第5章―3 悪戯
北風が離宮を囲む木々を揺らす中、雪の上に足跡を付けながら足を進める。誰も言葉を発せず、ただ踏み固められ軋む雪の音だけが辺りに漂う。
難しい顔をした一行を出迎えたミルザは、明らかに動揺していた。
「お、おにいさま? どうなさったの、こんな朝から」
彼女は髪をいじりながら、上目遣いに僕を見上げる。
彼女は、動揺すると、髪をいじる癖があった。この動揺の仕方は、――おかしい。
「お前に話がある。――僕の妃について、だ」
ミルザはあっという間に真っ青になると、がたがたと震えだした。
「ミルザ、お前、何を知っているんだ?」
「――わ、わたくし、な、何も知りませんわ!!!!」
まさかと思っていた僕は、ミルザの豹変振りに焦って、彼女の肩をつかむと、椅子に座らせた。
とにかく落ち着いてもらわないと、話を進められない。
「皇女様? あなたスピカについて何か心当たりがあるのではなくて?」
叔母がミルザの顔を覗き込んでたずねた。
ミルザは蒼くなったまま、顔をこわばらせて激しい口調で答えた。
「知りません。あの女がどこへ消えようと、わたくしには何の関係もありませんわ!」
「……なぜ、スピカが消えたと知っているのです? まだそんな話は一言も話していないのに」
レグルスが有無を言わせぬ迫力でミルザに問いかけた。
ミルザは失言に気が付き、呆然となる。
そうして、突然その見開いた青い目が涙で膨らんだ。
「お、おにいさまがいけないんですわ! わたくしよりあの人を選ぶから!!」
椅子から立ち上がると、発狂せんばかりの勢いで彼女は叫んだ。甲高い声が耳に刺さり、一瞬耳が遠くなる。
「そういうことですか。あなたはスピカが邪魔だった。だから、消したのですか?」
レグルスが怒りを隠せない様子で尋問を続ける。
「……そうよ。今度は間違いなくお兄様の前から消してくれるはず」
「『今度は』?」
じっと目を見つめると、ゆっくりと尋ねる。薮から飛び出した得体の知れないものを慎重に掴む。
「前は失敗してしまったから。……あの男、うまくやるって言ったのに」
ミルザは僕の目を避けると、爪をかみながら、不愉快そうにつぶやいた。
「どういうことですか?」
レグルスも怪訝そうに顔をしかめている。
「前、お母様の林檎を渡せば、あの娘を消してやるって。それで、言うとおりにしたのに」
「待ってくれ! 何だって!? お前が林檎を盗み出したって言うのか?」
僕は愕然とした。
あの僕の朝食に添えられた毒林檎。あれは……!
「それがどうかしたのです?」
ミルザは事の重大さを全く分かっていない様子で、きょとんとしていた。
確かに……ミルザには義母のやったことの詳細は伝えていなかったから、知らなくても仕方が無かった。でも、それが明らかになれば、彼女は罰を免れない。あいつは、あの男は、そこまで計算して――?
「それを頼んだ男というのは……ルティリクスね?」
僕とレグルスが顔を見合わせる中、叔母が静かに問うた。
ミルザは頷く。
幼い彼女は、もうごまかしきれないと思ったのだろう。
ちょっと嫌いな女に嫌な目にあって欲しくて、いたずらをしたくらいの気持ちなのかもしれなかった。
「お兄様が居ないときに、ミネラウバを通して知り合って。おにいさまに好きな女の子が出来たって教えてくれたのも、ルティだったわ。それがあのスピカだって言うのは、昨日初めて知ったけど。……彼、スピカのことを手に入れたいから、協力し合おうって。だから」
「だから?」
「城を抜け出す手引きと……、馬車を一台用意してあげたの。あと……山越えの装備も」
ミルザは僕たちの迫力に圧されたのか、後ろめたそうに俯く。
「馬車に、山越え」
「ムフリッドですね」
レグルスがつぶやく。
確かに、エラセドだと用意するのは船だろう。
「すぐに馬を用意してくれ」
僕がレグルスに頼むと、彼は頷いて駆けていった。
ミルザは不安そうに僕を見上げる。
「おにいさま、まさか……助けにいくおつもり? そんな………危険ですわ!」
「だって僕の妃だろう?」
僕が頷くと、ミルザはあからさまにがっかりした。
「隣国まで追いかけていくなんて……そんなに大事だったのですね……。わたくしてっきりすぐおにいさまが諦められるかと思ったのに。ルティも……そう言っていたのに」
僕は何も言えずに黙っていた。
今僕を動かしているのは、責任感とレグルスに対する申し訳なさだったからだ。彼がいなかったら、彼の娘でなかったら、ミルザが言うように諦めていたような気がする。
叔母が代わりにミルザに言い聞かせるように言った。
「皇女は……まだ恋をされていないからお分かりにならないのですわ。いつか、あなたも恋をすれば、シリウスの気持ちがお分かりになるでしょう」
叔母の言葉が僕の心にも響く。――恋、か。僕は、本当に恋をしていたのか? 心の中を探っても、そんな気持ちは欠片も見当たらなかった。
*
僕と叔母はとりあえず彼女の離宮を離れ、再び本宮の僕の部屋に戻った。
冷えきった身体を暖かいお茶で暖めながら息をつく。思った以上の収穫があったけれど……逆に、林檎の一件という、頭の痛い問題が発生してしまったし。とにかく、ルティに話を聞く必要があったので、彼女には口止めをしておくことにした。
「すべて計算づくだったみたいね。それに、この手際の良さ。かなり前から、計画していたんだわ」
叔母が悔しそうにつぶやく。
「おそらく、あなたが記憶を失う事も計算に入れていたのよ。だから直後に誘拐する事にしたんだわ。……となると、狙いはスピカの力ね」
「どういうこと?」
彼女の話が飲み込めず、戸惑った。
僕はその力に関することはまったく覚えていなかったので、叔母に再び説明してもらった。
「スピカは、力を制御するためには儀式をする事が必要だったの。でも、それ、けっこう大変な事みたいで……想像でしか無いけれど、かなりの労力がいるんだと思うわ。だから手っ取り早く力を制御させるために、あなたを利用したんだと思うの。あなたが闇の家の子だということは覚えてるわよね? 闇の家の者だと一晩肌を重ねれば、スピカの力の制御が可能になるってルティは言っていたから。……もしスピカだけが欲しいんだったら、まさか、あなたのものになるのを指をくわえて待ってるわけもないし」
僕は叔母の言う事をどこか他人事のように聞いていた。
話はだいたい分かるんだけど、やはり実感が無い。……僕は本当にそのスピカという娘を抱いたのだろうか。どうしてもしっくり来ない。だって僕は、よほどの事が無い限り、女の子に手を出そうなんて考えないはずなのだから。
叔母は僕の様子をもう気にする事も無く、話し続けた。
「でもねえ、気になるのが、昨日の一件よね。何のためにスピカが欲しいなんて言ったのかしら。勝ち目が無い事なんて一目瞭然だし、あんな風に攫うのなら、黙っていた方が賢明だったと思うのに」
叔母はまた考え込むと、ふと顔色を変えた。
「……もし、あれが本気だったとしたら……。力も、スピカも両方欲しいってことだとなると――いやだわ、こんな重要なこと、なんで思いつかなかったのかしら。普通、女の子を攫うって言ったら、そういうのが目的なのに」
僕が不思議そうに叔母を見ると、叔母は絞り出すような声で言った。
「スピカが、ルティの……妃にされるかもしれないわ」
それを聞いて、突然酷く胸が騒ぎ出した。急に息が苦しくなる。なぜかいても立ってもいられないような気持ちになってきて、僕は焦った。
――なんだよ、これは!
胸の痛みを抑えて、その想いの切れ端を掴もうとすると、酷い頭痛が始まる。それに伴い吐き気までしてきて、僕は胸を抑えたままかがみ込んだ。
「……いやだ……」
無意識に言葉が出てきて、僕はびっくりした。嫌って、一体何が! 自分に問うけれど、答えは出ない。
でも、それはどうも本心のようだった。
あの少女がルティの腕に抱かれているのを、そして、あの甘そうな唇が、ルティに奪われるのを想像すると、怒りと悲しみが混ざったようなどうしようもない想いが体の底から湧いてきた。
少女が可哀想とか、そういう他人行儀な感情じゃない、身を切られるような激情。こんなのは……おかしいって! そう頭では思うのに、どうしても沸き上がるものを抑えることが出来なかった。
まるで頭と心が切り離されているようだった。
ハンカチを渡されて初めて自分が泣いている事に気がつく。唇を噛み締めすぎて、血の味がした。
その自分の姿にさらに驚く。
――うそだろう? 泣くなんて……子供じゃあるまいし、どうかしてる。
叔母がそんな僕の背中をさすりながら、涙声で呟いた。
「やっぱり完全に忘れてるわけじゃないのね……。そうよね、あれだけ好きだったんだから。……早く、スピカを取り戻さないと……」