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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第一部 闇の皇子と世界の始まり
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第6章―2 赤い誘惑

 馬車には沈黙が漂った。ルティは一人眠り込んでしまったのだ。ただし、あたしは変わらず彼の腕の中に捕われたままだった。

 あたしは続きが無い事にとりあえずホッとして、考えを巡らせる。

 逃げなければならない。この男は、いままでのルティとは違うのだ。先ほどまで信じられなかったけれど、ようやくそう思えた。


 怖くて目を瞑ると、シリウスの顔が浮かんだ。記憶の中の彼はあたしを真剣な瞳で見つめる。

 シリウスは助けにきてくれるかしら……。

 本当は来てくれると信じたかった。でも……彼の立場を考えると、来て欲しくなかった。一国の皇太子がする行動としては軽率だと思えるし、危険が大きすぎる。あたしのために彼が危険を冒すのは、嫌だった。

 ……王都……つまりエラセド……。なぜそんなところに行くのかは分からないけれど、そこに着くまでにはなんとしても逃げないと。

 このままルティのものになんかはなりたくなかった。


 *


 ムフリッドは、もともと降雪量が少ないのか、寒さの割に雪が少なかった。

 そう言えば、西の方は、雨が少ない土地だと聞いた事があったかも。

 山を越えてからはずいぶんと景色も違って、背の低い木々がまばらに生えている痩せた土地が広がっている。雪の中、所々覗く大地は薄い灰色をして、岩がごろごろと転がり荒れ果てている。どうやら農地にするにも厳しいようだった。

 馬車から降りて、あたしが興味深そうに景色を眺めていると、ルティが優しい表情で説明してくれる。

「アウストラリスは、国全体を山に囲まれていて雨が少なくてね。……その上、大きな川もない。水がとても貴重な土地なんだ」

 ジョイアとは大違いなんだわと、あたしは驚いた。ジョイアには大河があり、その上南端をミアー湖に接している。北の山脈には年中降水があり、溢れるほどの水に囲まれた豊かな土地だった。

 山脈一つで、こんなに気候や風土が違うとは。距離にして1日かそこらで、こんなに違うと面食らってしまう。

「だから、ジョイアは狙われる。この国はジョイアの水が欲しいんだ」

 なるほどと思い、ふとルティを見上げると、彼はあたしに向かってその茶色の目を細めて微笑んでいた。

 夕日に照らされて、彼の赤い髪が余計に赤く見えていた。額に落ちた影が彼の瞳の色を濃くして妙に艶やかに見えた。

 あたしはなぜか焦ってしまい、目をそらす。

 優しくされると、悪感情が持てなくなってしまう。自分を攫ったようなヤツなのに、悪く思えないなんて。

 いっそのこと、嫌いになれればいいのに。

 そうすれば、どんな手段を使ってでも逃げるのに……。


 絆されそうになっているのが嫌で、あたしは嫌う理由を求め、尋ねる。

「あんたは、なんで、シリウスを裏切ったの? いえ、シリウスだけじゃないわ、父さんやあたしも」

「裏切り? 人聞きの悪い。ちゃんと宣戦布告はしただろう? なのに油断してる方が悪い」

 宣戦布告?

 あたしが不思議そうにすると、彼は心外だと言わんばかりに、肩をすくめた。

「俺は、君を貰うって言ったじゃないか。……ほんとに誰も本気にしてないとはね。それまでの演技がうますぎたのかな」

 そういえば……。

「でも、あたし断ったつもりだったわ」

「君は何にも言わなかった。俺は断られた覚えは無いけど」

 確かに、そうかもと思い、あたしはため息をついた。それにしたって、あの状況で誰が断られていないと思うのだろう。

「……じゃあ、今断るわ」

「もう手遅れだ。ここはアウストラリスなんだ。だから、この国のやり方でやらせてもらう」

「この国のやり方?」

「欲しいものは力ずくで奪う。奪われるのは奪われたほうが悪いんだ。……もし、あの皇子様が奪い返しにくるんなら、受けて立ってやるよ。――まあ、そんな事は無いと思うけどね」

 あまりに自信たっぷりに言われたので、あたしは不思議に思った。

 あたしでさえ、その可能性を全く否定は出来なかったというのに。

「シリウスが来ないって……どういうこと?」

「……あいつ、君の事忘れてたよ」

 ルティの言った言葉に、あたしは頭が真っ白になった。

「え……?」

「君を見て、『あの娘、いったい誰なんだ』って言ってた。あんなにしっかりと忘れるなんて、予想してなかったけど」

「そんなの……嘘よ!!」

 思わずそう言ったけれど……あたしは妙に納得していた。

 そうなる事は、予想できていた。――だって、彼は、あのときずっとあたしの事を考え続けていたのだから。

 あたしにくちづけながら、あたしを抱きしめながら、あたしとの思い出をずっと思い浮かべていた。再会した時の事、一緒に過ごしたハリスでの日々に潜入作戦、后妃との対決、武芸大会。強引なキス、優しいキス、それから――プロポーズ。あたし達の間にあった事、――全部。

 その記憶を……奪ってしまったというの――――。


 シリウスがあたしを求めてくれていたから、あたしは彼の側に居れたのに。

 彼のその記憶が無いのなら、――もうあたしは彼には必要ない存在だ。……きっと助けにも来てくれない。

 あたしは、今の自分を支えてくれていたものが、脆くも崩れ去っていくのを感じた。

 ルティは、その茶色の目であたしを覗き込みながら、優しい口調で言う。

「君、一度、疑ってみたほうがいいんじゃないか、自分の気持ちを。――本当に、あいつでいいのか? あいつが一体君に何をしてくれた? 今までだって、辛いことのほうが多かっただろう? これからだって、君という存在を差し置いて、新しい妃をどんどん迎えるんだよ? 都合よく利用されてるだけなのをいい加減気づいたらどうだ」

 追い討ちをかけるようなその言葉に、あたしは、思わずムッとした。

 利用ですって――? 何も知らないくせに。分かったようなことを言わないで欲しかった。

「そんなことない! あたしは……知ってるもの。彼の気持ちを」

「『君が好きだ、君が欲しい』って?」

 あたしは頷く。あたしは、見たんだもの。彼の心を。

 ルティはそんなあたしを見つめ、にやりと笑う。

「そんなこと、どんな男だって思う。たとえどんな女の子が相手でもね。……君がとても美味しそうだったんだろう。……単なる側近にしておくのは誰でも惜しいと思う。単に女に飢えてたんだよ。食欲と一緒だ。お腹が空いてれば、目の前の食べ物を我慢できないからな。……その違いが分かるっていうのか? 君に」

「そんなこと……っ」

 あたしは、答えられなかった。

 だって、以前自分の想いと、彼の想いの違いに疑問を感じたことがあったから。

 胸を一突きされたようだった。一気に傷口が大きく開き、そこから真っ黒な嫌な感情が流れ込んでくる。

「あの様子じゃ、あいつ、たぶん君が初めてだったんだろう? 単に手っ取り早かったんじゃないの? 隠してたみたいだけど、かなり複雑なトラウマ抱えてたみたいだし。いざとなって手を出せなくなっても、君なら事情を知ってるから切り抜けられると思ったとか。――これから迎える妃を抱けるようになるために、君で練習したとかね。ちょうどいい駒だろう、平民出の幼馴染なんて。あとは適当に小金でも握らせておけばいいんだから。――ヤツ、君を正妃にしてくれるって約束でもしてくれたのか? しなかっただろう? 本気なら、そのくらいの約束しそうなもんだけどね」

「……」

「おや、さすがに、言い過ぎたかな」

 あたしは言われたことが胸に刺さり、その痛みを耐えるのに精一杯で、何も言えずに黙り込んだ。

 ルティのその言葉はあまりにも的を射ていた。

 有力な貴族の娘や、外国の姫を妃に迎えて、国を守って行く――、そういう立場にある彼のことを考えると、あたしの存在は害でしかない。

 シリウスが国のことを考えるのなら……あたしをそう利用しても文句は言えない。

 もともと、あたしは、利用されてもいいと彼にそう言っていたのだから……。

 そう考えると、今の状態は、彼にとって、国にとって最善なのかもしれなかった。

 そんなこと……信じたくなかった。シリウスのあの時の想いだけを信じたかった。

 けれど、ルティの言葉は、あたしのそんな気持ちを抉りとり、そこにしっかりとその疑いの種を蒔いてしまった。

 ――彼は、あたしじゃなくっても、よかったのかもしれない――

 その疑惑を取り除くのは……今のあたしにはもう無理だった。

 呆然とするあたしを哀れに思ったのか、ルティはあたしの頭にポンと手を乗せると自分に引き寄せた。

 あたしは体に力が入らず、引き寄せられるままに、ルティに寄りかかる。

「俺はあいつよりももっと君を大事にする。戻って辛い思いをするより、俺と一緒にいた方が幸せと思わない?」

 たった今つけられた傷口に甘い誘惑の言葉が染みわたっていく。

「俺は、君以外を娶ろうとは思っていない。これから一生君一人だと約束できる」

 ――だめ。その言葉は。……あたしは、シリウスにそう言って欲しかったのに――。

 でもシリウスが、そう言ってくれる日はもう来ない……。

 あたしは自分の心が壊れて行くのを感じた。

 それがルティの作戦だと思おうとしても、駄目だった。


 近づく彼の唇を、今のあたしはもう拒むことが出来なかった。


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