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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第二部 闇の皇子と緋色の花嫁
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第2章 守られぬ約束

「うわあ、スピカったら、……きれい」


 そう言われて思わずはにかむ。恥ずかしかったけれど、嬉しかった。

 今は、儀式の衣装を合わせている最中で、あたしは純白の絹のドレスを着て、寸法の微調整を行っていた。大きく胸元の開いたドレスには銀糸で丁寧な刺繍が施され、光が当たるとそれはまるで星の川のようだった。

 皇族の結婚の儀では、代々伝わるそこのドレスを少しずつ直してから着ることになっている。あたしのすぐ前に着られたお方は――前后妃のリゲル様。つまりシリウスのお母さんなのだけれど、幸い、あたしはリゲル様とそんなに体格が変わらなくて、丈を少し伸ばしてもらうだけで済みそうだった。

「あ、もう……私ったら、スピカ様よね」

 慌てて侍女のシュルマが口を押さえる。

 彼女はあたしが以前この城で成人の儀までの間をヴェガ様の侍女として過ごした時に、良くしてくれた先輩侍女。その時の癖がなかなか抜けない。

 あたしの侍女が決まらない中、快く引き受けてくれたと聞き、すごくありがたかった。

 

 宮では侍女は皆身分を隠して働いているため、今まで知らなかったけれど、シュルマは貴族は貴族なのだけれど、侍女も侍従も身分の差無く仲良くしているような家庭で育ったため、あたしの侍女という立場もなんら気にならないらしい。

 彼女にあたしが妃候補として、改めて紹介をされたのはつい先ほどのこと。

 不在の間の出来事などいろいろと積もる話があって、衣装を合わせながらも彼女のおしゃべりは全く止まらなかった。

 そんな彼女は相変わらずで、懐かしかった。


 シュルマは、うっとりとため息をついてドレスを撫でる。

「びっくりしたのよ、成人の儀のときの殿下のあの態度……」

 彼女が言うのは、あたしが成人の儀の剣術大会で賞品のように扱われた時のことだと思う。あの後あたしは彼女に会う事無く宮を去った。

「なんていうか、『僕のものに手を出すな』という雰囲気が漂っていたもの」

 そう言われて、あたしは赤くなる。

 成人の儀の夜、シリウスは初めての妃を娶ることになっていたのだけれど、その相手はあたしだと言ってるようにしか見えなかったようで。

 シリウスにそういうつもりがあったのか分からないけれど、たしかにあのやり方は目立ちすぎた。普段が穏やかだったから、余計に皆の目に焼き付いてしまっていた。

 普通は、最初の妃は皇太子の立太子まで隠されていて、そのお披露目の場ではじめて披露されることになっている。その理由をあたしはよく知らないけれど、あの時のシリウスの態度のせいで、もう宮の中ではあたしの存在を知らないものはいなかった。

「皇子殿下って、他人と壁を作られるタイプでしょう。なのに、あなたのことであんなに熱くなられるんですもの。一目瞭然だったわ。……でも、実は意外と見る目があるんだなって、感心したのよね。あなた本当に皇子のこと好きなんでしょう?」

 あたしは余計に赤くなりつつも、しっかりと頷いた。

 十年前から、ずっと好きだった。叶うならば、いつか彼のお嫁さんになりたいと夢見てた。だから、こうしてここにいることが嘘みたいで、幸せでたまらない。

「道理で、他の男にまったく靡かなかったわけだ」

 ふふふとシュルマは笑う。

「あのルティリクス様にも靡かなかったくらいだもの。どんな男があなたを落とすんだろうって思ってたら……なぁるほどねえ」

 そう言われて、あたしは顔が曇るのを止められなかった。

 ルティのことは、公にはされていない。彼は、シリウスの側近という立場を解かれ、元の騎士団に戻ったということになっていた。彼の本当の姿を知るのは、皇帝陛下、シリウス、父さん、ヴェガ様、あとはミルザ姫とその侍女ミネラウバくらいだろう。


 ルティ――ルティリクス・サディル・アウストラリスという名の隣国の王子は、その身分を隠してシリウスの側近を勤めていた。

 そして、あたしは彼によってアウストラリスに誘拐された。彼はあたしを自らの妃にしようとしていた。

 シリウスが助けに来てくれて、あたしはジョイアに戻れたけれど……その事件は、あたしとシリウスの間に、小さな溝を作ってしまったような気がする。

 彼は、気にしている。あたしとルティの間に何があったのか。あの闇色の目はあたしにずっと問い続けている。

 断じて何も無かった……とは言えないのだ。

 シリウスの目の前で、ルティはあたしを抱きしめてキスをした。あんなの、暴力と一緒で、不可抗力だと思う。

 彼は、そのことについて一言も触れない。でも、それと同時に、あれ以来彼はあたしにほとんど触れなくなった。――たぶん、それ以上のことがあったんじゃないかって、疑っているのだ。

 なにしろ、ルティの手の早さは、誰もが知っていたし……。今、シュルマに尋ねれば、さらに浮いた話が聞こえてきそうだった。

 ……違うって言いたい。いっそのこと聞いてくれたらいいのにって思う。そうしたら、あれ以上の事は何も無かったって、言えるのに。

 でももし実際に彼に問われたら……あたしは結局何も答えられない気がした。

 だって、一線を越える事は無かったけれど、ルティといろいろあったことは……完全には否定できないから。

 シトゥラで捕われている間、あたしは彼に何度もキスされたし、体も触られた。

 それだけでも、きっと彼は裏切りに近いものを感じるのではないか……あたしはそれが怖い。

 言わなければいい。曖昧に誤魔化して彼を安心させてあげればいい。だけど彼のすべてを見透かすあの瞳を騙し続ける自信なんかとても無かった。


「そういえば、昨日は皇子が渡って来られたって侍女仲間に聞いたんだけど……早速そうだったの?」

 シュルマの目が三日月のようになっている。すごく嬉しそうだった。

「……」

 あたしは答えられずに俯いた。

 昨日……シリウスがあたしの部屋で待ってると聞いて、授業が終わった後急いで部屋に戻ったのだけれど――部屋には誰もいなかった。遅くなったから、戻ってしまったのかなって、すごく残念だった。部屋に戻るまでの時間、あまりにもドキドキしてたから余計に。

 あたし一人で盛り上がっていたみたいで、恥ずかしかった。それが情けなくって、ちょっと泣けてしまうくらいだった。

 でも……朝耳に届いた話で、あたしはそれどころじゃないくらいに落ち込んだ。シリウスはどうやら外宮で夜を過ごしたらしい。

『今朝、殿下が外宮から戻られていらっしゃるのを見たのよ!』

 侍女たちがあたしにわざわざ聞こえるようにそう騒いでいた。耳を疑った。

 彼は部屋に来なかった。でも、彼はここで夜を過ごしたらしい。

 この場所の役割を考えると当然一人でとは思えなかった。そもそも空いている部屋は無いと聞いていた。

 それが、どういうことなのかくらい、あたしにもさすがに分かってしまった。

 ――シリウスは、あたしがいなかったから、〈他〉を当たったのだ。

 とても信じられなかった。だって――

 あたしは、彼が言ってくれた言葉を思い出す。

『僕は、君以外と、こんなこと、したくない』

 あたしは彼の腕の中で、最高に幸せな気分でその言葉を聞いた。

 彼は口先だけでそんなことを言うような人じゃない。……きっと噂だけが先走ってるの。そう、その朝帰りの話がきっと嘘なのよ――

 あたしは、シリウスを信じたかった。


 俯いたままそんな風に考え込んでいると、シュルマはあたしが照れているのかと勘違いしたようだった。

「いいわよねぇ、新婚って」

 なんだか、シュルマはまだ色々話を聞きたそうにしていたけれど、何を言っていいのか分からず、あたしは曖昧に微笑んでごまかした。


 衣装合わせが終わり、あたしが本宮へ授業を受けようと移動していると、年配の侍女が曲がった腰に似合わない動作でさっと近寄って来た。

 あれ? 彼女は確か……

「スピカ様。少々よろしいでしょうか」

 それはシリウスの侍女のセフォネだった。肩を怒らせてなぜかひどく憤っている様子だ。

「はい、なんでしょうか」

 あたしはなぜこんなに彼女が怒っているのか心当たりも無く、戸惑う。――えっと、あたし、何かしたかしら?

 シュルマが心配そうにこちらを見ていたけれど、セフォネに睨まれて、廊下の端に下がった。

「昨晩のことについてお尋ねいたします。スピカ様、貴女は皇子の伽を断わられたとか」

「え?」

 話が見えずきょとんとしてしまった。――断った?

「せっかく皇子の方から出向かれたというのに。自分が何をしたか分かっているのですか? 平民出だから分からないと言うのは、もう通用しませんよ。逆らえる立場にはないのです。嫌がるなんて全くもってとんでもない‼ なんでこの城に置いてもらっているか、ご自分の役割をもう一度良く考えてみることです」

 一方的にそう言われ、あたしは呆然とした。

「ちょ、ちょっと待って下さい! あたし、そんな断ってなんかいません!」

「なんです。言い訳なら聞きませんよ。皇子はあなたが戻らなかったと言われているのですからね!」

 言い訳……って。だめだ、この人。ひどく思い込みが強そう。それにしても、戻らなかったって? 彼は一体――?

 あたしが戸惑っているうちに、セフォネはふいとその身を翻して、廊下の向こうへ消えて行った。

「なあに、やな感じ。スピカ様、何を言われたの?」

 シュルマが寄って来てこそこそと呟く。

「……な、なんでもないの……」

 シュルマに問われて、セフォネの言葉が急に蘇り、あたしは雷に打たれたようになる。

 ――なんでこの城に置いてもらっているか――

 何? どういうこと? あたしって、ただ〈それだけのため〉に、ここにいるの?


 ――シリウスも、そう思っているの……?



 あたしは授業に身が入らなかった。先ほどのセフォネの言葉が胸に刺さったままで、そのことしか考えられない。

「おかしいですね。今日は。昨日とは別人ですよ」

 目の前の男性が軽くあたしの頭を持っていた冊子で叩く。

「昨日の夜、何かありましたか?」

「……なんでもないんです。申し訳ありません、イェッド先生」

 ――むしろ何も無かったからこうして悩んでいるの。

 口を開けばそんな乱暴な言葉が出てきそうで、あたしは首を振ってごまかした。


 昨日は、疲れて体調が悪いにも関わらず、確かにすごく捗ったのだ。

 城で受けるはじめての高度な教育。今まで知らなかった世界が見える様で、すごく新鮮で楽しかった。

 勉強して、少しでもシリウスの助けになれば……そう思って夜遅くまで頑張れた。出された宿題もきちんとこなして……。

 でも、さっきのセフォネのように言われてしまうと、いくら勉強しても、全部無駄なんじゃないかと思えて仕方ない。

 だって、あたしに求められているものは、シリウスの夜の相手だけなんだもの。それさえ勤めればいいんだもの。

「皇子ほどではないですが、せっかく優秀なのですから……身を入れてもらいたいんですけどね」

 ああ、そうか。この人はシリウスの授業も見ているんだわ。皇子ほどではない……って、やっぱりシリウスはなんでも出来るんだ……。

 あたしは、彼のことを過小評価しているわけではないけれど、彼があたしが思っているよりも優れているところを見たり聞いたりするとひどくびっくりしてしまう。幼馴染みで、いろんな情けないところや、弱いところも知ってるから、余計にだった。

「皇子も、もう少し身を入れてもらえば、その分自由な時間が取れるはずなのですが……なにか思い煩われているようですし。私の生徒は、皆やる気が無くて困りますね」

 イェッドはその茶色の瞳であたしを優しく睨む。

 茶色の瞳は……苦手だった。その色は、嫌な思い出と直結していた。

 あたしはそれを見ていたくなくて、俯くと再び謝る。

「すみません」

「今日も宿題がたくさんありますし。あと夜はお作法もあるのでしょう? また遅くなりますよ。……正直に言うと、夜はしばらく眠ることに専念してもらいたいのですけどね。どちらも寝不足となると、捗らないのも当然ですし……あぁ、これはあなたに言っても仕方が無いですね、断れないのですし」

 ――あたしは別に寝不足じゃないわ。

 いちいち小さな言葉が気にかかる。冷やかしのつもりであろう言葉が、心をさらに冷やしていく。

 会いたい。今すぐシリウスに会いたい。

 彼に会わなければ、あたしの心は冷えきって、そして凍り付いてしまうんじゃないかって、そう思えた。


 シリウスの部屋は、今あたし達がいるこの部屋を奥に進んだ突き当たりにあった。

 でも、今のあたしは予定に無い行動は規制されていた。


 ――歩いてすぐの距離がなんでこんなに遠いのかしら――


 結局、勉強は進まず、あたしは大量の宿題を抱えて部屋に戻ることとなった。



 部屋に戻る途中、すれ違う侍女が昨日の朝に比べて明らかに多く、妙に気になる。

 あたしを見ると、こそこそと侍女同士が囁きあった。それは朝のうわさ話の様子によく似ていた。

 だれか、新しく人が来たのかしら?

 侍女の多さから考えても、主は一人や二人ではない。

 何か気になったけれど、結局奥の自室の方へと足を進める。そして、部屋に入り、大きく開いた窓を見て、あたしは愕然とした。

 赤、水色、緑と華やかなドレスが春風に舞う。まるで花のように。

 固まったあたしの視線の先では、本宮と外宮を結ぶ長い渡り廊下をシリウスが三人の少女を案内していた。

 遠目から見ても、彼女たちが何者なのか、その服装、立ち振る舞いから想像できる。

 ――まさか。まさか、昨日のシリウスの相手は――

「どうしました? スピカ様」

 あたしが固まっていると、シュルマが不審そうにあたしが見つめている方向を見た。

「あ」

 まずい、といった表情で、シュルマはあたしの前に立つ。

「次の予定が迫っていますし、もうお支度をしないと」

 そうして立て付けの悪い木の扉を強引に下ろすと、窓を塞ぎ、外の景色も光をも遮る。春の陽光が遮られ、急激に翳る部屋の中、燭台に灯が灯されるのをあたしは呆然と見ていた。

「シュルマ……知ってたのね」

「……」

 シュルマは気まずそうに俯く。

「落ち着かれたらお話しようと思っていたのです。お披露目まではお忙しいですし、余計なことは考えないほうがよろしいかと。皇子殿下におかれても……たぶん、いろいろ圧力があったのでしょうけど……。何もこんなに早く次の妃をお呼びになることもないのに……」

 シュルマがあたしを気遣うように肩を抱くと、憤慨して言う。

「きさき……」

 そう呟く。立っているのがやっとだった。

 あたしを支えている約束。

『僕は、君以外の誰も娶るつもりは無いんだ』

 あたしは信じられない思いでそれを聞いた。もうその約束だけで、どんなことも我慢できると思った。

 でも、その約束がもし無くなってしまったら……あたしは、ここに居続けることが出来るの。彼の隣で微笑んでいられるの?

「送り込んでくるほうも来るほうよ。お披露目さえさせない気なのかしら」

  シュルマは何気なくそう言ったけれど……あたしは、本当にそうなるのではないかと、心の隅で思っていた。


 

 結局その日、あたしは夜半過ぎになっても課題が終わらず、部屋に戻れなかった。集中力が欠けていると何度も怒られた。

 やっと終わらせて、ふらふらになりながら教室を出ると、扉の横でシュルマが顔を曇らせて待っていた。

「あの……皇子がお召しだったのですけれど……授業が長引いていることをお伝えしたら、それならいいと言われてしまって。……あのセフォネが、昨日のことを根に持っていて……すみません」

「……いいの。今日は疲れたし、こんな時間までお待たせできないもの」

 そんなのは嘘だった。本当は今からでも彼の部屋に行って、その腕の中に飛び込みたい。――でもそんなこと、許されない。

 今のあたしには、何をするにも許可がいる。ちょっとでも外れた行動をすれば、それはシリウスの悪評に繋がってしまう。

 なんて窮屈なんだろう……。いつも彼が傍にいてくれた、アルフォンスス家での日々が嘘のようだった。


 それに、同じ城で過ごすにしても、こんなに違う。ふた月前は一日会えなくても、こんなに辛くなかった。遠くから一目見るだけでも、満足できた。

 やっぱり、あたしはずいぶんと欲張りになってしまっていた。

 最初から多くを望まない方が、後で辛い想いをしなくていい。そう思って色んな事を諦めて生きて来た。そんなあたしに欲張りになっていいと言ってくれたのはシリウスだ。でも……やっぱり、欲張りになった分だけ望んだことがが叶えられないのは辛いみたいだった。

 たった一枚の黄色いドレスを皺には出来なくて、あたしは腰掛ける事も無くすぐにそれを脱いで寝間着に着替えた。そして寝台に潜り込むと、冷え切った枕に顔を押し付ける。真新しい毛布に包まれてお日様のにおいを嗅ぐ。それでも――彼のぬくもりがただひたすらに恋しかった。


 *


 翌朝、あたしは寝不足の頭を抱えて、朝食に向かった。

 外宮には食堂があり、皆それぞれそこに集まって食事をとることになっていた。おのおの部屋で食事をとる本宮とは、様式が違うらしい。

 あたしは、他の妃候補と顔を合わせるのが嫌で、少しだけ遅めに食事をとりに行ったのだけど――

「あらあらあら」

 一人の豊満な体をした女性があたしに近づいてくる。

 豊かな栗色の髪を二つに分け、頭の高い位置で美しく結っている。黒いダイヤのような目が挑戦的にこちらを睨んでいた。まだ幼さを少し残すその顔とは不釣り合いなくらいに、上質な深紅のドレスに包まれたその体は大人びている。……胸など、服がはち切れそうで、比べるのも馬鹿らしいほどに大きい。そしてその胸に埋もれるように一粒の大きな赤い宝石が派手に光っていた。

 つんと花の香りが鼻を刺す。香水かしら? なんにせよ、付け過ぎだった。

 昨日シリウスと一緒に居た女性の一人だ。隣に似たように印象のきつい侍女を連れている。食事をしていないところを見ると、どうやらあたしに用があったみたいだった。

「遅いお出ましですこと。夜のお勤めがあるのですものね、仕方ないとも思いますけれど」

「いいえ、エリダヌス様。昨晩の伽はこの方ではなかったそうですわ」

「え? 皇子の愛妾って、この子でしょう?」

 愛妾……って。

 あたしはその強烈な響きに固まり、横でシェルマがムッとした顔をして尋ねる。

「どなたがそんなことを言われているのです!」

「その辺の侍女を捕まえれば、みんなそう言うわよ」

 エリダヌスと呼ばれた娘は軽やかな口調でそう言う。

 今度はシュルマも絶句し、あたしから申し訳なさそうに目を逸らす。

 彼女はそんな様子を面白そうに見つめて笑うと、視線をあたしの体に移す。舐めるようなその視線に思わずたじろいだ。

「その割には……なんというか。お子様なんじゃないの、まだ」

 彼女は自分の胸とあたしの胸を見比べて鼻で笑った。

 横でシュルマが今にも噛み付きそうな顔をしている。

「外見では分からないのかもしれませんわ。なんといっても、今まで誰も寄せ付けなかったあの皇子を落としたのですもの。大人しいふりをしていても、案外……」

「ああ、そうなのかしら。寝台では大胆なのかもしれないわね」

 下品だと思った。いったい何を想像しているの。あたしとシリウスのことをそんな風な目で見ないで――!

 さすがに言い返そうと口を開きかけたとき、

「そういう下世話なお話は、こんな場所でされない方がご自分のためでなくって? 聞いていて気分が悪いわ」

 後ろからのんびりとした声が聞こえて、あたしは振り返る。その口調と内容のキツさがかみ合っていないような気がして一瞬混乱する。

「な、なによ」

 エリダヌスはムッとした様子だが、下世話と言われたのが堪えたらしく、言い返そうと考え込む。そこを件の少女が一気に畳み掛けた。

「南部の方はこれだから。もっと趣味の良いお話などされれば良いものを」

 冷たく微笑まれ、勝ち目が無いと思ったのか、エリダヌスはぎりぎりと歯ぎしりをすると、憤怒の表情を浮かべたまま侍女を引き連れ食堂を出て行く。捨て台詞も忘れなかった。

「覚えてらっしゃいよ!」


 嵐が去ったかのようだった。一気に静まり返る食堂で、あたしは安堵のため息をついた。

「ありがとう……」

 あたしはその少女にお礼を言う。

 改めて見ると、おそらく同じくらいの年齢だった。

 銀色の細い髪は腰よりも長くその華奢な体にまとわりつくようにしていて、大粒の真珠で出来た髪飾りが耳元で遠慮がちに光る。灰色の瞳は優しげだった。

 ふんわりとした水色の可愛らしいドレスが似合う、可憐な少女だ。

 彼女はにっこりと笑う。小さな花が辺りに溢れるようだった。

「礼には及びませんわ。別に、あなたのことを庇ったわけではありませんし……。言わないだけで、同じように思っていますし、ね」

 その表情とはあまりにかけ離れた言葉に、あたしは唖然とする。

 え――何て言ったの、今。

 あたしのそんな様子を見て、彼女は嬉しそうに微笑む。

「ああいうやり方より、もっといい方法があるのに……結局は皇子を手に入れたものの勝ちなのですから。……ふふふ。わたくし、シェリアと申しますの。あなたも北部出身なのでしょう。いろいろお聞きしてますわよ。お父様は平民、お母様は……いろいろいわくありげなお仕事をされていたみたいですけど。その娘なら、いろいろ手練手管を持っていらっしゃるのでしょうね。皇子が夢中になるような。あとで教えて頂きたいくらいだわ」

 最後の方は、あたしにしか聞こえないように、耳元で囁いた。

 あたしは背筋が冷える気がした。

 母さんのこと、知ってるなんて……。この人、さっきのエリダヌスよりもずっとたちが悪い。あたしは、そう思った。

 シェリアは呆然とするあたしを見て楽しそうに微笑むと、軽い足取りで食堂を出て行った。


 いつしか目の前の食事は冷えきっていた。ここに着いたときには汁物から立ち上っていた湯気はもう跡も形も無い。

「あの……その、皇子のお相手って……お二人なのかしら」

 あたしは落ち込んだまま、シュルマに尋ねる。

 手にパンを持ってみるものの……口に運ぶ気力も無かった。

「いえ……四人と聞いています」

「四人……さっきの二人はジョイアの貴族みたいだったけれど」

「ええ。南部ガレ領主の娘エリダヌス様、北部ケーン領主のシェリア様。どちらも広大な領地を持つ資産家の娘ですわ……だから皇室としても断りきれないのでしょう。……あとは……」

 シュルマは、ひどく言いにくそうに口を開く。

「大臣メサルチムの娘タニア様と……ティフォン王国のアリエス王女……だそうです……」

 ものを知らないあたしでも分かるくらいの大物だった。今のシリウスがそれを断るには……きっといろんなものが足りない。

「スピカ様……」

 シュルマが心配そうにあたしを覗き込む。

「大丈夫」

 今はまだ。

 でも、……覚悟をしなければいけないのかもしれない。

 ワガママを言ってシリウスを困らせてはいけない。そうだ、最初あたしは覚悟していたはずだった。何人かの妃の一人でもいいと。傍に居ることが出来れば良いと。この事態は予想の範囲内。

 あの人たちの中では、妃として並ぶのも難しい。着ていた服も、付けていた宝石も、あたしは何も持っていない。そういった彼を支える財産は何も。

 その上、妃としての美しささえもない。ジョイアの女性にとっての美しさの基準――身を飾るはずの髪でさえ……持っていないのだ。

 あたしは長さが分からないようにと、まるで侍女のように纏めた髪をそっと撫でる。


 ――君以外の誰も娶るつもりは無い――

 ――僕は、君を正妃にする――


 胸の中にしまっていた宝のような言葉達。それがどんどん色あせて行くのが分かる。

 正妃なんてとんでもない。皆、あたしを妾妃としか見ていないのだから。そしてその響きは随分と今のみじめなあたしにお似合いだった。

 あたしはぎゅっと目を瞑ると、そろそろと息を吸込んだ。それとともに溢れ出そうな涙を飲み込む。


 ――あの約束は……忘れよう。その方が、彼のためなんだもの。

 今度会えたらそう伝えよう、あたしはそう心に決めていた。


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