第1章 揺らぐ覚悟―1
城に到着すると、城門の前でスピカたちとひとまず別れ、父の元へと向かった。すでに侍従が僕の到着を待っていた。父が呼んでいるという。
その意図がすぐにわかる。――黙ってスピカを追っていったことを僕は皆に謝らなければならなかった。
本来ならスピカも連れて行きたいところだったけれど、彼女は長旅で疲れてしまい、少し熱を出していた。
手の怪我も少し痛み出したようで……、やはり本調子に戻るまでにはもう少しかかるのかもしれない。
立太子の儀式に出られないようなことがあっては困るので、レグルスと叔母に任せて、部屋に連れて行ってもらうことにした。
本宮をぐるりと取り囲む外宮を突っ切り、中庭を通って、父のいる謁見の間へと急ぐ。
父は、玉座の長い背もたれに背中を預け、静かに座っていた。
僕が中央に跪くと、その目の合図によって、人払いがされる。
「無事に取り返せたようだな」
低い声が響く。
はたして無事と言っていいのか迷ったけれど、僕はとりあえず頷いた。
「はい……。身勝手な理由で、ご心配おかけして、大変申し訳ありませんでした」
父は軽く頷くと、少しの沈黙の後、静かに切り出した。
「お前の不在の間、いろいろあってな。……すぐ分かると思うが、おそらくお前もあの娘も苦しい立場に立たされるだろう。覚悟をしておくことだ」
「いろいろ、ですか」
「最後まで意志を貫き通せずに中途半端になるくらいだったら、今のうちに降参しておくことだ。……変に期待をさせるのは、残酷だからな。……シャヒーニの二の舞にするわけにはいかぬ」
義母上……か。
父への妄執のような愛情によって母と僕とを狙った張本人。彼女は自らあおった毒によって、未だ昏睡状態のままだ。
「あれには……すまないことをしたと思っている。……ずっと寵を与えてやれないのなら、初めから妃になど迎えるべきではなかった」
父は、そこで言葉を切ると、その褐色の目で鋭く僕を見つめた。
僕はムッとしていた。
――それは、僕がスピカを愛さなくなると言っているのだろうか。父が最初の妃だった后妃とスピカを重ねるのは分かるけれど、……僕は父が母を選んだのと同じ理由でスピカを選んだのだというのに。
「父上と一緒にしないで下さい。僕は……妃はスピカだけでいいのです。彼女以外は娶ろうと思っていません」
僕の少し怒りのこもった口調に、父は少し驚いたような顔をしたが、やがてその目を緩ませ意地悪そうに笑った。
「私も、最初はそう思っていたがな。嫁いできたシャヒーニはそれはそれは可愛らしかった。彼女以外の華は要らないと思ったものだ。しかしリゲルに出逢って、私は彼女に取り憑かれたようになった」
父は母の名を出す時、少し苦しそうに顔を歪めた。
「ですから」
僕は次第に苛立ちを隠せなくなって来た。――なんで分かってくれないんだ。
「まあ、聞け。……つまり、お前がいくらそう思っていても、周りはそう思わないということを私は言いたいんだ。――お前はまだ若い。一時の気の迷いと思われても仕方が無い。あの娘、なかなかに美しいからな。現に、あの娘にお前がたぶらかされていると、宮中に噂が広まっている」
「え?」
「成人の儀で、相手とバレたのがまずかったようだ。……お前たちがいない二月のうちに、もうあの娘を追い落とそうと画策している者がいる。噂話を少し拾ったが、ひどいものだった。聞けばあの娘は傷つくだろう。それでも彼女は耐えなければならない。そして、お前も黙ってそれを見ていなければならない」
「なぜです」
僕は憤慨して尋ねた。――黙って見てる、だって? スピカが傷つくのを?
「お前がむきになればなるほど、周りの反応は過激になるからだ。庇われなければ何も出来ない……そんな器では、とても正妃など務まらぬ。お前の母は、黙ってそれに耐え、ゆっくりと周りを懐柔していった。――宮はな……女にとってみれば、戦場となんら変わりない。お前が他の妃を迎え、あの娘を妾妃としておくのなら、あの娘への風当たりはずいぶんと弱まるだろうがな。そうするつもりは無いのだろう? ――すべてを選ぶことは出来ない。何を選ぶかはお前が決めろ」
僕は、どうすれば良いのか分からなかった。
予想はしていたけれど、すでにそんなことになっているとは思いもしなくて、出鼻をくじかれた気分だった。
彼女と一緒に歩いて行こうと決心していた心が揺らぐ。もう一度、スピカとしっかり話をする必要がある気がしてきていた。
*
僕が自室に戻ると、予想に反して、そこには誰もいなかった。
――あれ? レグルスや叔母や……それからスピカは?
石造りの広い部屋が、僕が出て行った時と同じ状態でそこにあった。暖炉に火が灯っているのに、人がいないだけで、寒く感じるのはなぜだろう。
傍らにいた年老いた侍女に尋ねる。
「スピカは? セフォネ」
「スピカ様には、別室がご用意されています」
そういえば、スピカにも部屋が用意されるのは当然か。お披露目はまだにしろ、妃なのだから。
僕は身を翻して、部屋を出る。
「で、スピカの部屋はどこ?」
僕が、尋ねると、セフォネは慌てたように僕の前に立って頭を足れる。
「申し訳ありませんが、もう今までのように軽々しくお会いにはなれません。伽が必要であれば、そのように申し付け下さいませ。準備がございます」
――なんだって?
僕は思わずセフォネを睨む。彼女は僕の視線にもたじろぐこと無く、堂々と僕の目を見ていた。
「会えないって、そんなわけないだろう」
「ですから、お会いになれないわけではございません。ただ皇子にはこれから予定もございますし、それに合わせて動いて頂かないと……。立太子までもう幾許もございませんし、やらなければならないことがたくさん残っております。ご不在の時の分がありますので、今からでも間に合うかどうか。――スピカ様についても同様です。もっとも……彼女の場合は、お作法から何から最初からですのでもっと大変ですが」
最後の方、馬鹿にしたような響きが混じったような気がした。
侍女と言っても、ほとんどが貴族出身。このセフォネもそうだ。平民出のスピカのことを良くは思っていないのかもしれない。
父の話を思い出す。
――宮は、女にとって戦場となんら変わりがないのだ――
僕は急にスピカのことが心配になる。今、彼女はどうしてるんだろう。
しかし、皇太子としての勤めについて含まれると、無理に部屋に押し掛けることは無謀だと思えた。それこそ、悪い噂を広める原因になりかねない。
「……分かった。……では、夜まで待つ。準備を頼む」
僕はそう言うと、おとなしく自室に戻った。
*
しかし、伽って言ったら……当然だけど、夜二人っきりになるのか……。
僕は目の前のテーブルを見つめながら物思いにふける。テーブルには糊のきいたひんやりと冷たいクロスが皺一つなくかけられている。部屋を見回しても目に入るのは、すべてが最上級の品だった。先日まで生活していたアルフォンスス家とはあまりに違いすぎた。
手入れはしてあるものの古い屋敷、同じように洗濯されてはいるものの何度も洗われて少し黄ばんだクロス。そのすべてが懐かしい。そして、今はなにより、扉を開ければすぐ隣の部屋にいたスピカとの距離が愛し過ぎた。
こんなことになるって分かっていたら……もっとあの時間を大事に使ったというのにな。
スピカが怪我をしてから今まで、ずっと一緒に居た割には、夜は別々だった。彼女は心も体もボロボロだったし、少し触れるだけで壊れそうだった。
傷が癒えたら、今度は僕がいろいろ考えてしまって……。いつの間にか触れるのが怖くなっていた。
結局、最後に彼女を腕の中に抱いたのは、あの、記憶を取り戻した夜。もうひと月も前だ。
馬車の中での叔母との会話を思い出す。
――ルティ……か。
結局何もかも曖昧になったままだ。あいつのスピカへの気持ちさえ、さっぱり分からなかった。信頼していただけに……あの時の、あの目、あの言葉が僕を苦しめる。
――俺はずっとお前のそんな顔が見たかった――
僕への当てつけとしか思えない、奪うようなくちづけ。抵抗できないスピカ。
あの光景が、どうしても頭の中から離れない。
スピカがあんな目に遭ったのは僕のせいなのだから、忘れてはいけないと、そう自分に言い聞かせていた。
しかし……本当は忘れられないのだ。彼女の躰が僕の知らない反応を示したら……そんなことを考えると、気が狂いそうになる。
――――だめだ
こんな風に考えるくらいなら、叔母の言うように……忘れなくては。
そうだと分かっても丸ごと受け入れられるくらい、大きくなれたらいいのに……。
そう思う僕の頭に、ふとレグルスのことが思い浮かんだ。
ラナという名の彼の妻、そしてスピカの母は、元間者だった。敵陣でその躰と情報を交換するような、そんな仕事をしていた。そうして、その仕事中にレグルスと出逢っている。
レグルスは、その過去を許せたのだろうか。全てを許して、そしてラナの傍に居たのだろうか。
話を聞いてみたかった。
「でも……それは無理だ……」
僕はひっそりと呟く。
きっと僕がスピカのことを信用していないという風に思われる。彼にだけはそういう隙を見せるわけにいかなかった。
「殿下? ちゃんと聞いてらっしゃいますか?」
目の前の男が苛立ったような声を上げる。
白いものが大分混じった茶色の髪の隙間から、同色の瞳が覗いている。
あぁ、そうだった……、授業中だった。
あの後すぐにこの教師がやって来て、外国語やら、諸外国の王族の名前やら、文化やらその他諸々を僕は必死で頭に詰め込んでいた。
立太子の儀式には諸外国から賓客を招く。その後の披露宴にて僕とスピカは彼らと歓談する事になっていた。その際に失礼にならない程度の知識は必要だったのだ。
本当にセフォネが言ったように大量だ。確かに……式までに間に合わないかもしれない。しばらくは、ほとんど部屋から出られない軟禁状態になりそうだった。
しかし、あまりに頭が疲れて来て、ぼうっとしていたようだ。ふと窓の方を見ると、外はもう真っ暗。ずいぶん長い間、拘束されている気がする。
「すまない、イェッド。ぼうっとしてた」
僕は素直に謝る。
「今日は戻って来られたばかりでお疲れのようですし……続きは明日にしましょう」
イェッドはそう言うと、少し微笑んで、席を立つ。
「あぁ、えっと、イェッド。――君がスピカの授業も受け持っていると聞いたのだけど」
これだけの知識をひとりで網羅している人間は他にいなかった。一度に効率よく勉強を進められるということで、父が推薦し、急遽僕たちの教育係に抜擢されたのだ。
彼は僕とスピカを交代で教えているという。
髪はだいぶん白いけれど、こちらを見つめるその目はかなり鋭く、年齢不詳に見えるのはきっとその不釣り合いさのせいだと思った。僕はそう感じて少し肝を冷やす。
イェッドは僕の質問にあっさりと頷く。
「そうですが」
「……その、彼女の様子は……特に変わったことはなかった?」
「ご自分で今から確かめられるのでしょう?」
彼はその唇を少し歪めて冷たく笑う。
「うん、まあ、そうなんだけど」
スピカのことだ。僕の前で弱音なんか吐かないに決まっている。
「何か気づいたことがあったら、教えてくれないか」
僕は一応、いろんな人にそれを頼むことにしていた。特に、彼女を観察できる立場にある人間には。――味方は多い方がいいに決まっている。
「分かりました」
熱心に見つめていると、彼は少々呆れた様子で少し息を吐いて、そう言った。
*
僕は、その後湯浴みをすませると、セフォネに連れられ、外宮の長い廊下を渡っていた。
歩きながら先ほどのやり取りを思い出す。
「なんだって? スピカが来れない?」
「授業が終わらないそうです。他の娘を呼びますか?」
もう夜半が近かった。
なんだっていうんだ……。スピカだって疲れてるのに、こんな遅くまで?
僕が腑に落ちない表情をしているのを見てセフォネが補足する。
「……彼女が式までに覚えなければならないことは、皇子よりも多いのです。仕方ないでしょう」
昼も会えない、夜も会えない。――そんなのはごめんだった。それでは何のための結婚か分からない。
「いや、それなら僕の方から行く。部屋で待つよ」
セフォネはとんでもないというように顔を強張らせ止めたけれど、僕が準備をして部屋の外で待つと、諦めたように僕を案内し出した。
スピカが正式に妃となったとしても、正妃に収まるまでは外宮暮らしとなる。僕の母も、そして義母もそうだった。正妃――この国では、皇嗣を継ぐものを産んだ女性のことだ。母は僕を産んだことでその権利を得、その後父の独断で正妃の地位を与えられた。そして……義母は母を亡き者にして、その地位を手に入れた。幼い僕を殺す方がよっぽど簡単だったろうに――母を殺したところに、彼女の妄執の影が見て取れる。
幸い僕にはまだスピカ以外に妃が居ない。そしてこれからも新たに迎える事は無い。だからスピカがそんな目に遭うとは思えないけれど、このジョイア宮はそういうところなのだ。肝に命じる必要はあった。
僕は一つため息をつく。そして辺りを見回した。外宮は石造りの本宮とは違い、全て木造。水の豊かなジョイア国内では良質な木材が採れる。それをふんだんに使った宮だった。所々に使われた、上質な檜の香りが荒みかけた心を和ませてくれる。この場所の役割を考えるに、何よりも安らぎに重きを置いているのだろう。
――まだ着かないのかな。早く会いたいんだけどな。
はやる心を抑える。外宮と言っても、それは名前だけ。長い渡り廊下によって本宮とつながっているので、僕の部屋から歩いてすぐのはずだった。
しかし――
いくつ、部屋を数えただろう……。
長い渡り廊下を渡りきり、城門が見えると、右側の外宮に入る。僕は外宮には詳しくなかったため、彼女の部屋を覚えておきたくて、同じような扉をずっと数え続けていた。
城門前の近衛詰め所を遮って、いくつか角を曲がり、僕が九つの扉を数え終えたころ、ようやく一つの部屋の前にたどり着いた。
すでに僕は湯冷めしそうになっていた。春とは言っても、まだまだ夜はひどく冷える。僕はすぐに部屋に入れると思っていたので、薄着のまま出てきてしまっていた。
「……遠すぎないか?」
ひとつくしゃみをして、僕は文句を言う。
これでは簡単に通えないし、スピカが本宮に来るのもいちいち大変だ。湯浴みの後、こんな風に長く歩けば、彼女が風邪を引いてしまう。
「本宮から近い部屋はすべて埋まっておりまして」
「空ければいいじゃないか」
というか、空けるべきだろう。
「そうは言われましても……せっかくご用意しましたのに。引越しには時間がかかります」
セフォネは交渉する気さえなさそうだ。
父が言っていたのは、こういうことか。
……スピカに対する嫌がらせのつもりなのだろう。彼女の態度からも、徹底してる感じがした。
しかし……これは。はっきり言って、今は僕に対する嫌がらせとしか思えない。――寒い。
セフォネは部屋の戸を軽く叩くと、扉を部屋の内側に向かって大きく開く。窓の格子に分断された月明かりが床の敷物を柔らかく照らしている。
部屋の中は暗く冷えきっていた。
「どうぞ。明け方にお迎えに参ります」
セフォネは無表情のまま暖炉に火を入れると、扉を閉めて出て行った。
僕は暖炉の側にあった長椅子に腰掛けため息をつく。
なんだか……今日は疲れた。
スピカに会えないのがかなり堪えていた。たった一日なのに、ずいぶん長い間会っていないような気がする。
――これからずっとこうなんだろうか。
夜一緒に過ごすだけ。疲れ切った身体を寄り添わせて、床を共にするだけ。
そんなの僕が求めてるものとは違った。僕の求めているのは、スピカに再会してから半年の生活。振り向けばすぐそこに彼女の笑顔がある日々だった。
こんな闇の中では、彼女が笑っているのかもきっと分からない。
立て付けの悪い窓のせいか、すきま風が足を冷やした。暖炉の火は膨らまない。微かに煙が上がり、嫌な臭いがする。薪が古いのかもしれなかった。おかげで部屋は少しも暖まらず、僕は寒さに耐えかね寝台に潜り込む。
埃っぽい毛布に包まる。微かなかび臭さ。前もって日干しもされていないのか。それだけでスピカへの扱いが窺えた。
柔らかさだけは十分の枕に顔を埋めて、ふと思い出す。
……枕にされてたよな、たしか。
スピカと出逢った頃を思い出して、笑みがこぼれる。
僕は始終彼女に振り回されていて、でもそのお陰でいろんな辛いことを忘れていられた。
あの時は、こんなことになるとは思いもしなかったけど――今は僕の方が彼女を枕にして眠りたい。
何も考えずに、面倒なことを忘れて、あの柔らかい体を抱きしめたかった。