第5章―4 記憶の断片
レグルスが準備を終え、僕を迎えにやってきた。
僕は身支度を整えると、父に手紙を書く。さすがに止められるのが分かっていたので、こっそりと出発するつもりだったのだ。
「すぐに戻るから」
そう言って叔母に手紙を託すと、僕は弓矢と剣を手に、部屋を出た。
――あの苦しさの原因を突き止めないと。
そのためには、あのスピカという少女にもう一度会わなければならない。僕は切実にそう感じていた。
昼間だというのに、外は薄暗かった。
西から厚い雲が流れてきている。
幸い雪は降っていなかったが、今夜にも吹雪くのではないかという空模様だった。
僕たちは馬に乗ると、ツクルトゥルスに向かって急いだ。相手は馬車だ。もしかしたら、途中で追いつけるかもしれない。
レグルスが荷物を乗せている間、僕は山頂の城を眺めた。以前城から逃げるときのことがふと思い浮かぶ。あの時は、ここに戻れないかもしれないって、そう思って――
余所見をしたせいで、馬の足並みが乱れ、僕は慌てて立て直す。
……前は、もっとずっと城を見ていたのに……。
目を瞑ると、そのときの情景がまなうらに浮かび、気がつく。
そうか、あの時は、誰かの肩越しに見たんだ……。
――華奢な肩のライン。夕日に照らされる山頂の城。
レグルスと二人で逃げたはずだったのに、こんな記憶が残っているなんて。これは、もしかして――
僕は、その記憶の断片を自分の心の中に焼き付けた。
馬を飛ばし、夕方にはメランボスの森の前の集落に到着した。
レグルスが、さっそく村の者にルティとスピカのことを聞き込んでいる。
目立つのはごめんだったので、僕は一足先に宿に向かう。馬から鞍をおろし、飼葉を与えているところに、レグルスが息を切らしてやってきた。
「それらしき男がここを通ったそうです。でも、昼頃の話で……馬を替えると、すぐに出発したらしいです」
「一人だったのかな?」
「さすがに馬車の中までは覗かなかったようで……でも、ルティ一人なら馬を使うでしょう。おそらく一緒だと思います」
「僕たちも先を急ごう」
レグルスは、息を吐くと弱々しく首を振った。
「嵐が来ます。今夜はここで宿を取りましょう」
「でも」
「だめです」
レグルスは辛そうに顔をしかめていた。
おそらく、彼一人だったら、無理をしてでもいくのだろう。僕が居るから、彼は立場を考えなければならない。その事が申し訳ない。
「僕は平気だ」
「だめです。ここから北は、ただでさえ雪が深いのです。この天候では命を取られます。ルティたちも、そんなに先には進めないでしょう。明日まで我慢して下さい。……スピカも命の心配は無いのですから」
そう、――奪われそうになっているのは、命ではない。
僕は、極力その事を考えないようにしていたけれど、夜が近づくとどうしてもそのことを考えずにはいられなかった。
レグルスも同じだったようだ。
彼らもどこかで宿を取っているかもしれない。そうして――
想像するとどうしても息が出来ないくらい苦しくなる。行き先も分からないのに駆け出したくなる。
……僕は、こんな気持ちは知らなかったはずなのに。
*
外はすでに吹雪いているようで、轟々と風の音だけが聞こえてくる。
その晩、僕は、どうしても眠ることが出来なかった。
僕は体の中の熱を持て余していた。無性に誰かを抱きしめて眠りたかった。
いっその事、外で頭を冷やそうかと思ったけれど、今外に出ると、確実に凍死しそうだった。
粗末な部屋の中、薄い布団にくるまって目を閉じる。瞼の裏に、ルティの笑い顔が浮かび上がる。腕の中にはあの少女がいて、目を閉じている。その顔は幸せそうだったり、悲しそうだったり、苦しそうだったり――少女はくるくると表情を変え、その度に僕の胸は引き裂かれ悲鳴を上げた。
いくら待っても眠りは訪れず、僕は闇の中の幻影と戦い続け疲れ果てる。
そして明け方、ようやく訪れた浅い眠りの中、夢を見た。
夢の訪れと同時に「ああ、またこの夢だ」と思った。
おそらく記憶を失う前に何度か見た夢。
ツクルトゥルスの広い草原の中、僕は幼いスーと遊んでいた。夏の太陽の下、腰まである金色の髪がまぶしく輝いている。少女は怒る。泣く、そして笑う。
彼女は広いその場所を踊るように駆けながら、少しずつ成長していく。手足はすらりと伸び、胸や腰が柔らかく優しい形に膨らむ。幼いスーは、いつの間にかあの美しい少女になっていた。
――ああ、あの子はやっぱりスーだったんだ。
僕はそれを見ていると、不思議と納得できた。
後ろ姿の彼女を抱きしめてこちらを向かせると、僕は彼女にくちづけをする。
いつもだったら、僕が唇を離すと、彼女は閉じていた目を開け、微笑むはずだった。
でも、彼女はいつまでたっても目を開けてくれなかった。
――ねえ、目を開けて、僕を見て。お願いだから……
僕は彼女に切実に訴える。
それでも彼女の目が開く事はなかった。
――僕は彼女の瞳の色を思い出せなかった。
起きた時、僕は全身に嫌な汗をかいていた。
思い出せそうなのに、思い出せない。記憶の引き出しの鍵を、僕は見つけられない。
頭痛がし始めていた。
僕は枕元の水を取ると、一気に飲み干した。
唇を触ると、なぜか柔らかい感触がよみがえってきた。同時に蜜のような甘い味も。――あれは、夢のはずなのに。
胸が締め付けられる。苦しくてたまらなかった。彼女を抱きしめたくてたまらなかった。
どうやら記憶をなくしても、僕の体はいろいろ覚えているようだった。
もう認めないわけにいかないのかもしれない。
僕は、彼女に恋をしていたんだ。
――そして、今もまだ。
明かり取りの窓からはほのかな光が差し込んでいた。風の音ももうしない。
僕は大きく息をつくと、ベッドを降り、身支度を整える。
――一刻も早く、彼女と僕の記憶を取り戻したかった。