第5章―3
セフォネにもらった薬の効果は抜群で、僕はいつの間にか眠っていた。次に目を覚ました時には、部屋は暗くなっていて、明かり取りの窓からは少しの光も漏れて来ない。部屋の端にある燭台の光が僅かに揺れると、寝台の周りと取り囲む布の影が同じように妖しく揺れた。
額に手をやると、髪が湿って張り付いていた。随分汗をかいたらしい。そのせいか、風邪の症状は、少しだけ和らいだような気もした。
僕が片手を付いて身を起こすと、ふと隣に人の気配を感じる。
ぼんやりする頭で、セフォネに頼んだことを思い出した。
「……スピカ」
微かな逆光に目を細めると、人影が動く。ふと、気配が強くなったかと思うと、僕の首に柔らかい腕が絡み付く。
次の瞬間、唇にも柔らかさを感じる。
僕は我慢できずに、その身体を思いきり抱きしめて、気がついた。
――違う! スピカじゃない!!
思わず、突き飛ばすように纏わりつく身体を押しやる。
「誰だ!」
僕は部屋の隅にあった燭台に近づきそれを掴むと、寝台を照らし出す。蝋燭の微かな光がその人物を映し出した。
「――――!」
僕は目の前の光景に固まった。……それは、一糸まとわぬ姿でたたずむ、エリダヌスだった。
目眩がした。
「お願いいたします。今夜は、わたくしを……!」
取りすがるように彼女は僕の腕を掴むと寝台へと引き寄せようとする。
ふと肌寒さを感じ、下を見下ろすと、夜着の前が開けられて、素肌が露になっている。
……僕の寝てる間に、いったい何をしたんだ!?
混乱して頭がおかしくなりそうだった。
「駄目だ。誰だよ、こんな手引きをしたのは!!」
僕は必死で腕を振り払うと、彼女に置いてあった赤い服を押し付け、部屋を飛び出した。
ものすごく狼狽していた。
頭の奥がしびれて、一瞬……我慢できないかと思った。
そんな自分がものすごく嫌だった。
僕は、スピカを裏切ろうとしたのか……?
正直、自分を危うく感じていた。今部屋に戻って、まだ彼女が居るようだったら……危ない。
――スピカに会いたい。今すぐに。
髪をかきむしる。何度も瞬きをする。どうにかして瞼の裏の残像を消そうとする。僕は行き場のない衝動を持て余していた。
激しい足音を気にすることもなく、我を忘れたように一つの部屋の前へと急いだ。
そしてスピカの授業が終わるのを待てずに、部屋の扉を開け放つ。
燭台の光のみに照らされた薄暗い部屋。その結い上げられた金色の髪しか目に入らなかった。
スピカは身のこなし方の訓練を受けていたようで、手には扇が握られていた。初めて見る淡い黄色のドレス。とても彼女に良く似合っていた。
彼女は僕に気が付くと唖然として、その白い包帯の巻かれた手から扇を取り落とす。扇がひらひらと滑り落ち、床の上に音も無く落ちた。
「皇子殿下――一体どうなされたのです、その格好は……」
その戦いた声に周りの人間にようやく気が付く。教えていた講師も、周りに居た侍女も、一様に驚いた表情を隠せないでいた。
「……スピカを少しだけ借りる」
僕はそう一言言い切ると、スピカに近づいて、その右腕を掴む。
困惑したような彼女の手を引きながら部屋を出ると、そのまま近くの客室へと連れ込んだ。
扉が閉まったとたん、部屋の中は闇に染まった。月の光は雲に遮られているのか殆ど差し込まない。
寝台に行くまでのわずかな距離も我慢できずに唇を寄せると、彼女は少し戸惑ったように身じろぎした。
構わずに彼女を上向かせ一気に口づける。彼女が欲しくてたまらなくて、余裕が全くなかった。
スピカが溺れる人間のように喘ぐ。
「ちょ、っと、……待って」
僕は引きはがすようにして顔を上げた。顔が見たかったけれど、闇に慣れぬ目では無理だった。
「何」
「どうしても聞きたいことが」
話は後だった。今は冷静に話すことはとても無理だった。
頭の中からエリダヌスのあの姿を早く消してしまいたかった。
「あとで」
僕は、そう言うと、再び彼女の唇を求めた。
彼女がそれを避けるように俯いたので、僕は焦れて、彼女を抱き寄せると寝台に押し倒した。
戸惑ったように抵抗する両手首を、片手で攫うと枕元に縫いとめる。
「待って」
切羽詰まったような声で、スピカが訴えるけれど――待つことなんて出来なかった。僕はもうさんざん待っていた。
「シリウス――おねがいだからっ」
「黙って」
なぜ、こんなに拒むんだろう。
昼間のことを思い出してイライラした。
ひと月前、シトゥラのあの部屋では、彼女の方から抱きついてくるくらいだったのに。同じくらい激しく求めて欲しかったのに。
――まさかだけど、本当に心変わりをしたんじゃないだろうな? こんなわずかな時間で? それとも前から他に好きな男が? そういえばシェリアが言ってた。レグルスと逃げるって。それって――
そんな想いがどこからか湧きあがり、急激に身を焼いた。熱が上がるのが分かる。頭が煮える。違うに決まってるけど、考えるだけでおかしくなりそうだった。僕は彼女の口が今にも恐ろしい言葉を発しそうな気がして、唇で蓋をする。
それは、やっぱりひどく甘かった。僕は何ですぐに気がつかなかったんだろう……こんなにも違うのに。
唇の上のエリダヌスの感触を消し去りたくて、僕はひたすらに彼女の唇をむさぼる。空いているほうの手で、髪をほどき、服を緩ませる。
そして肌が触れ合うころには、彼女はおとなしくなっていた。体の力を抜いて、完全に僕に身をゆだねた。それは以前僕を受け入れてくれた時と同じ様子で安心する。小さな抵抗が消え去って、スピカと僕を遮るものは何ひとつなくなり、僕はずっとこらえていたものすべてを解き放っていた。
ずっと触れたくて仕方なかった。宮に辿りついてからのすれ違いを埋めたかった。なぜだか僕の腕の中をすり抜けていきそうなスピカを繋ぎとめたかった。
――スピカの過去も現在も、そして未来も。全部僕のものだと、そう思い込みたかった。
だから、僕はどうしても確かめずには居られなかったのかもしれない。――僕以外が触れた形跡がないかを。
そのことを考えた途端、赤い髪の男が頭をよぎった。そして触発されるように次々に疑いの芽が噴き出した。
『もう読まないって決めたみたい』
叔母の言葉が僕を後押しし、甘い肌と熱が理性を焼き切る。僕は嫉妬と妄執に狂いながら、彼女の過去をひたすらに探り続けた。
「っ……」
ふと耳に微かな嗚咽が届き、僕は急に現実に連れ戻された。
顔を上げると、いつの間にか顔を出した青白い月が部屋を照らしていた。その中で、うっすらと見える彼女の瞳の輪郭が緩んでいる。その瞳の色を見て、あれだけ見たかったはずの彼女の顔を今まで見なかったことに初めて気がついた。
いつも穏やかな曲線を描く眉は険しく寄せられて、唇は血がにじむほどに噛みしめられている。そして瞳は涙に溺れていた。――彼女の顔は泣き顔だった。
「……スピカ?」
肌に張り付いた髪を払いながら、柔らかい頬に触れると、熱い雫を指先に感じた。この涙の意味が分からない。この表情の意味が分からなかった。どうして。どうしてそんな顔を――
戸惑って髪をなでると、手の甲に枕が触れた。じっとりと重く湿った感覚に、頬を張られたような衝撃を受ける。
「泣いてる……? どうして……」
彼女は僕を見ようともせず、黙ったまま涙を流し続ける。
さすがにそれ以上続けられず、体を離すとその場に座り込み、髪をかき回した。
まさか――、と思いながらも、尋ねる。
「嫌、だった、の?」
彼女は否定も肯定もしなかった。
ただ、絶望したような瞳で、天井を見つめるだけだった。
――答えないことが……答えなのか。これじゃあ、これじゃあまるで――
〈あのとき〉の彼女の顔が急激に蘇る。今の彼女の顔は――ルティに、無理矢理に押さえつけられていたときの彼女の泣き顔と同じだった。
部屋の空気はいつしか重く湿っていた。
いつまでも続く彼女の無言の拒絶に、居たたまれなくなる。寝台を降りると服を纏う。それでも彼女は口を閉ざし続けた。引き止めるでもなく、突き放すでもなく。その態度に苛ついた。こんなのは彼女らしくない。嫌だと言えば、こんなことしなかったのに。そう言える機会はあったのに。そうだ、今だって。
「泣くほど嫌なら、そう言えよっ」
思わずそう吐き捨てると、逃げるように部屋を出た。