第3章―2
しかし、僕は手紙の他に何を贈ればいいのか、途方に暮れてしまった。
女の子が何を貰って喜ぶかなんて……今まで考えたことも無かったから。誰かに何かを贈るということ自体、はじめてだった。
アリエス王女の部屋に向かう途中、ミルザに尋ねてみる。
「ねえ、ミルザ。……お前だったら、僕から何か貰うんだったら何が嬉しい?」
「スピカに贈られるのですか?」
ミルザは少々驚いた顔で僕を見る。
あんまりにじろじろ見られるので僕はそんなに変なことを言ったかなと不思議に思う。
ミルザは、スピカに対してはもう妨害をしないと決めたようだった。以前のように表立った攻撃は全く見せない。
僕の楽観的な希望でそう見えてるだけかもしれないけれど、ミルザにまで妨害されると、もう目も当てられない。
ミルザはその青い瞳を天井に向けてしばらく考え込んだけれど、やがて言う。
「とりあえずは……綺麗な手袋じゃないかしら。包帯って……目立ちますから。どうしても変な噂になってしまうようですし」
「手袋か」
スピカの右手には皮膚が引き攣れたようなひどい傷跡が残っていて……今でもそれを隠すために彼女は包帯を巻いたままだった。
僕がそのことで謝ると彼女が困った顔をするから、なるべくその事には触れないようにしていた。でもそうだ、とびきり綺麗な手袋なら、彼女も喜んでくれるはず。そして傷の事を少しは忘れられるはずだ。
「まあ、それだけじゃあんまりだから、揃いのドレスも一緒に。……あの人、きっと淡い色合いのドレスが似合うわ。色くらいは、お兄様が選んだ方が良いと思いますけれど」
「そうか……ありがとう、ミルザ」
僕がそう言うと、ミルザは少し恥ずかしそうに俯いた。
「お兄様は……変わられましたわ。以前は、わたくしにそんな相談などされなかったし、なんでも一人で片付けられてしまって……。兄妹なのに、壁があるようで、わたくし寂しかったのです。それも……スピカのお陰なのでしょう?」
僕は頷く。彼女が居なかったら……僕は自分の殻に閉じこもったままだったろう。
いろんなものから逃げて、外を見ることも避けて。
彼女は、昔の純粋だった頃の僕を思い出させてくれた。怖がる僕の手を引いて、外の世界を見せてくれた。そして僕が強くなれるよう、傍で支えてくれた。
そうだ――誰も、彼女の代わりにはなれない。
*
「失礼します。アリエス王女」
僕は王女の手を取ると、馬上へと引き上げる。本人よりも重いのではないかと思われる緑色のドレスが馬上に広がり、馬が悲鳴に似たいななきを上げる。
今日僕は彼女に城下町を案内することとなっていた。
城は山の上のため、麓までは輿、もしくは馬、それで駄目なら自分の足で歩くのだ。
王女が輿を断ったので、馬にはてっきり乗れるのかと思ったのだけど、……乗れないらしい。
「馬って、一度乗ってみたかったのです」
王女はその柔らかそうな頬を赤く染めて、嬉しそうに微笑む。緑色の瞳が昼の強い日差しにきらきらと輝いていた。幼い少女が持つ独特の鮮やかさが眩しかった。
少し前のミルザを見ているようで、僕は気づかれないように少し息をつく。
……どう考えても恋愛対象じゃない。スピカと会う前の僕でも、妹にしか思えなかっただろう。
「お兄さま、お待たせしました」
彼女はいつの間にか隣にやって来たミルザを見て、迷惑そうな声を上げる。
「あの……まさか、あなたもついて来られるの? ここでお見送りされるのではなくて?」
「そうですわ? あら、何か不都合でもございました?」
ミルザは挑戦的な目をして、王女に向かって微笑む。
それは以前の僕の婚約者に対する態度と同じだった。そんなミルザは久々に見た。
前は……ただハラハラするだけだった。
スピカのことだってミルザには絶対ばれたくなかった。
それは賢明な判断だったと今は心から思う。結局ばれたせいもあってあんな風にとんでもないことになってしまったのだから。
つまり、ミルザは、この手の相手を撃退する術はものすごく長けている。
これまでに負けは一度だけ。……その相手はスピカなのだけれど。
正直に言うと……今回もぜひ期待したい。僕は期待を込めてミルザを見つめる。それに応えるようにミルザはふわりと微笑んだ。
……いっそのことアリエス王女には僕に幻滅して帰って頂くのが一番いいのだけれど、彼女が僕を見つめるその瞳はやけに熱く輝いていて、そう簡単にはいきそうには無かった。
*
城下町を巡り、適当な案内を終えて城に戻って来た頃には……僕はかなりげっそりしていた。たった一刻や二刻の話なのに……なんだろう、この疲れ方は。
目の前で繰り広げられる女同士の戦いは圧巻だった。
これがまだ12、13歳の女の子同士というのが信じられないくらいで……。
それは馬車の座席を決めるというような些細なことから。まず、どちらも僕の隣を譲ろうとしない。
結局、何気なく二人で隣同士に座ってもらうことにして、僕だけ一人で席に座った。
僕と王女が話をしようとすると、ミルザが割り込むし、その逆もあった。
恐ろしいのが、ミルザは、それを笑顔でやってしまうのだ。
国と国のことがある。友好関係を崩すことが出来ないのは重々承知で、それでもうまくやるところがもう、子供とは思えなかった。
あくまで「だって王女ともっとお近づきになりたいんですもの」という姿勢を崩さないのだ。
なので王女は完全にそれを無視するわけにはいかず、ミルザの相手ばかりしていた。
……やっぱり敵には回したくない……。
僕は心底そう思った。
*
部屋に戻ると、さっそくセフォネを呼んで、服と手袋の手配を頼む。
先ほどの案内中にずっと色を考えていたのだ。スピカの事を考えるだけで気分がかなり華やいだ。途中、顔が緩んでいると顔を赤らめたミルザに注意されるくらいに。ぼうっとするアリエス王女を見て、失敗したと思った。どうも、無駄に笑顔を振りまいてしまったらしい。
そうして決めた色は若草色。彼女の瞳の色にも、髪の色にもきっと似合うだろう。
僕が手配を頼むと、セフォネは意外にもすんなりと要求をのんだ。
「ちょうど良かったですわ。……近々皆様方の歓迎の宴がありますので……スピカ様のあのドレス、正式な宴では少々浮くかと思っておりましたの。もう少し襟刳の開いたものでないと……」
あのドレスも何も、僕はどんなものかさえ知らないのだけれど……、それよりも。
「歓迎の宴なんかするのか?」
立太子まで間がないのに。宴など後回しにしてしまえばいい。
「王女を迎えておいて……失礼に当たりますわ」
僕にはその辺の感覚がまだ身に付いていないようだった。
でも……スピカがそれに出席するというのが……気にかかる。
傷つかないだろうか。
僕はちっとも歓迎していないんだけれど、そんな宴を開くこと自体、スピカに対して裏切りのようなものを感じる。
「国交に影響する事です。それも分からずに我慢できないようでしたら、妃など務まりません」
セフォネはきっぱりと言う。
僕は父の言葉を思い出し、渋々了承する。
「……分かった。とにかく、頼んだよ。なるべく早めに手配してくれ」
*
「……ですから、我が国とティフォン王国は、主に農作物の輸出入で強い協力関係にあり、アウストラリス王国とは主に資源と水での協力関係にあります。特にかの国の岩塩などは無くてはならないもので……皇子?」
忙しかった。
僕は簡単な食事の後、イェッドの授業を受けていた。
授業は昼から夕食の間ずっと行われていて、そのせいか頭がぼんやりする。また少し熱が出て来たのかもしれない。
しかし休む暇もないのだ、少々は我慢しないといけなかった。ここでまた遅れると……余計にスピカに会えない。
少し気を抜くと、すぐにスピカのことを考えてぼんやりしてしまっていた。僕はいつの間にかスピカに送る手紙の内容を考えていて、イェッドの話が耳に入っていなかった。
「――皇子!」
「あ、――な、なに?」
「いい加減にして下さい。少しはまじめにやってもらわないと……『また』寝不足なのですか?」
イェッドは呆れている。
『また』って、……何も無いのに、そんな風な目で見られると随分嫌な気分だ。
しかし、僕は彼を少し睨みながらも、謝る。話を聞いていなかったのは、僕の落ち度だ。
「すまなかった」
「あなたがそんなだと、彼女が報われませんね。あんなに頑張っているのに」
「スピカが?」
「今日はなんだか異常に熱心で、気味が悪いくらいでした。……何かを忘れたいようにも見えましたけれど」
忘れたい?
「きちんと守ってあげないと、壊れてしまいますよ」
顔を上げると、真剣な光をたたえた茶色の瞳があった。
それを見て、ふとミネラウバに聞いた噂が頭に浮かぶ。
『イェッドと抱き合っているのを見た』
慌てて頭を振ってそのうわさ話を追い出した。――馬鹿だ、僕は。そんなわけが無い。
でも……この茶色の瞳を見ると、心がどうしても騒ぐ。
スピカもそうなんじゃないだろうか。思い出すのではないだろうか、――ルティを。
『……あたし、あんたとジョイアで一緒に過ごしたとき、すごく楽しかったわ。たとえ偽りの姿だったとしても……あれも、あんたの一面なんでしょう?』
スピカは決して彼を嫌ってはいなかった。別れる間際のあの言葉……あれは憎んでいる相手には言えない言葉だ。
今の僕は、ルティに比べると、何もかも劣る。このままだと、いつか……スピカは僕について来たことを、後悔してしまうのではないだろうか。
――だめだ。そうならないためにも、頑張らなければならないのに。
「とにかく、少しでも多く会う時間を作ってあげることです。早く終わらせていまいましょう」
イェッドの珍しく優しい言葉に、僕は少し驚きつつも、素直に頷いた。
*
その日の夜、僕は無駄かもしれないと思いつつも、一応、セフォネに頼んでみる。
「……スピカを呼んで欲しいんだけど」
セフォネは僕の予想通りの顔で呆れる。
「皇子も懲りませんね。儀式が終わるまで我慢できませんか? それ以降ならいくらでもお時間が取れるでしょうに。……まあお若いですし、仕方が無いのかもしれませんけれど」
――話がしたいだけなんだよ!
顔を赤くしてむくれる僕を残して、セフォネはため息をつきつつ部屋から出て行った。
僕はそれを見送ると、テーブルの上に便せんを広げ、筆をとる。
しかし、目の前の真っ白な紙の前に手は固まった。
何を書いたらいいのか……。
思い浮かぶ言葉はいくつもあるけれど、文字にすると妙に恥ずかしい。
そもそも、僕はスピカに言葉で想いを伝えたことが数えるくらいしかない。彼女が心を読んでくれていたから、それを利用していたというか。
思い返してみると、好きだと言ったのは、たった一回しかない……ような。
その事実に愕然とする。
え、あの一回だけ……?
それって……まずい気がする。恥ずかしがってる場合じゃない、これは。
僕は大きく息を吸うと、思い切ってその白い便箋に自分の想いを書き綴った。
書き終わってすぐに封筒に入れ封をする。読み返したら恥ずかしくてもう渡せなくなりそうだと思った。周りを見回して、誰もいない事にほっとする。耳まで赤いに決まってる。こんな顔、誰にも見られたくなかった。
テーブルの上に手紙を置いて一息ついていると、ドカドカという足音と共に今にも噴火しそうなセフォネが戻って来た。
憤っているところを見ると……断られたのか。
「どういうつもりなんでしょうね。三日のうち一日も相手が出来ないというのは」
――あ、そうか。
僕はふと思いついて手を打つ。
「……あの、なんか事情があるとか……その」
「月のもののことなら違います。そのことは必ずご報告いただいております!」
「……」
僕がぼかしたところを、きっぱりと否定される。胸を反らし、なぜか妙に誇らしげだ。
一瞬浮上しかけた気分が一気に落下する。
それだったら分かりやすいし、断られても傷つかなくてもいいのに。
「じゃあ、なんで」
「課題が終わらないのだそうですよ。……真面目にやっているのかどうか知りませんけれど」
意地悪な言葉に思わずスピカを庇う。
「イェッドは熱心だと言っていた」
「まあ……男の方は基本的に女の子には優しいですからね。スピカ様のような可愛らしい方ですと特に。……実際はどうだか」
セフォネは鼻で笑うようにそう言った。
「セフォネ。……そんな風に言うのは止めてくれないか」
思わずびっくりするくらい冷たい声が出る。
我慢してせき止めていたものが一気に流れ出す。
「ま、まあ。皇子」
「スピカは……僕が名を教えるくらいの女性だということ、分かっているのか? 彼女を侮辱するということは……僕を侮辱するのと同じだ!」
駄目だと思っても止められない。
黙れ! ――父は庇えば庇うほど、つけ上がるって言ってただろう!?
僕の言葉にセフォネは眉を寄せ、憮然とした表情を浮かべる。何か言いたげに口を動かしたが、その深いしわの入った唇からは何の言葉も漏れて来なかった。
「今日は、もう下がってくれ」
「……分かりました。……しかし皇子」
「分かってる……今日は無理に訪ねたりしない」
僕はセフォネの言葉を先取りする。
おそらく、彼女のことだ。僕が出て行かないよう、見張りでも付けるつもりだろう。
僕は苛立ちのため、その日の夜はなかなか眠りにつくことが出来なかった。