闇の眼 光の手

第一部 闇の皇子と世界の始まり

第6章―3 母の秘密

　――大きい。

　シトゥラの家は、アルフォンスス家よりもさらに大きく、この国ではかなりの力を持っているということが、その大きさから想像できた。

　全体を白い石で積み重ねられるようにして作られている、四角い建物。屋根は平らになっていて、少しだけ雪が積もっている。一体いくつ部屋があるんだろう。窓を数えてみるけれど、こちらから見えるだけでも十個以上あった。

　広い玄関を通り、家の中に通されると、すぐに湯浴みに連れて行かれた。

　確かに、この旅の間まったく湯を使っていなかったので、自分がかなり薄汚れているのは自覚できていて、多少ありがたくも感じた。

　しかし行き着いた場所はあたしが想像していたものとは全く違うものだった。風呂だというのに――水が無い。

「な、なに、ここ」

　薄い衣を羽織らされ、風呂に入るのに服を着るの？　と思っていると、奥の木で出来た小部屋に入れられた。

　部屋に入ったとたん、あたしは取り囲む熱気にむせる。

　あ、暑い!!　暑くて息も出来ない！

　何よ、これは！

　あたしが部屋から出ようとすると、ルティが入り口から入って来る。

「だめだろ、ちゃんと入らないと」

　彼はあたしが外に出るのを拒み、木製の椅子に座らせた。

「ルティ、息が出来ない……」

　あたしは弱音を吐く。話をするのも苦痛だった。

「しばらくすれば慣れる。下を向いておけ」

　そう言うと、彼はあたしの向かい側の椅子に腰掛け、腕を組むと目を閉じた。

　あたしは言われた通りに下を向くと、手を握りしめて、静かに呼吸をする。口や鼻から流れ込む空気が熱くて、喉が焼けそうだった。

　でも、しばらくすると、言われた通りにそれにも慣れた。急に汗が噴き出してきて、あっという間に全身がびしょびしょになる。

　額からぽとぽとと汗が落ち、濡れて束になった髪を汗の雫が伝って小さな川を作る。

　体の汚れが汗と一緒に流れて行く感じがして、あたしは驚いた。

　これ……けっこう気持ちがいいかも……。

　ふと目の前のルティを見ると、彼もあたしの方を見ていた。いつもは鋭い光をたたえているその目は、少し嬉しそうに緩み、口元は甘く綻んでいる。

　彼も汗びっしょりになっていて、その衣が均整のとれた体に張り付いて腕や胸のラインが浮き出ていた。

　彫刻のような美しさにあたしはそれに釘付けになり、次の瞬間はっとした。

　あわてて自分の体を見下ろす。

　――は、張り付いてる!!

　しっかりと胸のラインが透けて浮き出ていて、あたしは慌ててそれを腕で隠すと、立ち上がり、外に出ようとした。

「あ――」

　急に動いたため、目が回った。足の力が抜け、その場にしゃがみ込む。

　ルティはあたしを横抱きに抱きかかえると、小部屋を出て、床にあたしを横たえた。

　そして侍女を呼んでいる間に、あたしに水を飲ませる。

　彼の湿った唇が何度も何度もあたしの唇に触れ、ぬるい水が口の中を流れる。

　水を飲ませ終わったと思ったら、彼の手があたしの衣を剥いでいく。唇から唇が離れ、首筋を伝い降りて行くと、体の上を這っていった。

　あたしは抵抗しなかった。ただ天井を見つめ、そこに刻まれる模様の数を淡々と数えた。

　何も感じない。なんだか、もう、どうでもいい。シリウスに忘れられた時から、あたしの心はもう完全に麻痺しているようだった。

「……つまらないな。まるで人形だ。さっきみたいに抵抗されてる方がまだずっと良かった」

　ルティは心底興ざめした様子でそう呟きながら、あたしから離れた。

　そうして、彼はあたしをそのまま置き去りに部屋を出て行く。かと思うと、入れ替わりで侍女が入ってきた。どうやら外で待機していたらしい。

　年配の女性で、ルティと同じような赤い髪をしていた。かなり髪には白い物が混じっている。

　表情は読めず、ただ無言で淡々と、全身に水をかけては、丁寧に汗を流していった。

　あたしは誰かと話をする気分ではなかったので、その方がありがたかった。

　大分身体が冷えて、ようやくめまいも治まる。あたしは用意された服を着せてもらうと彼女に部屋まで案内してもらった。

　上品な部屋だった。

　どこか懐かしい感じがして、あたしは部屋の中を観察する。

　明かり採りの窓が壁の上部と下部にあり、珍しく、窓に硝子（ガラス）が使われていた。おかげで部屋はかなり明るく感じた。

　硝子はジョイアでは珍しいものだ。アウストラリスでは、よく生産されているのかもしれない。

　あたしは、その硝子に何気なく手を触れて、はっとする。

　この部屋は……。

　意識を集中すると、赤い髪の少女が見えた。

　――母さんだ。

　自分の覚えている母よりはずいぶん若かったけれど、それは確かに母の顔をしていた。

　あたしが触っている狭い窓から男が入ってくる。よく見るとまだ若い。幼いと言ってもいいかもしれないような顔立ち。母より歳が下に見える。15歳くらい？　あれ？　どこかで見たような――

　少年は母に向かって懇願する。

　――ラナ、他の男と寝るなんて、やめてくれ。

　母は寂しそうに微笑んでいた。

　――仕方ないの。産まれた時から決まっていた事なの。国のため、あなたのためのことなのよ。――知っているでしょう？　そうしないと、あなたの記憶、消えてしまうのよ？

　――かまわない。

　――もう、行かないと。話は、また帰って来てからよ。

　――駄目だ！　絶対に行かせない。お前は、俺のものだ！　ラナ――

　少年は母を抱きしめると、ベッドに押し倒す。

　あたしは、さすがに続きを見てはいけないと思い、硝子から手を離した。

　――まるで、あたしとシリウスのようだった。

　多分……あの男の子は、記憶を失ったのだろう、シリウスのように。

　母が、父と家庭を持ったという事は、おそらくその後うまく行かなかったに違いなかった。

　母もこの力のせいで、苦しんだんだわ……。

　でも……記憶の中の母は、父の隣で幸せそうだった。

　あたしもシリウスを忘れて、あんな風に笑える日が来るのかしら。

　あたしは大きくため息をつく。――今はとてもそんなこと考えられなかった。