第9章―2 闇の中
僕は闇の中に一人取り残されていた。
必死で、腕を動かし、縄を解こうとするが、隙間なくしっかりと結わえられたそれは、びくともしない。やがて皮膚が破れ、血で縄が滑る。鋭い痛みに、細く息を吐く。
「まあったく………何してるのよ。……二人して悠長なんだから。びっくりしちゃう」
ふと声がしたかと思うと、暖炉からメイサが現れた。
その綺麗な顔が煤にまみれている。
彼女はハンカチを出すと、部屋の隅にあった水桶にそれを浸し、顔を軽く拭きながらこちらを見る。
僕はうつろな目を彼女に向けたが、すぐに顔をそらした。
「情けないと思ってるよ、自分でも」
メイサは、僕に近づくと、縄を解いてくれる。僕は自由になった強張った肩を回しながら立ち上がった。
「……声、丸聞こえだったんだけど……。私が隣に居ることすっかり忘れてたでしょう?」
メイサは僕の傷の手当をしてくれながら、少し赤くなった顔で、ぼそっとつぶやく。
「ほんっと、勘弁して欲しいわ」
ぎゅっと傷口を縛られたけれど、痛みではないもので呻く。
――うぅ……。
ど、どこからどこまで聞かれてたんだろう……。つまり、会話、だけじゃないってことだよな……
僕はあわあわと口を動かしたが、結局何も言えずに黙りこんだ。
「でもちょっと見直しちゃった。……本気なのね、彼女のこと」
僕は赤くなりつつも力強く頷く。
「――ああ」
「協力するわ。……ただ、準備があるから、少しだけ我慢してて。焦って無茶しないこと」
メイサは僕に計画を簡単に教えると、再び、暖炉をくぐって隣の部屋に戻っていった。
そうして少し後、隣の部屋から激しく扉を叩く音と、取り乱したようなメイサの声が聞こえてくる。
『ちょっと! いい加減ここから出して! あのガキ、まったくやる気無いんだから、もう無駄よ! まったく……あんな小娘のどこがいいのよっ!! 失礼しちゃう!』
ガキ……か。……どこまでが演技なんだろう……。
迫真の演技に、僕は思わず苦笑いをした。
隣の部屋の扉が開く音がする。メイサは無事に出してもらえたようだ。
どうやらルティとカーラが揉めているせいで、侍従の間でも混乱が起きているらしい。メイサのことなど構っている余裕が無いのだろう。
一緒に脱出したかった。……でも今飛び出せば、すぐに捕まるのは目に見えていた。
何も出来ない僕は、ただひたすらにスピカの無事を祈った。
……記憶を取り戻す前より、遥かに胸が苦しい。
相手はあのルティだ。手が早いのは十分に分かっている。それだけに、不安だった。
くそっ……こんなの、焦るなっていうのが無理だ!
僕は、扉に体当たりしたい衝動を必死で抑えていた。
どうして僕にはこんなに力が無いんだろう。
それなりに努力をしているつもりだったけれど、未だに、一人では何も出来ない。誰かの力を借りなければ、一歩も前に進めない。一人で何でもやってしまうルティとどれだけの違いだろう。
――好きな女の子一人守れないなんて。
今度のことだって、よくルティを観察していれば、防げたことだったはずだ。目先の欲にくらんで、大事なことを見落としていた。
これでは甘いと言われても、反論できない。
僕がこのままじゃ、スピカを正妃にしても、彼女を守り通すことなんかできない。
もう、ただ好きなだけじゃ、駄目なんだ。
僕は――もっと、強くなりたい。
*
数刻後だろうか。何かに呼ばれるように僕は目を開ける。眠っていたわけではなかったけれど、幻のルティと戦い疲れて、くたくたで、もう、時間の感覚がなかった。明かり取りの窓は未だ闇の色をしている。夜明けはまだのようだった。
暖炉の火を落としたままだったので、部屋は冷え切っていた。
僕は、かじかんだ指に息を当てて、待つ。
ただ、気配を逃さないように注意を払い続けた。
ふと、廊下に人の気配が一瞬増えたかと思うと、数人の気配が急に消えた。
――来た。
カチリ
扉の鍵が開く音がして、それは、ギギと重たい音を上げながら、開いた。
廊下の光が薄く差し込み、見慣れた影が部屋に落とされる。
「……レグルス。うまく脱け出せたんだ……よかった」
僕は心底安心した。彼の脱出が僕たちの脱出の鍵となっていたのだ。
レグルスが居れば、たいていのことは切り抜けられる確信があった。
メイサは無事にレグルスに脱出の方法を教えてくれたらしい。レグルスのいた部屋だけは、暖炉が地上へとつながっていた。メイサには無理だったけれど、腕力さえあれば、そこから脱け出せるかもしれないということだった。
レグルスは燭台に灯を灯す。
光の中に現れた彼は、煙突掃除を終えたかのように、真っ黒になっていた。
「皇子、これを」
彼は、その真っ黒になった顔でにやりと笑うと、僕の剣と弓矢を手渡した。僕は頷くと剣を腰に、弓矢を背に背負う。
二人で走り出すと、階段の上からメイサの鋭い声が聞こえる。
「はやく! 私が時間を稼ぐから。……王都の方向はここからまっすぐに南よ!」
僕たちは、急いで階段を駆け登ると、玄関とは反対方向にある小さな入り口をめがけて走った。
後ろでメイサが悲鳴を上げる。
『こんの、恥知らずが!』
――カーラ!
カーラはメイサの髪を強く引っ張って、彼女をののしっている。
『あの皇子に情でも移ったのかい!? 情けない! ――二度と表に出れなくしてやるよ!』
メイサのその赤い髪を、カーラは、手に持った短剣で今にも裁断しようとしていた。
僕が立ち止まりかけると、メイサはきっと僕を睨んで叫ぶ。
「私のことはかまわないから! ルティを止めて!」
僕は一瞬ためらったけれど、弓に矢を番え、一気に引き絞った。
狙いを定め、息を深く吐く。
――すべての元凶は、このシトゥラの血。
騒ぎを聞きつけた侍従達がこちらへ向かって走り出す。
「皇子!」
レグルスが咎めるように低く叫び、僕は矢を放った。
――ガシャン
大きな音を立てて、カーラのすぐ傍にあった花瓶が割れる。
カーラが驚いてメイサから手を離すのを見届けると、僕は一気に裏口へと走った。
――彼女も、被害者の一人だ。
僕には、あの人を傷つけることは出来なかった。……たとえそれが僕の甘さだと言われても。