第6章―1 目覚めたらそこは
あたしは酷い振動と、寒さと、体の痛みに目を覚ました。
次第に焦点の合い出した目に赤い髪が映る。
……あれ?
「おや、やっと起きたか」
「る、ルティ?」
目の前の男は、なぜかルティだった。あたし、まだ夢でも見てる? でも、手先や足先の痺れるような冷えは耐えられないほどにひどい。思わず身を縮めて尋ねる。
「……ここどこ……? 寒い……」
「もうすぐムフリッドに着く。長い旅だったけど、もうちょっとの我慢だ」
「ムフリッド……」
ってどこだっけ。えっと、たしか、アウストラリスの……って、アウストラリス!? そう気がついて一気に目が覚めた。
なんで――あれ? あれあれ? 何か、変! だって、あたし――
「……シリウスはどこ……?」
首を動かそうとして、あたしは、自分が彼の膝の上で抱き抱えられている事に気がつく。その腕や胸の堅さを全身で感じて、かぁっと頭に血が上った。――うそ!
「ちょ、っと……離してよ!!」
力一杯彼の胸を押したつもりだったけれど、筋力が異常に衰えていたようで、彼の腕はぴくりとも動かない。
「寒いんだろ? 抱いててやるよ」
「いらないわ! それより、これはどういう事よ!」
あたしが睨むと、ルティはやれやれと言った感じで、少し腕を緩めた。
あたしは腕の中を抜け出すと、向かいの椅子に座る。
……どうやらここは馬車の中のようだった。粗末な木の椅子のせいで、振動が腰に響く。道理で身体が痛いはず。
目の前のルティは、いつもと様子が違った。口調も明らかに違うし、纏う雰囲気から今までに感じた軽さが感じられない。でも、それが全く不自然ではなかった。
ルティはあたしに微笑みかけると、言う。
「……君を攫ってきた。俺の花嫁にするためにね」
「は? 花嫁?」
また、そんな冗談を。
「あたし、シリウスの妃になったばっかりなんだけど……」
彼との夜の事をいろいろ思い出すと顔が一気に赤らんだ。何で分かり切った事を言わせるの、この男は。
「……俺の国ではね、力があれば、人のものでも奪って構わないんだ」
ルティは静かにそう言ったけれど、次の瞬間、眉を寄せ顔をしかめた。
「今回はちょっと不本意だった。ほんとは君がヤツのものになる前に奪いたかったけど。まあ、いろいろ事情があってね、ひと晩くらいなら仕方ないかと思って。どうせあんなお子様、すぐ忘れさせてやるつもりだし」
そう言うと、ルティはあたしの腕を掴んで、強引に引き寄せる。そして、あたしの顎を持ち上げると、一気に口づけてきた。
「――――!?」
あたしが歯を食いしばるのよりも一瞬早く、彼の指があたしの頬に食い込み、あたしは口を閉じられず、彼の侵入を許してしまった。
ねっとりと口の中をかき回され、それと同時に、慣れた手つきで胸の上を彼の大きな手が這う。おぞましさで全身に鳥肌が立つ。――やだ、触らないで!
顎を掴んでいた手が離れ、腰に廻される。
あたしは、その隙を見逃さず彼の唇を噛み切った。相手がこいつなら容赦なんかしないんだから!
「っつ……」
ルティはあたしから体を離して、口を抑えながらあたしを睨む。
茶色の瞳が一瞬怒りに燃えた。
あたしはルティを睨み返しながら唇を手の甲で拭った。
血の味が一気に口の中に広がり、同時に吐き気が上ってくる。
あたしは堪えられず、咳き込み、床にかがみ込む。
胃に何も入っていないせいで、吐いても、出てくるものは胃液だけだった。
これほどに、ちがうの……。
以前ルティに儀式の事を聞いたとき、他の男に触れられる事を大した事じゃ無いと思った。――そのときは本当に。
でも、触れるのがシリウスではないことが、こんなに嫌なんて思いもしなかった……。
ルティは黙ってそんなあたしを見つめていた。
いつの間にか、その目は穏やかな色に戻っていた。あたしはそれに力を得て頼み込む。
「……お願い。あたしをシリウスのところに帰して」
「君は、本当にシトゥラの娘か? ……そんなに一人の男に執着するなんて。……レグレスの血かな」
ルティはあたしの言葉には答えずに、不思議そうな声音でそう言った。
彼は、あたしを抱き起こすと、自分の隣に座らせ、毛布を羽織らせた。
「今から、ムフリッドのシトゥラ家に行く。そこで、祖母から力の制御を伝授してもらうから」
「え……?」
「君はまだ本当の意味で力を制御できるわけではない。当然方法を学ばないと使えるわけが無い」
「何? ひょっとして、儀式をしないといけないの……?」
あたしはさっきのおぞましい感覚を思い出し、ぞっとした。
「あれ? 前は平気だって言ってたじゃないか? さすがだって感心してたのに」
何も言えずに黙り込むと、ルティは少し微笑んで、あたしの頭を撫でる。
「儀式はしない。さすがに俺もそれは嫌だったんだ。君を必要以上に傷つけることになるからね。それよりはヤツ一人の方がマシだと思った。……君はあいつと寝たんだからもう『力の移動について』は必要ない。ただ、制御にもコツってものがあるから。それを教わりにね」
そこまで言うと、彼はごそごそと荷物を漁って林檎を取り出した。
「とりあえず、これを食べて胃をならせ。さっきみたいに吐かれたらたまらない」
どうやら、体調が悪くて吐いたと思い込んでいるらしい。
たぶんそんなのは理由ではない。この男は、自分が原因なんて少しも考えないようだった。おそらく女の子に拒まれた事も無いのだろう。
あたしがそんな事を考えながらじっとその林檎を見つめていると、ルティは少し微笑んで、それを一口かじった。馬車の中に瑞々しい甘い香りが漂う。
「安心しろ、毒は入っていない。……殺すために連れてきたんじゃないんだから」
あたしは、本気で空腹を感じていたので、とりあえず、それを頂く事にした。
長い間使っていなかったせいで顎が強張ってなかなか噛めなかったが、なんとか林檎を食べてしまう頃には、ようやく頭が働き出した。
「……ルティ、なんであたしを攫ったの?」
「さっき言ったろう。――君が好きだからって言っても納得できない?」
あたしは頷くと、言った。
「あたしの力が欲しかったから?」
思い当たるのはそれくらいだった。
「それもある。いろいろ話せば長くなる事情があるんだ。おいおい話してあげるよ。でも」
彼はそこで言葉を切ると、あたしの目を覗き込むようにして言う。
「君が好きだと言うのは本当だ」
「そんなの信じられない」
あたしは、本気でそう思った。あたしは、シリウスが他の子を抱くなんて考えると、本当に辛かったし、シリウスの方もそうだった。
けれど、目の前のルティは、あたしがシリウスの妃になったことを知っているというのに、そんな様子はほとんど感じられない。
目は穏やかだし、口には笑みさえ浮かべている。
「愛にもいろんな形があるってことだ。……ちょっとは悔しいけど、一度の過ちを許せないほど俺は狭量じゃない。君は、これからは俺のものだし、これからやり直せばいい」
「過ち!? 何言って――」
彼は、文句を言うあたしを引き寄せ、再びくちづけようとした。
「やめてよ! やだ!」
あたしは顔を背けてそれを避ける。
でも、そんな抵抗は無いも同然だった。ルティはあたしの頬に手をあて、強引に自分の方を向かせると、無理矢理口づけた。
かなり本気で抵抗したけれど、彼の腕は強く全く動くことが出来なかった。
しばらくそうした後、彼は満足そうに顔を離すと、あたしを見て微笑む。
今度は歯を食いしばっていたので、唇を押し付けられただけで済んだけれど、やっぱり不快感を拭えない。
こんな風にずっと捕われていたら……あたしはシリウスの唇の感触を忘れてしまうかもしれない。あの優しいキスを忘れてしまうかもしれない。――そんなの絶対嫌だ。
あたしは多分酷いしかめ面をしていたのだと思う。
ルティは仕方ないなと言う表情をして、あたしを見つめていた。
「……そのうち慣れて良くなってくるよ。人は順応する生き物だしね」
「――絶対、慣れない。順応なんてしないわ!」
反抗すると、彼はあたしをその腕の中に囲い、耳元に口付け、妖しく囁く。
「今は他にしなくてはならないことがあるし、しばらくは、俺もこれ以上は我慢するつもりだ。でも王都に着いたら……その時は君がいくら嫌がろうが、俺のものにする。怖がらなくていい。――君はすぐに俺に夢中になるに決まってるんだから」
彼はさらに首筋を唇でなぞった。その感覚にあたしは身体を固めた。こいつは――どうすれば女の子が喜ぶか、全部分かってる。――その事を嫌というほど感じて、ひどく怖かった。