第1章―2
「ん、……スピカ……」
明かり採りの窓から差し込む薄い光が顔を照らし、僕は目が覚めた。
あれ? ここは……?
見覚えの無い低い天井が僕の上にのしかかっていた。ハッとして、起き上がると、部屋の中を見回す。僕は広めの寝台の上に一人で居た。
誰も……いない。うそだろう? スピカは? 一晩戻って来なかった? まさか何かあったんじゃ……!?
僕は慌てて寝台から飛び降りると、部屋を出て本宮へと駆け出す。
まだ侍従侍女以外は誰も起きていないくらいの時間帯のようだ。それ以外の人間は皆日が昇ってしまってから活動を始める。外宮の部屋は寝静まっていた。
足音を抑える事も出来ず、ギシギシと廊下の床板を軋ませながら、外宮を駆け抜けた。
門番に声をかけようかと思ったけれど、彼女の立場を考えると、あまり騒ぎを大きくしてもまずいと思い直す。
息せき切って自室に戻ると、セフォネが僕の食事をテーブルに並べていた。
「あら、今からお迎えに行こうと思っていましたのに」
「――スピカは!?」
僕が血相を変えて叫ぶと、セフォネは不審そうに顔を歪めた。
「先ほどまでご一緒だったのでは?」
「……戻って来なかったんだ。昨夜」
「な ん で す っ て」
セフォネは急に顔を赤くして憤慨した。
「皇子の伽を嫌がるなんて!! わざわざ皇子自ら出向かれたというというのに!! なんて、なんて失礼な」
勘違いも甚だしい。セフォネはふるふると震え出した。
「いや、僕が言ってるのはそんなことじゃない。彼女が今どこにいるか。至急探してくれ!」
もし、また攫われていたりしたら……。
僕の頭に先日の悪夢がよみがえって、それと共に猛烈な後悔が湧き上がった。
なんで昨日待てずに眠ってしまったんだろう。夜のうちに気づいていれば。
この間の事があるから、警備は万全にしていたはずだった。だから、まさかとは思うけれど――。
探しに飛び出そうとすると、セフォネが老体に似合わない素早さで僕の前に立ちふさがる。
「どちらへ」
「探しに行くに決まっているだろう」
「どこをです」
「……」
確かに、どこを探していいか分からなかった。妻をまだ持たない僕は、本宮はまだしも外宮にはあまり詳しくないのだ。
しかも、外宮の部屋を僕が覗いて回るわけにいかない。
僕が口ごもると、セフォネは大きく息をついた。
「スピカ様はこちらで責任を持ってお探ししますので。殿下は普段の通りお過ごし頂くようお願いいたします」
ひれ伏しかねない勢いで頼まれ、僕は渋々了承する。
「……見つかったらすぐに知らせてくれ。あとレグルスに連絡を頼む」
*
僕が上の空で食事をしていると、レグルスが渋い顔をして部屋に入って来た。そして僕の傍に寄って来ると、耳元でこっそり囁いた。
「スピカは見つかりました」
「え?」
思わず手に持っていたパンを取り落とす。
あまりにあっさりそう言われて、僕はホッとするよりも拍子抜けした。
「スピカは普段通りに、起きて来ていました。聞けば、ずっと部屋にいたと言っています」
「なんだって?」
「皇子は……昨夜、部屋を訪ねたのですよね? そして、ずっとそこに居てスピカを待っていたと」
口調に棘がある気もしたけれど、この際無視した。
「でも、僕はスピカを見なかった。彼女はなんて?」
「一晩待っていたけど、皇子が来なかったと……」
レグルスは何かもの言いたげに僕を睨んでいる。
だけど、遠巻きにしている侍従の目を気にしているのか、結局は口をつぐんだままだった。
どういうことだ? 部屋を間違えたのだろうか。
でも……昨日何度も位置を確認していたのを覚えている。
それとも……セフォネがわざと違う部屋に連れて行ったのか?
あの怒り具合を見るに、そんな風には見えなかったし、わざとそんな事をするくらいなら、侍従を呼んで僕を部屋に軟禁する方が手っ取り早いだろう。まあ、確認は必要だけれど……。
まさかだけど――セフォネが言うように、スピカが本当に僕を避けて戻らなかった? 原因を探るけれど、昨日は別れ際まで仲良く馬車に乗っていた。その会話もたあい無い幸せなもので……彼女が僕を避けるような理由はひとつも見つからなかった。
とりあえず、彼女に直接話が聞きたいと思って、レグルスに尋ねる。
「ねえ、スピカは?」
「もう本日の予定をこなしてます。今日は衣装合わせがあるとかで……」
「ああ、そうか」
儀式のときの衣装か。
母達の肖像を思い浮かべ、スピカがそれを身につけた時の事を夢想する。きっと、今までで一番綺麗な妃になるに決まっている。
そんな僕にレグルスが少し顔を曇らせて言う。
「あの……皇子。今日は、陛下がお話があるそうです。朝食後少しだけお願いできますか」
なんだか歯切れが悪い。
「話?」
「スピカの部屋は外宮の端にあったでしょう? ……なぜだと思います?」
確かに、妃の部屋としては考えられないほど遠かった。
僕は昨晩の事を思い出して顔をしかめる。
「貴族の嫌がらせかと、思ってたけど……」
「陛下の話を聞けば分かります」
――ということは、違うのか?
僕が食事を終え部屋を出ようとすると、扉の外で待っていたレグルスから呼び止められる。
「――皇子」
彼は、一瞬躊躇ったように言葉を切ったけれど、そのスピカと同じ緑灰色の目で僕を鋭く見つめ、言った。
「スピカを裏切らないで下さいね」
*
「わたくしは、エリダヌス。南部ガレから参りました。皇子殿下にはご機嫌麗しく、お喜び申し上げます」
栗色の髪に勝ち気そうな黒い瞳。僕よりも少し背が高いくらいで、体の線を強調する血のように赤いドレスに包み込まれているのは、ちょっと目のやり場に困るような豊満な肢体。
「わたくし、シェリアと申しますの。北部ケーン出身ですわ、皇子のお母様の故郷とあまり離れていない土地ですの。あとで故郷のお話をさせていただいても宜しいでしょうか」
ほぼ銀色と言っていい薄く黄色みを帯びた髪。おとなしそうな細い灰色の目。薄い水色のふわりとしたドレスは、彼女のはかなげな印象を強調していた。
そしてもう一人、父の隣に小さな少女が目を伏せたまま座っている。
僕は唖然として目の前の光景を見ていた。
僕の目の前には、三人の女性。
三人三様、特徴的な、美少女たち。
「あ、の……」
父に睨まれて、挨拶を促され、僕はとりあえず目の前に居る二人に向かって渋々口を開いた。
「――私は、ジョイア皇国、皇太子。まだ正式には発表できないが、シリウスと言う」
立太子まで、僕は表向きの名を持たない。儀式を行い、初めて第一皇子という肩書き以外の名を持つことになる。親しい間柄の人間はすでに僕の名を知ってはいるけれど……正直に言うと、スピカ以外の女の子にはまだ僕の名を呼んでは欲しくなかった。それは、彼女だけの特権だ。
しかし――
段々頭が働いてきて、今の状況が飲み込めてきた。
ああ、のこのこと出てくるんじゃなかった。レグルスも知っていたなら、一言言ってくれればいいのに。
さすがに、意味するところは分かる。彼女たちは、僕の妃候補だろう。
父が、紹介の済んでいない少女を促すと、彼女は椅子から立ち上がった。
僕は小女を初めて真直ぐにみつめた。少しだけ色の濃いつややかな肌がそのドレスの隙間からのぞいている。
年齢はミルザと同じくらい。濃い茶色のくせのある髪に、濃い緑色の瞳。その外見は南国の民に多かった事を思い出す。それを肯定するように、父の声が響いた。
「こちらは、ティフォン王国のアリエス王女だ」
「……シリウスです。お目にかかれて、光栄です」
僕は身をかがめ少女の手を取ると、その甲に口づけをし、かの国の女性に対する正式な礼をとった。
なんてことだよ。王女だって?
「本当はあと一人紹介する予定だったのだが、気分が優れぬということでな……。とにかく、四人とも、こちらにしばらく滞在することになっている。お前も忙しいとは思うが、都を案内してやってくれるな」
有無を言わせぬ口調。父の目には挑戦的な光が宿っていた。
――さて、どうやって切り抜けるんだ?
そう言っているように見えた。
その後の説明によると、四人の妃候補たちは、どうやら表向き遊学という形でこの城に滞在することになっているらしい。
部屋が埋まっている理由がやっと分かった。
……僕は結局断る理由を思いつかず、彼女たちの相手をする羽目になってしまったのだけれど、ただでさえ、立太子の儀のための勉強で忙しいのに、その上時間を取られるとなると、とてもじゃないけれどスピカに会ったりする時間なんて作れない。
妃候補のことは既にスピカの耳に届いているかもしれない。
もしかしたら、そのせいで、昨日僕に顔を見せなかったとか……。
ついこの間約束したばかりでこんなことになっていれば、いくらスピカでも僕を疑うんじゃないかと思った。あの言葉は嘘なんじゃないかって。
……いくらなんでも、こんなはずじゃ……。
僕は焦る。
こんなことなら、ツクルトゥルスに居る間に、もっとしっかりと話をしてればよかった。何が起こっても絶対に裏切らないからと、もっと強く言っていれば良かった。
そうすれば、会えなくてもこんなに不安にもならなかったかもしれない。
もし、今日も会えなかったら……。
こんな狭い城の中なのに、ひょっとしたら僕は一生彼女に会えないんじゃないか、そんな不安に陥った。