幕間 月が五回満ちるまで
后妃は、一命は取り留めたものの、意識を失ったままだった。
宮の奥深く日の当たらない部屋で眠る元正妃のその先行きは、もう決まったも同然だった。皇太子の暗殺未遂と前正妃の暗殺の容疑。調査が終わり次第、罪状が明らかにされるけれど、その容疑が確定すれば、それはどうあがいても重罪だった。重くて死罪、軽くても流罪だろう。
彼女の側近についても、どの程度事件に関わっていたのか、まだ調査が途中だった。
あまりの醜聞に、緘口令がしかれ、新年に向け活気付いていた都は静まり返っていた。
あれから、数日が経ったけれど、僕の心は沈んだままだった。
林檎から抽出された毒は以前僕の暗殺に使われた毒と同一だと分かった。
毒が入っていたと思われる、器も部屋に残っていた。
メサルチムほか側近に問いただしても、皇子捜索には手を貸したと認めたが、その他のことには知らぬ存ぜぬを通した。確かに手を貸すには危険が大きすぎる。彼らの言う事は真実の様で、いくら調べても直接暗殺に関与した証拠は見つからず、彼女の単独犯ではないかという流れになっていた。
しかし、毒の入手経路は相変わらず宙に浮いたままだった。そのため、そう決定づけるにはまだ早いと、后妃の罪状も同じく宙に浮いてしまっていた。
あのときの后妃の顔を思い浮かべる。
僕は、彼女の諦めが、妙に気にかかっていた。
あの林檎を見たときの表情も気にかかった。あるはずの無いものを見た表情。なぜだろう、自分で仕掛けておいて。
そもそも、どうやって彼女はあの林檎を僕の部屋まで運んだのか。協力者がいないとなると、自分で運ぶ他無い。でも、后妃自らそんなことをするのは、目立ちすぎて出来ないはずだった。
経路の追跡をスピカに頼んだのだけれど、なぜか、関わった者の顔は后妃しか見えず、調査は難航していた。
――何かがしっくり来ない。
僕は納得いかないまま、心の隅でずっと謎を追い続けていた。
*
僕の不在と帰還が宮全体に伝わり、周りはにわかに騒がしくなった。
僕の生活が以前と大きく違うのは、叔母が、僕の後見人として宮に残ってくれることになったこと。ルティがそのまま僕の側近として残ることになったこと。それから、レグルスが宮付きの近衛隊長となったこと。
この辺は、父がこれまでの事件を考えて、僕の周りの環境を整えようと取りはからってくれたらしい。
――それから、スピカが「叔母」付きの侍女となったこと。
いっそのこと僕付きの侍女にしたかったのだけれど、それはレグルス、叔母ともに却下された。
僕はさすがに彼らの信用をすっかりなくしてしまっていて、部屋付きなんてとんでもないと大反対されてしまったのだった。
鏡が無いからと、彼女に触れる理由を言っても、叔母が僕の金であっという間に鏡を発注してしまい、出来上がるまではご丁寧にも自分の鏡を貸すといい出した。
叔母はどうするんだと思ったら、僕の代わりにスピカと手をつないで寝ると言う。
「最初からそうすればいいだろう」とレグルスが怒っていたら、「それじゃあ面白くないじゃない」、さらりと本音を晒していた。
とにかく、成人の儀までは何もかも我慢しろということらしかった。
レグルスの気持ちは分からないでも無いけれど、叔母には協力、と言うか、積極的に後押ししてもらえると思っていたので、期待が外れてがっかりした。
こっそり叔母にそう言うと、彼女は大人の顔で僕を諭した。
「だってお妃にするつもりなんでしょう? それなりに扱わないといけないじゃないの。それとも何? スピカをその辺の遊び女くらいに考えているというの?」
……そう言われてしまうと、我慢するしかなかった。
あと月が5回満ちるまで。
僕はあきらめて静かにその時を待つことにしていた。
騒動が終わり、ひと月がだった頃には、スピカの髪は肩のすぐ下まで伸びていた。レグルスが大事にとっておいたという、切り取った彼女の髪の毛から髢をつくり、それをうなじでまとめた髪に付けていた。
そうして女の子の格好をしたスピカは、今までの少年姿からは想像できないほどの美少女ぶりで、あちこちの貴族の男や、騎士などの話題の中心だった。
スピカは誰彼構わず親切と笑顔を振りまき、頻繁に男の誤解を招いていた。叔母が面白そうにその情報を僕に伝えてくれるのだけど、話を聞く度に明らかにされる相変わらずの警戒心のなさに、僕はかなりハラハラしていた。
たとえば、手料理が食べたいと言われて普通に作ってあげたり、熱があるから看病して欲しいと言われて、一人のこのこ付いて行ったり、話がしたいと言われて、夜の誘いに乗ろうとした事さえある……(そしてそれらはすべてレグルスによって潰された)。さすがに、いくつかの小さな事件の後、そういう個人的なお願いは聞くなとお願いした。
成人の儀の相手というのは、即位式までは明らかにされない。つまり、おおっぴらにスピカを僕の妃候補だと言う訳にいかず、もちろん態度に示す訳にもいかず、僕の不満は日に日に積もっていった。
「だから、僕の侍女にして隠しておきたかったのに………」
僕はぶつぶつ言いながら、政務の勉強の合間に、本宮の裏にある的場へと向かっていた。
このところの日課だ。
成人の儀で、皇太子も何らかの競技に出場しなければならないのだけれど、僕は迷わず弓を選んだ。
ハリスで習ったことは忘れずにいて、しばらく引いていなかったものの、すぐにもとの調子を取り戻すことが出来た。
冷たい床を踏みしめて、静かに射位に立つ。的を睨み、弓を静かに持ち上げると、背中を割るように押し開く。
左手の付け根から見える的にゆっくりと狙いをつけると、息を深く吐き、的に突きつけるように腕を押し込んだ。
それと同時に弦から矢が放れ、心地よい破裂音とともに的にそのまま突き刺さる。
吸い込まれるように的に向かって飛ぶ矢を見るのは、何ともいえない快感だった。
弓を引いている時だけは、雑念を払えるため、日に日に、的場にいる時間が長くなっていた。
それとともに、僕の腕もかなり上達し、レグルスとともに近衛隊に移ったトリマンも、信じられないという表情だった。
「皇子は、体のバランスがとてもいい上に変な癖が無いし、その上集中力がとても素晴らしい。きっと、武芸大会でいい成績を残せますよ」
そう手放しで褒められた。
剣ではこうは行かなかったので、僕は楽しくて仕方が無かった。
的場を離れ、宮の自分の部屋へ戻る。渡り廊下から見える中庭の木々は、冷たくなった風になぶられて、葉を落としてしまっていた。
……物足りないな。
僕は、いつの間にか立ち止まり、ため息をついていた。
僕の隣を暖めていた少女の姿は今は無く、秋の風が冷たく吹きすさんでいた。
スピカと朝から晩までずっと一緒だったあの日々が嘘のようだった。
僕は決してスピカに会えない訳ではなかった。鏡での力の制御というのはなかなかに難しく、僕はまだそれをできずにいた。だから、僕はスピカを完全に離すことは出来なかったのだ。
ただ、さすがに以前のようには自由に会うわけにはいかなかったし、常に誰かが僕らを見張っていたから、僕が彼女に必要以上に触れる事は叶わない。
力の制御のために、手をつないで話をしてという、とても清い関係が続き、僕は内心かなりの不満を抱えていた。
*
僕はその日、弓を引いたその後で、妹のミルザの住む離宮へと向かった。
一週間に一度ほど、時間を作ってはミルザの元を尋ねることにしていた。
彼女は騒動で傷ついた人間の一人だった。
彼女の部屋は本宮から少し山を下ったところにある木々に囲まれた離宮へと移された。周りの目を気にしないようにという父の配慮である。
その身はもちろん皇女のままではあるが、以前のように、母親の権力を当てにして生きていくことは出来ず、臣下は離れ、彼女の離宮は木々が葉を落とすように活気を失っていた。
彼女は僕の到着を待っていたようで、テーブルの上の食事にはまだ手がつけられていなかった。
「おにいさま」
ミルザは立ち上がると、僕に向かって微笑んだ。少し痩せて、顔色も以前より悪かった。
「ちゃんと食事を取っているのかい? また痩せたんじゃないか?」
妹は力なく首を振ると、無理矢理のように微笑む。
「おにいさまがいらしてくれるなら、ちゃんと食べます」
「また、そんなことを」
彼女は、冗談か本気か分からないようなことを、よく口にする。
僕は彼女の前の席に腰掛けると、食事を始めようと促した。
「以前と違って僕も忙しいんだ。政務も少しずつ覚えないといけないし、成人の儀の準備もある。ごめんよ、……でも、できるだけ訪ねるようにしているだろう?」
「できるだけと言われても……。わたくしは毎日でも一緒にいたいのに。もうわたくしにはおにいさましかいないのに……」
そう言うと妹ははらはらと涙をこぼしながら僕を鋭く睨む。
「でも……成人の儀のお相手のところには毎日通われているのでしょう?」
僕はその声に含まれる棘にぎくりとした。
どうしてミルザがそんなことを知っているんだろう。成人の儀の相手のことは極秘事項だった。余計な争いごとを避けるためだ。
彼女とは決して毎日会っているわけではなかったけれど、そういう情報がミルザの元にあるということが問題だった。
ミルザはスピカが今侍女であるということは知らないはずだ。以前疑われていることもあったので、彼女の耳にその情報が流れないように気をつけていた。だから、彼女のことを疑っているわけではないと思うけれど……。
――もしかして、知らないうちに、態度に出てしまったのだろうか?
「わたくしのところには一週間に一度で、その方のところには毎日なのですか? 結局おにいさまはわたくしよりもその方のことの方が大事なのでしょう?」
僕はすっかり参ってしまった。こういう不毛な会話は苦手だった。
でもいつかはしっかりと言い聞かせなければならないことだった。
「……ミルザ。お前のことはもちろん大事だよ。でも、比べる対象が違うだろう? お前は妹だ。お前だって、いつか誰か好きな男が出来て、そいつに嫁いで僕から離れていくだろう? 僕も同じだ。……僕の大事な人をお前にきちんと分かって欲しいと思う」
「……」
ミルザはうつむいて頬を膨らませていた。その青い目には涙が溜まっていた。
「ミルザ」
「――分かりましたわ。おにいさまのお気持ちが、しっかりと」
彼女がそうきっぱりと言ったので、僕はほっとした。
二人しかいない兄妹なのにこんなことで喧嘩などしたくなかったのだ。
「分かってくれて嬉しいよ」
そういいつつも、聞き分けの良い妹というのも珍しかったので、少し拍子抜けする。
食事が運ばれて来て、その話はそこで終わった。彼女はにこやかな笑みを浮かべ、いつも通り他愛の無い話を披露した。その切り替えの早さがらしくなくて、どこか気になる。いつの間にか終えた食事の味を、僕は覚えていなかった。
*
そうして日々が過ぎていき、成人の儀まであとひと月という頃、僕は突然父に呼び出された。
――実は、一年ほど父には直に対面していなかった。
いつも、必ず大勢の人が周りにいたし、直接会話をすることも無かった。
避けていたのだ。
このままではいけないと、僕も思ってはいたけれど、やはり父との対面は怖かった。
あの時の父のあの目、別人のようなあれを思い出すのがとても怖かった。
僕はどうしようもなく動揺してしまっていた。
「大丈夫ですかー?」
心配そうなルティの声に、僕は首を横に振る。ルティに強がるほどの余裕も無かった。
彼がレグルスに相談に行ったかと思うと、なぜか一人スピカがやってきた。
僕は、今度は別の意味で動揺して、青かった顔が熱を帯びるのが分かる。――こんな情けない姿は彼女だけには見られたくなかったのに。思わずルティに心の中で恨み言を言う。
彼女の髪はまた伸びていて、肩の少し下まで伸びた金色の髪が一筋、蜂蜜のように輝いていた。
侍女の灰色の制服に糊の効いた白い前掛けをつけていた。見慣れたはずのその制服なのに、彼女が着ると、清楚で、――どうしようもなく可愛い。
「二人で会うのは四ヶ月ぶりかしら? なんだか久しぶりよね」
その鈴のような声が部屋に響く。
彼女が女の子の格好をし出してから周りに誰もいない状態なんて、久しぶりどころか、幼い頃以来初めてだ。僕は彼女の長い髪や、その柔らかそうな線を描いた身体を異常に意識してしまい、以前どう話していたかをあっという間に忘れてしまった。
彼女は無防備にも長椅子の僕の隣に腰かける。胸の音が彼女に聞こえるんじゃないかって思った。
「どうしたの?」
「……」
言葉が出てこない。僕は自分を叱咤する。――何だよ、せっかく二人きりになれたのに!
僕が黙っていると、スピカが静かに切り出した。
「帝に会いにいくんですってね」
「……うん」
僕はようやく答えることが出来た。
「大丈夫? 一人で平気? ついていかなくてもいい?」
「ついていけるわけないだろう……」
その弟を思いやる姉のような台詞に、僕はふと可笑しくなった。――なんだ。恰好は違っても、スピカはスピカじゃないか。
思わず笑うと、スピカが安心したようにつられて笑った。
その笑顔を見ていると勇気が湧いて来る。情けない自分を奮い立たせる。
――彼女に余計な心配はかけたくない。
僕は、これをどうしても一人で乗り越えなければならなかった。
「行ってくるよ」
僕は足に力を入れて立ち上がると、スピカに向かってもう一度微笑んで、扉に向かった。
「シリウス」
すぐ後ろでスピカの声がしたかと思うと、彼女の腕が僕の首に回される。
驚いて振り向いたところに、彼女がくちづけてきた。
軽く一瞬触れるだけのキスだった。
「……おまじないよ。あなたがお父さんときちんと話せますようにって。……これくらいなら、記憶もこわれな」
「――――」
僕は我慢できずに、スピカを抱きしめる。
「ちょ、ちょっと、――シリウス!」
腕の中でスピカがもがいていたが、一瞬でどこか焼き切れてしまった僕は、彼女を離すことは出来なかった。
「君が悪いんだ」
僕は、彼女の耳の後ろに手を回し、髪を少し引いて上向かせると、そのままくちづけようとした。
その時、後ろで扉が叩かれ、僕はハッとしてスピカを離す。
直後、扉の開く音が聞こえて振り返ると、レグルスが顔をのぞかせた。
「――皇子、時間です」
機を計ったようなその登場に、僕は思わず恨みがましい目で彼を睨む。
レグルスはそんな僕と真っ赤になってしまったスピカを見て、明らかにムッとしていたが、何があったかについては何も問わなかった。
僕が謁見の間に入ると、天井から吊り下がる薄布一枚で隔てられた玉座に、父が座っていた。
大きく息を吸うと、足を進めて、部屋の中央に進み、跪いた。
「お召しにより、参上いたしました」
「………人払いを」
低く響く父の声で、従者が音もなく部屋から出て行った。
部屋には僕と父だけが残される。
その状況に、血の気が引き、頭が真っ白になる。
――だめだ、思い出すな! 大丈夫だ、僕はもう――
僕は目眩を堪えるため、目を瞑った。
微かな衣擦れの音がして、足音が近づく。体が石のように固まるのが分かった。
「……すまなかった」
僕は心底びっくりして、顔を上げた。――父上が、謝った……?
父は僕のすぐ傍で、膝をついていた。褐色の髪に白い物が混じり、その額には深いしわが刻まれている。
一年前よりずいぶんと老けてしまった父の顔がそこにはあった。苦しみ抜いてそれが染み付いてしまったような顔だった。
「謝らねばならないと、ずっと思い続けてきたが、どう言えばいいか、分からなくてな。………お前はリゲルではなかった。リゲルはもういない。今回のことで、お前が出て行き、后妃があんな事になって……ようやく目が覚めた。
一年以上経って、今さらだ、……許せとは言わない。ただ、謝らずにはいられなかった」
僕は黙ってその言葉を聞いていた。
「シリウス。お前はその名の通り、強くなって帰ってきた。こうして逃げずに、ここにいられるようになった。……それもあの娘のお陰なのだろうな」
僕ははっとして顔を上げた。
「スピカをご存知なのですか」
「……例の件で、褒美をとらせようとしたら、一言『皇子に謝って下さい』と言われてな。彼女は、それ以外何も求めなかった。――あの娘にするのだろう?」
僕は父の目を見ると頷く。
その褐色の瞳の中には、『僕』がしっかりと映っていた。それは、母の面影ではなく、まぎれも無く、『僕』だった。
「あの娘は良い目をしていた。今のお前と同じようにな」
「認めて下さるのですか」
僕はおそるおそる尋ねる。平民の彼女を、僕は正妃としたいのです――。
「認めるも何も、お前は認められずともそうするのだろう? ……自分の力で人生は切り開け。かつて私がそうしたようにな」
それだけ言うと、父は立ち上がり、僕に静かに背を向けた。
父の出て行った謁見の間は、明かり取りの窓から注ぐ光に溢れていた。
僕は、長く暗い洞窟を抜けたような気分だった。
父は、『僕』をその目に映してくれていた。……もうあの何かにとらわれたようなあの目を思い浮かべることはない。――そう思えた。
2話に分けると中途半端な長さだったので、まとめてしまいました。
長いですが、お付き合いくださいましてありがとうございます。
次話からスピカ視点で第4章突入となります。