序章 ひとときの平和
嘘だろう……。
僕は目の前の光景を呆然と見ていた。
信じられなかった。
まさか、こんな。こんなことって。
月光に照らされる白い白い手の中で、赤黒い液体にまみれたナイフが鈍く光る。
ムッとするような血の匂いが充満する部屋で、赤黒い海の中に倒れる、その少女は――――
*****
馬車の窓を開けると、地面を横たわる雪に冷やされた風が細く吹き込んだ。
「――寒いな」
僕は、襟元まで毛布を持ち上げながら、外の景色を眺める。
季節は春に移り変わりつつあったが、まだまだ目に飛び込んでくる色は半分以上が白かった。それでも都――シープシャンクスが近づくにつれ、雪の量は減って来ていた。時折、雪の中から緑色の芽がひょっこりと頭を出し、そこだけ空気の色を柔らかく変えていた。
春の足音を感じつつ、僕はこれから都で僕たちを待ち受けているだろう、様々なことに思いを馳せていた。
僕の暗殺未遂に始まった色々な事件は一応終息したかに見えていた。あくまで一応なのは、まだ未解決である、大きな問題が残っているからだった。
その一つであり、問題の大部分であるそれは――隣で僕に凭れ掛かってうとうとと眠る、手に入れたばかりの僕の大事な妃――スピカだ。寝息が服の隙間から忍び込んで腕に触れ、くすぐったい。金色の髪が一房僕の肩にかかっている。僕は、その髪をそっとつまみ、小さくため息をついた。
春の訪れと同時に行われる、僕の立太子とスピカの妃としてのお披露目まで、あと二週間もない。
ジョイアの歴代の妃、そのお披露目の衣装はあらかじめ決まっている。シンプルな絹の白いドレス。そして他に身を飾る物は真珠を細かく繋ぎ合わせた小冠のみ。髪も妃を飾る装飾品のひとつと考えられていて、必要以上に装飾品を着けないのだ。宮に飾られている妃――僕の母を含め――の肖像は皆、同じ物を身につけていた。そして型が同じだからこそ、それぞれの魅力が際立たって見えていた。
スピカの髪は、光の中で蜂蜜を垂らしたような色合いで、とても綺麗だ。金糸よりも僅かに淡くその分儚げだけれど、真珠の粉を溶かし込んだようなその色はすごく彼女に似合っていて、気に入っていた。
ただ、どうしても長さが足りなかった。
彼女の髪は、まだ背中の中程にようやく届くくらいで、女性は髪を腰の下まで伸ばすのが普通のこの国では、異様な短さに見えた。
彼女が髪を切ったのは僕のためだ。命を狙われ宮を追われた僕を助けるため、彼女は騎士になろうとして、性別を偽った。そのために邪魔だった髪を肩までバッサリと切っていた。
そして僕は彼女や彼女の父レグルス、それに僕の叔母ヴェガの支えのお陰で、僕の暗殺をたくらんだ犯人を見つけ、宮での安全を確保して、無事に皇太子として宮に戻ることが出来たのだった。
スピカは不思議な力を持っていた。触れることで人や物の記憶を読むことが出来る能力だ。
その力を使い、僕のために必死になってくれるスピカに、僕はいつの間にか心を奪われていて――彼女を妃にすると決めた。
そして、成人の儀で僕は彼女を妃にした。そうして彼女のすべてを手に入れたはずだった。
しかし、その翌日、その力を狙われた彼女は隣国アウストラリスの王子――ルティに連れ去られたのだった。
僕は、レグルスと共に隣国までスピカを取り返しに行った。そして――本当に色々あったけれど――なんとか彼女を奪還することが出来たのだ。
その際にスピカは手にひどい怪我をし、傷を癒すため故郷であるツクルトゥルスで療養していた。
その間ひと月ほど。ようやく傷も塞がり、立太子の日も迫ったため、僕たちはこうして今、都へと戻っていた。
僕は彼女の髪を指に絡める。そして指の腹でそっと撫でる。作り物ではないその滑らかさを心地よく感じながらも、その不安定な短さに心が重くなるのを止められなかった。
以前短い髪をごまかすためにつけていた髢は、その間の騒動中に紛失してしまっていた。それどころではなかったのだが、本当にうっかりしていた。あれだけの綺麗な髪の色の髢など、手に入るわけがない。何としてでも見つける必要があった。
まだ、それでも、髪はなんとかごまかせるかもしれない。纏めるなり、髪型を工夫すれば、なんとか。
でも、そうはいかない問題がまだいくつか残っていた。
――スピカの身分だ。
彼女の母は、隣国では王家の信頼も厚く、名も力もある貴族、シトゥラ家直系の娘だ。その身分があればジョイアとの政略結婚さえ可能な――情勢に大きく左右はされるけれど――身分を持っていた。
しかし、彼女の母は彼らと縁を切って、平民のレグルスと結婚した。そしてスピカを産んだ後無くなり、シトゥラとの縁は途絶えたまま。そのため、スピカは妃であれば、通常あるべき家からの援助をまったく受けることが出来ないのだ。
宮での権力というのは、結局のところ、実家の力しだいだ。家の持つ力が大きいからこそ、宮でも力を得ることが出来る。
そうなると、彼女が僕の妃になったとしても、扱いは側室――ひどければ愛妾だ。周囲は、僕に正妃を娶れと言い続けるだろう。
でも、僕はスピカを正妃にするつもりだった。
彼女の他に妃なんか要らなかった。しかし……その意見がすんなりと通るとは、いくら甘い僕でも思えない。
ひとまず目に見えている僕とスピカの間に立ちふさがる壁は、その二つだったけれど、他にも色々と問題は潜んでいた。
僕は遠く国境の山並みを見つめる。空に突き刺さる鋭い山の山頂はまだ大部分が白く雪に覆われていた。その向こうに広がる枯れた大地を思い浮かべて、何度目か分からないため息をつく。
――ルティは、シトゥラは、本当にスピカを諦めたのかな……
なにしろ10年ジョイアに潜伏してまで、手に入れようとした宝だ。そう簡単に、諦めるとは思えなかった。
ツクルトゥルス出る少し前に、こっそりと耳に入れられた情報がある。――ルティが王位継承権を手に入れたと。
スピカが手のうちになくとも、彼は他の手腕を発揮したのだろう。しかし彼が妃を迎えたという話は聞こえて来なかった。
それが、彼がまだスピカを諦めていないという意思表示に思えて、ひどく気味が悪かった。
――それから。
「皇子、スピカは私が預かります」
そう言う声と共に、毛布がめくられて、僕に凭れ掛かっていたスピカの頭が離れる。
「このままでいいのに……」
僕が恨みがましい目で睨むその相手は、……レグルスだ。
スピカを抱え、前の座席に移動すると、隣に横にならせる。
確かに座席は広かったが、僕は、肩にかかる彼女の重みが心地よかったのだ。それに、二人で毛布を被っていたので、とても暖かかった。
少し動けば触れそうな場所に、その果実のような唇があって、僕はそれに見とれながら考え事をしていたのだった。
「……なんでこんな時間にスピカは居眠りをしてるんでしょうね」
冷たい声が響き、ぎくりとしたが、僕は素知らぬ振りをする。
「さあ」
実は、僕も特殊な力を持っていて、それはスピカの力と相反する闇の力なのだ。これが厄介な力で、なんというか、人のこころをひどく惑わすらしい。
普段は、鏡を使って自分に暗示をかけて力を抑えるのだけれど、……鏡を宮に忘れて来た、というかそれどころじゃなかったんだけれど、そのせいでこのところその力が暴走気味だった。
兵士が変な色目を使うな……と思っていたら、それが原因だった。
そのため、僕は宮に戻る前にと、急遽裏技を使った。
僕の力は、スピカの力で中和できる。
彼女の力は光の力。僕の力が何もかもを引き込む力だとすると、彼女の力は、周囲に向かって発散する力だった。彼女の力を自分に取り込むことで、僕の状態が安定するのだ――と叔母が言っていた。
ただ、僕が力を貰いすぎると……スピカは力を使いすぎて、急激に眠くなるらしい。
力の移動は、触れ合うことで行う。先ほど僕は、レグルスたちの隙を見て彼女にくちづけをしていたのだった。
でも、そのことで文句を言われる筋合いはもう無いはずだった。だいたい、なんでびくびくしなきゃいけないのか分からない。スピカは、もう、僕の妃なのに。
「いい加減に諦めなさいよ……いい大人なんだから、もう子離れしないと」
僕の心の声を聞き取ったかのように、しっとりと落ち着いた声が、後ろから聞こえる。
馬車の座席は横三列に座席が備え付けてあり、前からレグルス、僕とスピカ、そして僕の叔母のヴェガの順に座っていた。
「そうはいきません。まだお披露目もしていないんですから。白昼堂々、手を出されたら親として立場が無いでしょう」
……どうやら、見られていたらしい……。誰もいないと思ったのに、一体どこに潜んでたんだ。
「でもねえ……実質もう――」
「叔母さま」
僕は慌てて後ろを振り返って叔母を睨み、その言葉を遮る。
火に油を注ぐような発言は止めて欲しい。
叔母の目が笑っている。あきらかにレグルスと僕のやり取りを面白がっていた。
そう。最後にして最大の難関は、このレグルスかもしれなかった。彼は、僕のことをまだ完全には認めていない。それも仕方が無いことだと思う。スピカが誘拐されたり、怪我をしたりしたのは、僕の甘さのせいなのだから。
スピカを妃にしたその日、彼女に関する全ての記憶を失った。僕は、スピカの力を甘く見すぎていた。まさか本当に忘れてしまうとは、誰も思っていなかったと思うけれど、僕ほど驚いた人間もいなかっただろう。
記憶を失ったことで、かなり無神経な発言をしたし、そういう態度もとった。恋敵だったルティに拐されたと知っても、冷静でいられたくらいに。
今の僕だと、もしかしたら兵を挙げていたかもしれない。あの時の僕を思い返すと、自分で自分を殴りたくなるくらいだ。
僕がそう思うくらいなのだ。スピカを目の中に入れても痛くないくらいに可愛がっているレグルスが、僕にどういう感情を抱いているかくらい、いくら僕が鈍くても分かる。
僕がスピカを幸せに出来ないと、今度彼がそう思ったら最後だ。僕は……二度とそんな風に、彼に思われたくない。
――皆に僕たちのことを、祝福してもらいたかった。
「ねえ、ところで、あなた少しは新婚旅行を楽しめたわけ?」
叔母がレグルスに聞こえないくらいの小さな声で、僕に話しかける。
「はあ? ……新婚旅行?」
この誘拐から怪我療養のドタバタした旅のことをそう言ってしまうところが、叔母なのかもしれない。多少げんなりしながら振り返ると、叔母はにやにやとした笑みを浮かべていた。彼女はどうも他人の色事をおもしろがる傾向がある。のらりくらりと避けていたけれど――僕の口からそれを聞くのを諦めるつもりも無いらしい。
「最初一月はそれどころじゃなかったでしょうけど、スピカの傷が治ったのなら……」
「……」
僕は大きくため息をつく。
確かに、スピカの傷が治ってから、しばらく時が経っていた。その間……どれだけ、そうしたいと思ったことか。
でも、その手の真っ白な包帯を見ると、なんだか手を出せなかった。
そう言うと、叔母もしゅんとして、まとう雰囲気を一瞬陰らせた。
「あら……それは、勿体なかったわねえ。せっかくだから、二人の思い出の地で盛り上がって……子の一人や二人」
「おばさま!」
まずい。この人を暴走させるとろくなことが無い。
僕は前の席のレグルスを気にして、再び叔母の言葉を遮る。
叔母は気分が盛り上がって来たところを中断されて不満そうだが、やがて声の潜めて再び話し出した。
「スピカ、寂しそうだったわよ。それにいろいろ気にしてたみたい、多分……ルティのことで」
僕が顔を曇らせると、叔母は大きくため息をつく。
「不可抗力だったのよ。……スピカは、あなたが、責めてるんじゃないかって……そう思ってる」
「そんなこと」
責めるわけが無い。
ただ、……聞けないだけなんだ。怖くて。
彼女が攫われていた、あの空白の時間に、いったい何があったのか。僕が見た、あれ以上のことは無かったのか。
何も無かったと、そう聞いて安心したい。でも、もしも――。
彼女に触れることで、僕のそんな想いが伝わるのが、嫌だった。僕は彼女を疑っている事を知られたくなかった。
なんて……身勝手なんだろう。スピカは、僕の過去を知っていても、それについて何も言わないのに。彼女と同じように全て包み込めればいいのに、今の僕にはそれが出来そうには無い。
「忘れなさい」
顔を上げると、叔母が真剣な顔をして僕を見ていた。
「でも」
「あなたが自分を責める気持ちは分かる。でも、それによって、二人の関係に溝が出来るのなら……いっそ忘れた方があなたたちのためよ」
叔母は、そこで言葉を切ると、ふと語調を和らげて言った。
「それにね、スピカ、もうあなたの心を読まないって決めてるみたい。あなただけじゃなくって、他の人の心も」
「え、なんで?」
僕は驚く。彼女は僕にはそんなこと一言も言っていなかった。
「もともとスピカだって読みたくなかったのよ? 制御できるようになったこと、あの子はとても喜んでいるの。だから、〈あなたが心配してるようなこと〉は、きっと起こらない」
叔母には敵わない。僕たちのことなんて何でもお見通しらしい。
――そうか。もう読まないのか。
あのスピカがそう言うのなら、本当にそうなんだろう。
ホッとしたような、寂しいような。
……もう読まれて困るようなことは何も無いと思っていた。むしろ、僕の気持ちが全部伝わればいいのにって、そう思っていたのに。
でも、今僕が考えてるようなことは……きっとスピカを傷つける。僕はもう彼女には、たとえどんな小さな傷でもつけたくなかったのだ。