第1章―6 闇の眼
それはまるでお伽噺のようで、自分の父や母の事とはとても思えなかった。一般的に言っても、父母のなれそめというのは、そう言うものなのかもしれないが、記憶の中の母は幸せそうだったから、こんな強引な出会いがあったとはとても思えなかった。
叔母は感傷的になっていて、後ろではなぜかレグルスがふて腐れている。あまりの内容に僕はどこから質問してよいか分からず、しばし考え込む。
「……鏡、って?」
ようやく僕は叔母に向かって聞いた。いろいろと聞きたい事はあったけれど、とりあえず、先に聞かなければいけない事を聞こうと思った。
「あなたが今の后妃に取り上げられたあの『鏡』よ」
「取り上げられた?」
「あれは姉の嫁入り道具だったのに……いつの間にか彼女が持っているから、ほんっとうに……腹が立ったわ」
急に口調が鋭くなり、見ると叔母のこめかみには青筋が浮いている。
「あなたがあの鏡を側においていたら、少しはマシだったかもしれないのに。……シリウス、未だあなた自分の顔知らないでしょう?」
僕が頷くと、叔母は大きく息をついた。
そうして手招きすると自分の部屋に来いと言う。
僕は立ち上がろうとしたが、スピカの手が僕の手を離さなかった。
眠っているはずなのに、全く力が緩まない。というより、スピカの力ではない力で密着したような感じだった。まるで磁石が引き合うよう。
「……あらあら。そうだったわね。……じゃあちょっと待って。取ってくるから」
叔母は僕らを不審がることもせず、部屋を出ると、しばらくした後、腕いっぱいに丸いものを抱えてやってきた。そうして僕の前にそれを置く。
「これが、鏡」
鏡には肖像の母を少しだけ若くしたような人物が生き生きと描かれていた。僕がそれに近づくと、人物もこちらに近づいてきて、僕はびっくりした。
母上……?
叔母は微笑ましいといった感じでくすくす笑うと、言った。
「それはあなたよ」
そうして彼女が僕の後ろへ廻ると、鏡の中には叔母が現れて、僕はさらにびっくりした。
「あなた、水面などに自分を映してみたことは無いの?」
僕は言われてその情景を思い出し、はっとした。
「……あれって僕だったのか。てっきり母上が僕に会いにきたんだと思っていた……」
呆然とつぶやくと、叔母はたまらないという様子で吹き出した。その音で我に返る。あ、今すごく恥ずかしい事を口走ったような……。
振り向くとレグルスも慌てたように咳払いをした。
「純粋だったのね……子供の頃のまま。良かったわ、変な風に曲がっていなくて」
叔母は遠慮なくゲラゲラと笑い続ける。
……笑い過ぎだ。さすがにひどい。
ひとしきり笑うと、不機嫌になった僕の肩に手を置いて叔母は話を続けた。
「――ほら、鏡をみて。目を見るのよ。そうして自分に言い聞かせるの。『闇の眼よ、閉じろ』って」
「――闇の眼よ、閉じろ」
僕は試しに口に出す。しかし何も起こらない。鏡の中の僕が同じように口を動かしただけだった。
「口に出す必要は無いの。心の中で強く強く願うのよ……。まあ、簡単には習得出来ないけれどね。
私、完全にできるようになるまで一年かかってしまったし。それに――」
そこで叔母は困ったような顔をした。
「鏡は一人に一台なの……これは私のだから、あなたには別の『鏡』が必要だわ。高いし、どこにでもある訳じゃないし。困ったわね」
叔母は、僕をじっと眺めていたが、ふと顔を輝かせた。なんだか嫌な予感がした。
「そうだ、一石二鳥じゃない。ちょうどスピカが居るわ。皇宮に戻って鏡を后妃から取り戻すまで、スピカを利用しなさい」
「はあ?」
意味が分からない。スピカがなんだって?
「昔聞いたのだけれど、あなたたちって、補い合う関係にあるのですって。私たちのこの力は、闇のように何かを引き込む力。どん欲に満足するまで何もかも引き込むの。それに惹き付けられて人が寄ってくるのだけど……。
闇の眼が開いている状態だと、とにかく周りを引き込むわ。普通の人はそれに呑まれてしまうのだけど……スピカだとそうならない。彼女は与える光の属性だから。その手が簡単に離れないのはそのせいよ。
……気づかなかった? このごろ気分がすっきりしていること」
そういえば……よく眠れるし、心も軽い。
「髪を切ったからじゃないの?」
「それもあるけれど、それよりは、このごろスピカと一緒にいたことが関係してると思うわ。彼女の出す力をあなたが吸収してるから、他から吸い寄せる必要がないのよ」
叔母はなんだかウキウキしているようだった。――まるで瞳が少女のように輝いている。
「うん、それがいいわ。なんたって、あなたとスピカは将来を誓い合った仲だし」
「は?」
なんて言った、今。何かとんでもないことが聴こえたような。
「だって、あなた、スピカに『正式名』も名乗ったでしょう?」
「――な、なんで知ってるんだよ!」
あれは――確か、二人きりのときだった……はず。
「うふふ、盗み聞きしちゃった」
悪びれる事無く叔母は暴露する。その態度に怒る気力を削がれた。
確かにスピカは「シリウス」だけでなく、僕の正式な名前も知っている。先ほどの父母の話を思い出すと……プロポーズしたことになるの……か?
「そんなのは子供のお遊びですよ」
レグルスが慌てたように割り込んだ。
「あら、そんなことないわ。幼くっても誓いは有効よ。現にスピカはそう信じてるじゃない。だからこそあそこまでやるんでしょう。あんな綺麗な髪ばっさり切っちゃうくらいの覚悟よ?」
「確かに、スピカは髪を切りました。だから、もう少女ではない」
「髪は伸びるわよ」
必死で意味不明の言い訳をするレグルスとあきれたような叔母を前に、ぼくはしっかりと固まっていた。
あれにそんな意味があったなんて……。
皇位継承権を持つものが名を明かさないのには理由があった。名前には力がある。同じ呪詛でも、名を知っているものがかける呪詛は強力だ。成人するまでは致命傷となることもあるのだ。
だから本当の信頼を寄せるものにしか名を明かさない。
僕の教師はそれだけしか教えてくれなかった。
――余談だけど、僕の教師はあまりにも頻繁にクビになるので、ぼくの教育にはかなりの穴があった。僕が皇子らしくないのは絶対そのせいだ。
まあ、教師にプロポーズの方法を習うということもあり得ないが――
あのとき、信頼できると思ったスーという女の子に、確かに、僕は「信頼の証のつもり」で、自分の名前を教えた。……それって、取り消しは出来ないんだよね……?
僕はレグルスが釘を刺したことを思い出し、焦った。
叔母は僕のそんな気持ちを知ってか知らずしてか続けた。なんだか声の調子が上がっている。
「スピカの方もそれで、解決だし。きっとシリウスなら異存ないんじゃないかしら。可愛らしいカップルの誕生! なんて」
叔母はあたりに桃色の雰囲気を漂わせながらうふ、うふふと笑う。
……人格が変わってる。
僕は見てはならないものを見た気分で、ふとレグルスを見る。すると彼もかなり引いていて、部屋を出たいのを必死で我慢しているようだった。
しかし、僕はどうしても気になって、叔母に尋ねる。
「スピカの方も?」
叔母は僕とレグルスの態度が気に入らなかったのか、思いっきり冷めた目で僕を睨む。
「嫌だわ、この子ったら。察しが悪いわね。あなた次第でスピカが楽になるというのに」
……意味不明。
レグルスが慌てて叔母の口を塞ごうとする。
叔母はそれを振り払うようにすると、僕に向かってきっぱりと言った。
「――スピカをものにしなさいって言ってるのよ」