
……居ると思っていた。
僕は頭一つ上にあるその顔を睨みつける。
「スピカに何をした」
「おや」
グラフィアスはその穏やかそうな顔に一瞬険悪な表情を浮かべる。
しかし、周りの目を気にしたのか、すぐにいつもの間延びした表情に戻り、のんびりとした調子で答えた。
「何もしていません」
「何もしてないなら、なんでスピカが罪を認めるようなことを言うんだよ! 無理に言わせたんじゃないのか!?」
グラフィアスは、その目を細めてにっこりと笑った。
「人聞きの悪いことをおっしゃらないで下さい。近衛隊はみな紳士です。――罪を認めれば、宮から出ることが出来ますと、申し上げただけです。昨日、皇子が『諦めない』と仰られたのが原因なのではないですか? 皇子が諦めないと言われるのであれば、国内で逃げ場所など、ほとんどないのですから」
愕然とする。
……昨日の僕の言葉はまったく届かなかったということ?
僕が固まっていると、彼はひとつ短い息をつく。
「そろそろ時間なのでよろしいですか。……何度も申し上げますが、犯人との接触は禁止です。大事な御身に何かありますと困りますので」
彼がそう言うと、周りに居た近衛兵が僕を取り囲む。
「スピカに会わせてくれ」
どうしても逃げたいというなら、それは彼女の口から聞かなければいけなかった。
「残念ながら、今は駄目です。規則ですから。どうしてもと仰るのでしたら……牢に移った後、通常通り手順を踏んで面会を求めて下さい」
僕は強制的に外宮から連れ出される。
渡り廊下に差し掛かったところで、入り口から白い薄布を頭から被った人物がグラフィアスに連れられて出てくるのが見えた。
――見覚えのある薄黄色のドレス。
僕は叫ばずにはいられなかった。
「スピカ!」
一瞬その足が止まるが、彼女はやはりこちらを見る事はなく、グラフィアスの後に付いて門をくぐると、建物の影へと消えていった。
僕は歯を食いしばって立ち尽くす。
肩に手が乗せられ、ようやく我に返り、後ろを振り向く。
レグルスとイェッドが気の毒そうに僕を見つめていた。
「お手を」
イェッドに言われ、ふと両の手のひらを見ると、爪あとが赤く残っていて、右手からは血が一筋流れ出ていた。
「後で面会に行きましょう。手続きはしておきますから」
レグルスが慰めるようにそう言った。