第5章―2
「スピカ様、今日は顔色がいいですね。表情も柔らかい。何かいい事でもありましたか? そういえばさっきレグルスがここから出てきましたが」
イェッドが尋ねた。
知らなかったけれど、このイェッドは父さんの古い友人だそう。その割に父さんは彼がとても苦手らしく、あたしの前ではほとんど口をきかない。昔の事を尋ねたけれど、いつも適当にはぐらかされて、答えが返って来る事は無かった。
あたしは本から顔を上げると、イェッドに向かって微笑む。
「何でもないんです」
今日は何が何でも宿題を持って帰るわけにはいかないんだもの。必死にならざるを得ない。今夜の事を考えると、妙に吹っ切れたような気分だった。
「……おや、あれは」
ふと窓の外を見ていたイェッドが呟く。
「何か?」
あたしは課題に取り組みながら尋ねる。目は本の上の文字を追っていた。ええと、次の項目は――各都市の産業について、ね。
「いえ」
顔を上げると、彼は複雑そうな顔をしていた。そして何か言いかけたけれど、結局口ごもる。
「何にせよ、やる気がでたことは良かった。覚悟を持つのと持たないのでは、まったく捗りが違いますからね」
覚悟、ではないのよね。そう思って少し後ろめたい。あたしはただ……シリウスに会いたいだけなんだもの。
不純な動機を見抜かれそうで、イェッドのまっすぐな視線が少し痛くて、窓の外を見る。そこでは庭の木々が寒そうに凍えているだけだった。
*
夕食後、あたしは部屋に戻ろうと一人外宮の廊下を歩いていた。シュルマが「たまにはゆっくり食事をされて下さい」と夕食後の講義の準備に先に戻ってしまったのだ。確かに、あまりに予定が詰まり過ぎて、食事の味も分からないくらいに忙しかった。それに今日は食堂に誰もいなかったから気楽だったのだ。
シュルマとは外宮入り口で待ち合わせをする事になっていた。久々に美味しく食事が出来て、しかも夜風が心地よくて、あたしは随分安らいだ気分になっていた。これで晴れて星が見えれば最高だったのに。
「あら、遅い夕食でしたのね」
油断していたところ、背中に突然鋭い高い声が突き刺さって、あたしは思わず飛び上がる。
嫌な予感。
あたしは渋々振り向く。構っている時間がないのだ。この後もう一つ授業が残っている。それが終わったら……今夜は。
そこには予想通りに意地悪そうな笑みを浮かべたエリダヌスと、それから侍女が後ろに一人控えていた。
いつも通りに鼻を突くような香水の香りが漂う。どうやら、すでに湯を使った後らしく、その頬がほんのりと上気して、妙に艶かしい。
「……なにか?」
あたしが少し睨むと、エリダヌスは意外そうに眉を上げた。
「あら……なんだか元気じゃないの」
また嫌がらせ? もう、放っておいてほしい。せっかくのいい気分が半減してしまって、あたしはムッとしていた。
顔を背けると、後頭部に向かって嬉しそうな声が投げかけられた。
「今日は、私の番なのですって」
「?」
どういうこと?
不審に思って再び振り向くあたしに、彼女は甲高い声で宣言した。
「今夜、私が閨に呼ばれる事になったのです。今から行って参りますわ?」
「……なん、で」
「皇子がお望みになったからに決まってるでしょう?」
勝ち誇ったような笑みだった。
「そんなはずないわ」
思わずそう口に出していた。
「ふふ。何をおっしゃるの? あなた、そんなに自分に自信があるの? 皇子を独り占めできるほどに?」
侮蔑の籠った視線があたしの体に刺さり、怒りと恥ずかしさで顔が熱くなるのが分かる。
「別に信じなくてもよろしくってよ? でも、知っていた方が今後のためにはいいのではなくって? 寵を得る事が出来ない妃の行く末はあなたもよくご存知でしょう?」
「……」
何も言い返せなかった。エリダヌスはさらに何か言い募っていたけれど、耳の中に膜が張った様で、それ以上の言葉は受け入れられない。
嘘に決まってる。
……嘘に決まってる!
エリダヌスはあたしをやり込めた事に満足したようで、満面の笑みを浮かべながらドレスの裾を翻した。部屋の床が軽快な音を立て、赤いドレスが目の端から消える。あたしは我慢できず身を翻すと、エリダヌスの後を追う。どうしても気になって仕方なかった。
彼女は本当に本宮へと向かって歩いていた。外宮を出ると、すぐ右手に延びる長い渡り廊下を超えていく。本宮の中に入り、北へ北へ――シリウスの部屋のある方向へ――と進み続けた。
……どうしよう。……どうしよう!
あたしの目の前で、部屋の前の侍従は、疑いも無く彼女を部屋へと誘った。彼女はシリウスの部屋へと消える。
――すべてが幻のようだった。
呆然と廊下でそれを見つめるあたしを、シュルマが見つけて、声をかけた。
「スピカ様! 先生が捜されていましたよ? 授業が始まります。こちらへ」
*
頭の中がぐしゃぐしゃだった。
シリウスが呼んだのでなければ、エリダヌスはすぐに部屋から出てくるはずだった。でも……あたしが見てる間にそう言う事は起こらなかった。
ということは、彼と彼女は――
いっそのこと扉を蹴破れば良かったのかもしれない。そして、確認すれば良かったのかもしれない。シリウスを信じるのなら、そうすれば良かったのだ。きっと何も無かったはずなのだから。
でも……あたしは、怖かった。
目に入るものが……もし。もし……!
「ほら、また扇を落としてしまわれて。どうされました? 顔色が悪いですね。……体調でも悪いのですか?」
教師が扇を拾ってあたしに手渡す。
あたしは心はどこか別のところをさまよったままでも授業をこなしていたらしい。倒れてもおかしくないと思っていたけれど、首を微かに横に振る。そして扇を受け取るとすぐにまた心が彼の部屋に飛ぶのが分かる。
あたし……今からでも部屋を訪ねる事ができるの?
自問する。
あれから大分時間が経っている。今から行っても、全て終わった後かもしれなかった。
あたしは後悔していた。
どうして、すぐに止めに入らなかったの。こんな風に思うくらいなら、エリダヌスを止めれば良かったのに!!
どうしようもなくて、扇を握りしめる。意気地のない自分が嫌で堪らなかった。
しばらく教師の手の音に合わせて呆然と歩いていた。そしてその行為のあまりの空しさに気が付いて、はっとする。このままじゃ、あたし、何もせずにシリウスを失ってしまいそう。
「あたし、やっぱり……」
それは、決心して、教師に退出を告げようとした時だった。
あたしの後ろで、部屋の扉が激しい音を立てて開く。振り返って思わず扇を取り落とした。扉の影から現れたのは、寝乱れた髪。開けた寝間着から覗く素肌。それらは普段の彼からは想像できなくて、あたしは一瞬別人かと思った。
でもそれは、見た事も無いくらいに獰猛な空気を纏ったその男は――まぎれも無くシリウスだった。