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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第二部 闇の皇子と緋色の花嫁
68/124

第6章―2

「ス、ピカ――」

 体が鉛のように重かった。喉がからからで、声が張り付く。熱い。頭が痛い。耳鳴りがする。誰か。誰かスピカを捕まえてくれ――

 朦朧とする意識の中、それでも殆ど眠れずに夜を過ごした。

 ひたすらスピカに対する謝罪の言葉を考え続けたけれど、夜が白々と明けようとしても、まだ言うべき言葉は見つからなかった。

 謝らなければいけないことがあまりにも多過ぎた。

 エリダヌスのこと。話を聞かなかったこと。彼女を疑ったこと。彼女の意志を無視して抱いたこと。

 僕は……それがどれだけ辛く屈辱的かを知っていた。それなのに。

 何度も夢を見て、あのときのスピカと、忘れていたはずの昔の僕が重なり、その度にうなされて飛び起きる。


 いくら言いつくろっても、僕は……権力と言う名の暴力の下に、妃としての務めを強要した。その事実は消えなかった。

 あれだけ対等でいたいと思っていたのに。結局はそれは無理なのだろうか。

 ついこの間やっと手に入れたはずだったのに、最悪の形で終わってしまうのかもしれない。

 もう、戻ってきてくれなくてもおかしくなかった。彼女のあの瞳はそういう色をしていた。

 僕が壊したのだ。すべて。

 どうやって修復すればいいんだろう。

 許してくれなんて、言えなかった。

 いくら悩んでも答えは出ない。

 でも、謝るしかなかった。このまま逃げて何も言わずにいる訳にはいかなかった。


 ふと目を開けるとセフォネが長椅子で居眠りをしていた。僕の看病で付き添ってくれていたらしい。

 僕は音を立てないように寝台を抜け出し、夜着を着替えると、外宮に足を向けた。

 熱は少し引いたみたいだったけれど、まだ頭がぼうっとしている。足に力が入らず、膝が笑っている。

 しかしスピカを探しに行かずにはいられなかった。



 夜明け前の空気は冷たく、吐く息が白く曇る。

 徐々に侍従たちが起き出して来ていて、よく見かける顔もちらほらとあった。

  彼らの住処は外宮の北西に構えられ、中庭があるため、本宮へは外宮内の廊下をぐるりと回ってやってくる事になっている。本宮への通用口は正面の一つ。だから、遠回りでも仕方がないそうで。彼らはその一つしか無い入り口を目指し、渡り廊下をおのおのの主人の元へと急いでいた。

 僕を見ると一様にぎょっとして身を屈める。

 僕が渡り廊下を越え、近衛隊の詰め所を横切りスピカの部屋へと急いでいると、西側の通路から――たしかシュルマと言ったか――スピカの侍女と、ミルザの侍女ミネラウバが並んで出仕してきていた。

「……皇子殿下……!?」

 シュルマがひどく驚いた顔をする。そして、僕の周りを注意深く探ると言いにくそうにたずねた。

「あ、あの……お一人ですか? スピカ様は……ご一緒ではないのでしょうか」

「え?」

 なぜこの侍女がそんなことを尋ねるのだろう。不審に思う僕に向かって、シュルマは顔を赤らめながらさらに続ける。

「昨晩は、ご一緒されたものと思ったのですが」

「あ、のあと……まさか、スピカは戻らなかったの?」

 セフォネは探させたのではなかったのか。スピカの侍女が知らないなんて……。

 シュルマは困惑した様子で首を振る。

「探すように言われなかった?」

「……ええ、何も」

 おかしい。胸騒ぎが一気に酷くなる。

「とにかく、部屋に案内してくれ」

 シュルマは、僕の様子に慌てて、近衛の詰め所方向へ――僕がさっき通り過ぎた場所だ――と走り出す。逆走に驚いて呼び止める。

「え、そっち? この奥じゃないのか」

「何を言われるのです。こちら西側はシド様の妃のお館です」

「は?」

「皇子のお妃のお館は東側ですわ!」

 それを聞いて僕の胸の内を燻っていた謎が一気に氷解した。

 ――そういうこと!

 あぁ、母の部屋の話が出たときに気づくべきだった。セフォネの勘違いに。

 普通に考えて父の妃と僕の妃が同じ館に部屋を構えるわけがない。混乱の元だ。

 道理でスピカが居ないはずだ。今はその部屋は空き部屋なのだから……。

 僕は避けられてはいなかった。彼女は、僕を待っていた。たぶん、僕と同じ気持ちで居たはずだった。

 でも……今更気づいても遅い。

 僕はもっと早くきちんと調べるべきだったのに……それをしなかった。大切な機会を逃してしまったのだ。

 シュルマの後を必死で走る。

 走ると振動で頭が割れそうに痛い。でも、それよりも胸の痛みの方が強かった。

 


「こちらです」

 シュルマが焦ったように扉を内側に押し開ける。

 部屋の中はがらんとしていた。整った寝台を見ても、昨晩スピカがここに戻らなかったことが分かる。

 窓辺に飾ってあった花瓶には葉だけが残ったみずぼらしい活け花。見下ろすと床に花びらが散っている。その萎びた花びらの痛々しい赤が一瞬で目に焼き付き、はっとした。

『わたくし、聞きましたの。彼女が父親と……ここを出る計画を話しているのを』

 シェリアの言葉が耳に蘇った。――まさか。

「皇子!」

 僕は身を翻してもと来た道を戻り、近衛隊の詰め所へと向かう。

「レグルス!!!!」

 僕が詰め所に駆け込み叫ぶと、レグルスが部屋から出て来て不思議そうに僕を見る。

「どうされました、こんな朝っぱらから……」

 その本当に不可解そうな顔に、僕は一瞬ホッとする。しかし、とたん他の可能性が沸き上がる。

「……スピカが、部屋に戻っていない」

「何ですって? そんな話は聞いていませんよ?」

 レグルスも一瞬で顔を引き締めた。

 なぜ近衛隊長であるレグルスに、スピカの不在が伝わっていないのだろう。彼には一番にその情報が伝わるはずなのに。

 何もかも、おかしかった。

「すぐに探してくれ!」

 僕がそう言って、スピカの部屋の方へと戻ろうとしたその時、微かだけれど――絹を引き裂くような女の悲鳴が聞こえた。

 驚いて声の方向を見る。

 ――父の館からだ。

 レグルスが止めるのも振り切り、僕は再び走り出す。必死だった。


 スピカが、そんなことをするとは思えない。

 でも……僕がしたことを考えると、あの時の彼女の目を思い出すと……可能性がないとは言えなかったのだ。

 もつれる足を叱咤しながら、薄暗い父の館の中に入ると、一瞬鉄のような臭いが漂った気がした。嫌な予感を振り切るように廊下を駆け抜けると、僕が以前スピカの部屋だと間違えていたその部屋の前で、悲鳴の主と思われるミネラウバが腰を抜かしてしゃがみ込んでいた。悲鳴のせいだろう、背中から人が集まる気配が伝わってくる。

 頭の中は何か鐘のようなものがガンガンと騒がしく鳴っていて、他の物音が聞こえないくらいだった。

 彼女は僕を見ると、はっとした様子で、短く叫ぶ。

「お、皇子! こちらに来られてはなりません!!」

「何があった!?」

 ミネラウバは、その青ざめた美しい頬に緊張の色を張り付かせながら、僕を目で制する。

「……床が……!」

 見ると、そこには赤黒い染みが広がっている。塗料の取れた部分には既にそれが染み込み、変色していた。すでに乾いてしまっていて詳しくは分からないけれど、それらはどうも扉の下の隙間から流れ出ていたようだった。

 染みの正体に気が付いて、僕は一気に血の気が引く。

 呆然とする僕を見て、ミネラウバは覚悟を決めたようにその染みにそっと足を踏み入れると、木で出来たその開き戸を押し開く。

 どうやら鍵はかかっていないようだけれど、なぜか力を入れないと開かないようだった。

 僕は重そうなその様子を見て我に返り、手伝う。乾いた血痕に足元が捕らわれて、力が入らない。ひどく扉が重かった。

 やがて扉はゆっくりと開かれて、同時に視界が急に開けた。朝の光が窓から差し込んで、床に光の帯を作っている。その光に照らされた光景を見て……僕は自分を殺したくなった。



「――スピカ!!!!」

 部屋に駆け込もうとする僕を後ろから何人もの強い腕が取り押さえる。騒ぎを聞きつけた侍従たちが一気に集まって来ていた。

「殿下! 落ち着いて下さい!!」

「離してくれ! ……スピカ、……スピカッ!!」

 僕は強引にその腕を抜け出すと、部屋の中に飛び込む。

 部屋の中は赤、赤、赤。空気まで染まっている気がした。生唾を飲み込むと吐き気がした。

 彼女は赤黒い血の海の中に俯せに横たわっていた。その姿だけ赤い空気の中ぼんやりと薄黄色に浮いている。そして……その真っ白な手には血塗れのナイフが握られていた。

 僕は乱暴に彼女を抱き起こすと、その胸に耳をあてる。


 ――――生きてる!!


 体から力が一気に抜けるのが分かる。そのまま僕は床の血の上にへたり込んだ。

 ただ、これだけの出血があるとなると……そう思って彼女の体を調べるけれど、……どこにも傷らしいものはない。

 それどころか、血溜まりの上に居た割には、その服に血は染み込んでいなかった。昨夜見た彼女そのままだった。

「スピカ……?」

 安心するとともに、足元から別の恐怖が胸に競り上がってくる。

 スピカのじゃないってことは、この大量の血はいったい誰の……?

 僕はふと顔を上げ、部屋をぐるりを見渡して、見つけた。

 ――――開き戸の裏に、赤黒く染まった〈モノ〉が横たわっているのを。

 一瞬何か分からなかった。

 床の上の血がべっとりとこびりついて固まったその髪の毛は、どうやら栗色。そしてドレスは僕が最後に見たままに真っ赤な血の色をしていて、床に面した部分が黒々と変色している。

 あまりに印象が違ってはいたが、青白く眠っているようなその顔や、体つきには覚えがあった。

 それはそうに決まっている。昨晩、僕は目に焼き付いたその姿を消そうと、必死になっていたのだから。

「……エリダヌス、さ、ま」

 僕の後から部屋に入って来たミネラウバが、呆然とそう呟く。

 自分の目に見えているその光景が、急に夢から現実となって僕に襲いかかって来た。

「……う、そだ」

 倒れてしまいたいくらいの頭痛と吐き気が襲って来たけれど、腕の中にスピカを抱いていることが、僕の意識をなんとか保っていた。

 呆然とその赤黒い固まりを見つめながら、頭を整理しようと必死になる。目を離すと逆に気が抜けて意識を失いそうだった。


 僕がこの部屋に入ったとき、この部屋にはスピカしか居なかった。開かなかった扉は、どうやらエリダヌスの体が塞いでいて……この部屋には、人が通れる窓はない。そして――スピカはナイフを握っていた。

 彼女の手の中のナイフをぼんやりと見つめる。元は銀色なのだろうが、今はか細い指の間から見える枝の部分まで真っ赤に染まっていた。

 これが凶器に間違いない。そして、それを持っているのはスピカだった。

 それは、つまり――

 〈答え〉は既に出ていた。誰の目にも明らかだった。必死で否定する。


 いつの間にか、外宮中の大勢の野次馬に加え、近衛兵も集まって来ていた。兵は人垣をかき分けて前に進むと、皆一様にぎょっとした顔をして、直後一気に表情を引き締める。立太子の儀という重大な行事を前にしての、しかも宮内での重犯罪。事の次第によれば、首が飛ぶほどの一大事だった。

 数人が慎重に暖炉の中や、寝台の下などを調べている。

 そんな中、一人の背の高い茶髪の男が僕の前にかがみ込むと、僕の腕の中のスピカを鋭い目で睨んだ。

「皇子殿下、その娘をお離しください。彼女の身柄を拘束させて頂きます」

 当たり前のように、「その娘」と呼ばれ、僕はそれが誰のことなのか分からなかった。

 兵たちの一番後ろで、レグルスが切なそうな光を浮かべた瞳で、僕をじっと見つめていた。――まるで、何か、こうなることを予想していたかのように。

「まさか、スピカがやったと……」

「残念ですが。この状況だと、そう考えざるを得ません」

 レグルスは明らかに周りの兵に監視されていた。

 彼がスピカの父だということは、同僚の中ではもう知れ渡っていた。その性格から……スピカを連れて逃げるとでも思われているのだろう。

 いっそのこと、僕はこのまま彼女を抱えて、どこか誰もいないところに逃げたいと思った。


 ――スピカが……やったのか。

 動機は十分だった。昨日、僕の記憶を見ているのなら。

 先日まで輝いていた未来に突然幕が下ろされる。目の前が真っ暗に閉ざされるのを感じた。

 こんなことになったら、お披露目どころではない。彼女と一緒になることは……出来ない。

 それどころか。

 もう一生会えなくなるかもしれない――。


「さあ、皇子」

「いやだ」

「皇子!」

「――嫌だ!!!!」


 今この手を離したら、もう二度と掴めない。

 僕は奪われまいと必死でスピカを抱きしめる。

「……ん」

 ふと腕の中のスピカが身じろぎして、目を開けた。

 握りしめられていたナイフが床に落ち、冷たい金属音を立てた。その手のひらから乾いた血がパラパラと落ちていく。

 彼女は僕の瞳をぼんやりと見つめた後、周囲に目をやって、何かを思い出しているようだった。

 やがて彼女は急に震え出す。驚いて見下ろすと、乱れた衣服から露出した肌には鳥肌が立っていた。彼女はそして急に体に回されている僕の腕をそっと、でも力を込めて押しのけた。戸惑って顔を覗き込むと、いつも優しい笑みを浮かべているはずのその顔は強ばり、今は嫌悪感しか読み取れない。そして、その感情を向けられている対象が僕なのは明らかで。彼女の目はすでに僕を映していなかった。

 スピカはドレスに散った赤い粉を払ってゆっくりと立ち上がると、追いすがる僕の手を振り払って、目の前の近衛兵に黙ってその手首を差し出す。捕縛を求めるその姿は、まるで――助けを求めているかのよう。

 近衛兵は軽く首を振ると、彼女に向かって言った。

「まずは事情を聞かせて頂きます。逃げようとしなければ手荒なことはしません」

 スピカは頷いて、そのまま近衛兵に連れられ部屋を出て行こうとする。

 僕を振り向きもしなかった。

「スピカ!!!!」

 僕の悲鳴に彼女の小さな肩がビクリと震える。そして少しだけ頭をこちらに向けると、感情のこもらない冷たい声で言った。

「さようなら、皇子」

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