第9話―3 皇太子の立場
幸い、僕らの乗ってきた馬は、きちんと厩で世話をされていて、僕とレグルスは騒ぎをまだ知らない、寝ぼけ眼の厩番を脅して、馬に跨った。
僕らはまだ雪の上に馬蹄の跡の残るその道を、寝る間を惜しんで必死で駆けた。凍った雪の上を馬の足がザクリと音を立てる。辺りにはその音だけしか響かず、あとは耳のつんと痛むような静寂のみが広がっている。
吐く息が身体から離れると共に凍り付いて地面へと落ちていく。耳たぶは既に感覚を持たなかった。
それでも、寒さなんか感じなかった。
レグルスは、道中、僕の記憶について、何も触れなかった。
僕の様子が変わったことで察したらしい。
彼の雰囲気が微かだが変わったことで、僕にはそれが分かった。
さすがに何か言いたげな顔をしていたが、今はそれどころではないと思ったようだった。
――何としても、王都に入る前に取り戻さないと。
僕も、レグルスも必死だった。
「都までは随分距離があります。きっとどこかで休んでいるはずです。足跡を追いましょう」
レグルスがそう言って、僕たちは、数頭の馬が駆けていったと見られる足跡を追っていく。
アウストラリスは、ジョイアと違い乾燥しているせいか、木々も少なく、かなり見晴らしは良い。
僕は目を凝らし、星明かりに微かに見える紺色の地平線をじっと見つめた。
行けども行けども、人の影は見つからなかった。
東の空が白々と明るくなる頃、僕たちは足跡の歩幅が急に小さくなっているのを見つけた。
「どうやら、この辺のようですね。……まだ居るといいのですが」
レグルスが馬から降りて、足跡を調べる。
「……この先に泉があるはずです」
確かに、急に雪の間から枯れ草が見えるようになっている。近くに水場があることが予想できた。
馬を定期的に休ませなければ、長距離の移動は不可能だ。
おそらくこの辺で休憩をしているはずだった。僕ならきっとここで休む。
僕らは馬を引いて、足跡を慎重に追っていく。
ふいに古い建物が木々の間から現れ、視界に入ってきた。
馬が五頭。近くの木につながれている。
――ここだ。
僕が近寄ろうと足を出すと、レグルスが僕の腕を掴んでそれを止めた。
「誰か来ます」
僕たちは、慌てて近くの低い茂みの中にかがみ込んで隠れた。
「あの王子も、考えることよく分からないよなあ」
「そうだな、あれだけご執心で攫って来ている割に……少し泣かれたくらいで」
「泣いてる女の子というのは、ソソルもんだけどな……強引に連れてきてるんだから、ちょっとくらい泣かれてもやればいいのに」
「お前なんかと王子の趣味を一緒にするなよな。高貴なお方の趣味は俺たち下っ端にゃ分かんねえって」
二人の男たちは下品に笑いながら、僕たちの前を横切り、低い木々の向こうに見える泉の方へ向かって歩いて行った。
――スピカが泣いてる。
彼女の泣き顔を思い浮かべて、僕はどうしようもなく胸が苦しくなる。
飛び出していって、ルティを締め上げたかった。
「間に合ったみたいですね」
憤る僕の隣で、レグルスが幾分か安心した声を上げた。
「間に合った……?」
僕は怪訝に思い、レグルスを見上げる。
「今の会話聞いてなかったんですか? ルティはまだスピカに手を出してませんよ、今のところは」
僕は頭に血が上っているせいか、彼らの会話の一部しか聞き取れていなかった。
思い出すと、………確かに、そうとれる。しかし、今もそうだとは限らなかったし、彼女が泣くようなことをしているということに変わりはない。
「早く助けないと」
「馬の数から……おそらく今の男たちを除けば残りは……二人。ルティを含めれば三人ですね……二人以上乗っていなければですが……。見張り二人は私がなんとかできるでしょう……。しかし……」
「ルティか……」
僕は剣術大会のルティとレグルスの試合を思い出した。
確かに……あいつは半端なく剣の腕が立つ。まともにやっては勝ち目がなさそうだった。
……それでも、今回に限っては怯んではいられなかった。
僕はぐっと拳を握りしめる。それをレグルスがめざとく見咎める。
「皇子……間違っても刺し違えようなんて考えないで下さいよ。あなたのお命は……ジョイアにとっては、スピカと比べ物にならないくらいに重たいのですから」
ぎくりとした。
まさか、あれだけ娘を大事にしている彼の口から、そんな言葉が出ようとは思わなかったのだ。
「僕にとっては……僕の命よりも、スピカの方が大事だ」
「……父親としては、嬉しい台詞ですけれど、臣下としては頂けません。あなたに何かあれば……国を巻き込んだ騒動になるのですから。もしあなたがそのおつもりなら――あなたを気絶させて、私一人で乗り込みます」
レグルスはひどく複雑そうな顔をして、僕を見つめた。
おそらく、彼は僕と同じ気持ちで居るのだろう。だけど、彼は、自分がスピカの父親であることよりも、僕の臣下であることを優先させ続けていた。僕がそうするくらいなら自分がそうする覚悟で居ることが、僕にも分かった。
……僕は約束できなかった。
ルティを前にして、冷静でいられる自信なんかもう無かったのだ。
今はそんなつもりが無くても、もし、今から目に入る光景が……とんでもないものであれば。――おそらく、自分を抑えることは無理だ。
僕が黙り込んでいるのを見て、レグルスは大きく息をつくと、困ったように言った。
「……分かっていますか? あなたがそんなことをしたら、誰が一番悲しむか」
頭の中にスピカの泣き顔が浮かび、――僕は仕方なく約束した。
「……分かってる。無茶はしない。出来る限り……誰も傷つかないように……努力する」
――そう、たとえそれがルティでも。そう思ったとたん、メイサの顔が浮かんだ。ルティが傷つけば悲しむ人がやはり居るのだ。
僕は、レグルスを見上げる。そして深く頷いた。