第9章―1 記憶の中の少女
彼女の瞳の色を思い出したときに、僕は、頭の中に小さな風穴が開いた気がした。
その風穴は彼女に触れたとたん一気に広がって、僕の頭の中の霧を吹き飛ばしだした。
昨晩メイサの前では簡単に保てた理性も、その瞳の前には一瞬で吹き飛んでしまった。
体が求めるまま、夢中で口付けを交わすうちに、僕は、あの夜までのこと、あの夜のこと、全てを思い出していた。
――忘れていたなんて……信じられなかった。
こんなにも、こんなにも愛しい存在なのに。
あの夜、僕は、何度スピカと肌を重ねても、どうしても彼女を自分のものにしたと思えなかった。
腕の中に彼女が居るのに、それを嬉しく思う気持ちが、一瞬で風化してしまうのだ。
それが辛くて切なくて、僕は結局、明け方までスピカを眠らせることが出来なかった。
彼女は始終夢見心地で目を閉じていて、心がどこかに行っている様子で、僕はずっと不安だった。
おそらく、以前言っていた『僕になっていた』という状態だったのだと思う。
僕も最後のほうは、もう何がなんだか分からない状態になってしまっていた気がする。
結局、体力のほうが先に無くなってしまい、彼女を抱きしめたまま、眠りに落ちたのだ。
そして――――。
*
「なんでだろう……今度は、君をちゃんと手に入れた気がする」
僕は腕の中のスピカを見つめて呟く。
スピカは幸せそうに微笑んでいた。
「……あたし、さっきあなたの心、読めなかったの。自分の気持ちだけで心が一杯で……」
僕は驚いて目を見開いた。
「力、制御できるようになったの?」
スピカはちょっと首を傾げる。
「制御って言うのかしら……でも、あたし、『あたしのまま』だった。……だから、力のこと、忘れずに済んだの」
スピカは曖昧にそう言ったが、僕にもそれは分かった。
彼女は彼女のまま、僕の腕の中に居た。
――そして、僕は、もう何も忘れなかった。
「ごめん。君に辛い想いをさせて」
僕はスピカを抱きしめる。
「ううん。あたしが悪かったの。あたし、あの時はまだあなたのお妃になる資格がなかったのよ」
スピカは大きくため息をつく。
資格って――? 僕はその言葉に急に不安になった。恐る恐る尋ねる。
「どういうこと? ……僕のこと、好きじゃ無かったってこと?」
スピカは慌てて身じろぎした。
「違う、そうじゃないわ。……あたし、欲張りすぎてたの。いろんなこと」
「欲張る?」
「……あたし、最初はあなたの傍に居られればいいと思ってた。でも……だんだん、それだけでは耐えられなくなって……」
スピカは、少し恥ずかしそうに、僕の胸に顔を埋める。
「あなたの一番になりたかった……。あなたが、他のだれかを選ぶのが耐えられなかったの。……そんなこと我慢しなきゃだめなのに。あたしは……あなたの傍にいられること、それだけで喜ばなきゃいけなかったのに」
きっぱりとそう言われて、僕は、彼女に大事なことを言っていなかったことに初めて気がついた。あれ? 僕――もしかして……まだ言ってない! そうだ、あの夜言いたかったのに、それどころじゃなくなって……
慌てる僕の腕の中で、スピカは淡々と話し続ける。
「力のこと分かるまでは、あなたのお妃になんてなるべきじゃなかった。あの部屋に行ってはいけなかった。あの時は、やっぱり他の子に譲るべきだったんだわ。……でも我慢出来なかったの、どうしても」
彼女は、僕の胸に頬を寄せる。
「だから、……ごめんなさい」
消え入るような声で、彼女は呟く。
僕は、なんだかやりきれない気分になっていた。
どうしてスピカは、こうなんだ。あの夜のことだって、僕が強引に望んでしたことなのに。
それもこれも、全部、僕がはっきり言わないのがいけなかったんだけど……。
「君は、欲張りじゃない。僕だって同じことを君に望んでるのに……どうして君だけが、そんなに自分を責める必要があるんだよ。……僕は……」
スピカの頬にそっと手を当てると、その瞳を覗き込んで、僕は言った。
「君以外の誰も娶るつもりは無いんだ」
スピカは息を飲んで、僕を見つめる。
「で、でも、外交とか、お世継ぎとか、いろいろ……そ、それに正妃は迎えないといけないだろうし」
スピカはたじたじになって目を白黒させていた。あまり意味が通じていないらしい。
「まだ分からない? 僕は、君を正妃にするって言ってるんだ」
僕は少しだけ口調を強めて言った。
彼女は人形のように固まる。
「え……?」
「そりゃ、いろいろ大変だと思う。……周りを納得させなければいけないし……。でも、僕はもう決めてる。レグルスとも約束した」
そう言って、僕はふとレグルスのことを思い出し、背筋がゾクゾクとした。
スピカを思い出すと同時に、彼のスピカに対する執着も思い出したのだ。
………次に顔を見るのが、とても怖い。よく殺されなかったよな、僕。
そう思いつつも、僕は、もう一度、彼女の体を自分の体に引き寄せ、強く抱きしめた。そして、まだ固まっているスピカにしっかりと言い聞かせる。
「僕は、君以外と、こんなこと、したくない」
ふわりと、スピカの体から暖かいいい匂いがして、僕は心底ホッとした。
……帰るべき場所に帰ってきた気分だった。
僕は再びスピカが欲しくなって、半身を起こし、彼女に覆い被さろうとした。
「ちょ、シ、シリウス――?」
スピカの戸惑った声とともに、廊下がバタバタと慌ただしくなり、僕は、今の状況をやっと思い出した。
………夢中になりすぎて、状況をすっかり忘れていた。そうだ、ここは――敵陣!
天井から、誰かが怒鳴るような声が聞こえてくる。あ、この声は!
『あの、くそババアッ! おとなしくしてると思ったら、俺に黙って勝手なことしやがって……』
僕は急いで服を纏いながら、床に落ちていたスピカの服を彼女に渡した。
ドカドカと階段を駆け下りる音がしたかと思うと、扉が勢いよく開け放たれた。僕は慌てて背中にスピカを隠す。
「……いい度胸をしてるな」
彼は、僕たちを見ると、冷たくそう言った。
その茶色の目が刺すように僕を睨む。
「それはこっちの台詞だ。スピカは返してもらう、――ルティ」
僕も負けじと彼を睨み返す。
「丸腰で何を言っているんだか。今のお前に何が出来るって言うんだ?」
そこに居るルティは、王子だった。
明らかに以前とは別人だ。
上から人を見下ろすその態度は、そう簡単に身に付く物ではない。
「ここまで来たことは予想外だったな。でも……甘い。――スピカ。こいつの目の前でやられたく無かったら、早く服を着ろ」
スピカは、ルティを睨みながら、入り口に背を向けて手早く服を着た。
ルティが後ろの大柄な侍従に目配せすると、彼らは二人掛かりで僕を取り押さえる。
腕を後ろにねじり上げられ、僕は思わず呻く。
「やめて!」
スピカが悲鳴を上げる。
ルティは僕の横をすり抜けると、スピカの腕を掴み乱暴に引っ張る。
「………どうする気だ!」
「もう、ここには用はない。……予定外だが、訓練も終わったみたいだし。王都へ連れて行く」
ルティは不機嫌そうに横目で僕を見る。
「着いたら、すぐに正式に俺の妃として発表するつもりだ。……もう誰も手出しが出来ないようにね」
「嫌よ、絶対お断り!」
スピカは必死で腕を振り払おうとしている。
「君の意思は関係ないって、何度言えばいいのかな」
ルティは腕の中にスピカを抱え込むと、彼女の顔を覗き込むようにして言う。ルティがそのまま唇を寄せ、スピカはそれを嫌って顔を背ける。
「やめろ!!!!」
僕は奥歯を強く噛み締める。今すぐにでも奪い返したいのに、上からのしかかられて全く身動きできない。
「じゃあ、さようなら、皇子様。今度会う時は、正式に使者を出すよ。アウストラリス王子としてね」
彼はからかうような口調と冷たい笑みを残すと、スピカを連れて、部屋を出て行く。
「シリウス!!」
スピカが悲痛な叫びを上げ、その姿が扉から消える。
「くそ………っ」
侍従はスピカとルティの姿が消えると、僕を手放す代わりに、僕の腕を後ろ手に縛り上げた。
そうして、僕をベッドの柱に縛り付ける。
「皇子様とは知らず、無礼をして申し訳ありませんが、ついでにあと数日、ここで過ごしていただきます。王都に追いかけていかれては、我々が王子の不興を買いますので」
あまり申し訳ないとは思っていないような表情で、侍従は淡々と言ったかと思うと、僕を置いて部屋を出て行った。
扉が重たい音を立て、閉じた。