第3章―7 記憶の行方
スピカは結局その日の夜にようやく目を覚ました。
彼女は窓の外を見る。そこには昨日とほとんど同じ形の月がぽっかり浮かんでいた。
一つ伸びをすると、寝台から降りてスピカは微笑んだ。
「ちょっとしか眠ってないのに、凄くすっきりした気分」
「………」
僕らは顔を見合わせた。
どうやら、誤解しているよう。それだけ熟睡してたって事か。体調は良さそうだけど……。
「スピカ、お前、1日中寝てたんだぞ」
レグルスが心配そうにスピカを見て言う。
「まさかぁ。いくら何でもそこまで寝坊しないわよ。寝不足でもないんだし」
そう無邪気に言ったものの、スピカは急にお腹を押さえて顔を曇らせた。
「……でも、お腹空いてるかも………さっき食べたばっかりなのに……まさか本当に?」
「本当だ」
レグルスが水の入ったグラスをスピカに渡しながら、言った。
スピカはそれを一気に飲み干すと、ベッドの端に座り込む。
「何か食べられそう? 一日何も食べてないから、急に食べるとお腹壊すよ」
僕は彼女の脇にかがみ込むと、その目を見つめて言った。
その瞳を見ていると、ふと昨日のことを思い出してしまって、どうしようもなく、彼女を抱きしめたくなる。
でもレグルスの目を思い出し、我慢した。暖かそうな小さな手が手を伸ばせばすぐ届くところにある。無意識の中から欲望がちらりと顔をのぞかせる。――早く、君を手に入れたい。
「何ともないわ。あるものでいい」
スピカは、僕の視線に少々照れたように顔を赤らめた。
レグルスが、テーブルの上にあった真っ赤な林檎をスピカに向かって放り投げる。それは、昨日、手を付けずに置いておいたものだった。
「すまないが、食べる前に、お前にやって欲しいことがある」
レグルスはそう言うと、鏡の残骸をテーブルの上に広げた。じゃり、と痛々しい音が部屋に響く。
スピカは林檎を受け取ると、一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。でも、直後それをポケットの中に押し込み、テーブルへと近づく。
彼女は粉々の鏡を見て顔色を変えた。
「……ひどい」
「これで分かるかな?」
「たぶん」
僕もテーブルに近づくと、心配してスピカを覗き込む。
「怪我しないように、気をつけて」
スピカは頷くと、慎重に鏡のかけらに手を伸ばした。
スピカが目を閉じると、周りの空気が変わった。
その指先がほんのり白く光ったかと思うと、彼女の全身の色が抜け落ちたようになる。前回見たときも驚いた。
そのままスピカは瞑想するように静かになってしまい、僕たちは周りでそれをじっと見つめていた。
彼女はそのまま動かない。どうやらしばらくかかりそうだった。
レグルスが大きく息をついたかと思うと、スピカのために食事を調達しに出かけていった。
叔母がスピカの様子を見て感心したようにぽつりと言う。
「……物相手なら、これだけしっかり力を使えるのにね。不思議だわ」
そう言われてみればそうだ。彼女は物相手には力を制御できている。物の記憶は壊れないという事? だから安心して使えるのかな? 少し考えて口に出す。
「結局そのときの集中力の問題なのか……?」
僕の独り言に、ルティが口を挟む。
「そうですよ。人が相手のとき、スピカちゃんみたいに初心だと、いちいち動揺して制御がきかなくなるんでしょう。そして、物なら記憶は揺るがないけれど、人の記憶は簡単に壊れます。――だから訓練して慣らす」
「……叔母が力の移動量を知れば、制御できると言ったけど……」
僕が叔母とルティを見比べて言うと、叔母は肩をすくめてルティを見る。
「一族の方の方がさすがに詳しいわ。私は、ラナに少し聞いただけだから」
ルティは僕の問いに頷く。
「――それもあります。そのための儀式でもあります。行為自体に慣らしながら、力の量を量る。一石二鳥でしょう? ひどい内容ですけど、ちゃんと、意味はあるんです」
ルティは、少々憂鬱そうだった。
「スピカちゃんが読み終わるまで、暇だから話しましょうか? 力について。ちょっとキツい話もありますけど」
僕は迷ったけれど、今後のためにはもう少し知識が必要だと、話を聞くことにした。……この間は スピカに聞かせたくなくて話を中断させてしまったから。
白く光るスピカを遠く囲んで皆で椅子に座りこむ。ルティは背もたれに寄りかかると話し始めた。
「儀式は普通娘の成人に合わせて行われます。力の量が最大になるのがその辺りのもありますけど、まああまり幼いのも色々問題ですからね。そして、力の移動って、普通の人間じゃ記憶の障害が伴うから……儀式は一族の男にしかこなせないんです。俺もそれに付き合わされてて。……思い出すとぞっとするようなことですよ。一応近親者は参加を避けるんですけど………たまに従姉妹とか相手のこともあって。力を移動させ終わるまで、閉じ込められるんです」
「どのくらい……」
叔母が眉をひそめてルティを見た。叔母も初めて聞く話だったらしい。
「力の強さにもよりますけど、短くて1週間でしたよ。皇子みたいな闇の力を持つ人間だと、一晩くらいで済むのかもしれないですけどね。普通はそんな吸引力は無いですから。
かなり昔のことですけど、闇の一族から養子をとっていたらしいです。訓練のためだけに」
「え? アルフォンスス家から?」
「そうですよ。といっても百年以上前ですけど。……先の戦争でその伝統が途絶えてしまいましたが。
それに、養子というより……養女ですかね。あの家は普通男児が産まれませんから」
あれ?
「それって」
僕が戸惑うとルティは肩をすくめて補足した。
「別に、寝るって言っても、事に至る必要は無いってことです。だから女性同士でも力の移動は可能」
僕は叔母を見た。話が違う気がする。
「言わなかったかしら。『肌を重ねればいい』って」
叔母は僕の疑うような視線を受けても何ともなさそうな顔で言う。
確かに……思い出すと、そう言ってたけど。僕はなんだか騙された気がしていた。だって、それだったら僕じゃなくても叔母でもいいという話になるじゃないか。
そう思ったけれど、さっきの彼女の喜びようを思い出して、多分叔母の中では最初からもう僕とスピカという組み合わせが出来上がっていたのだろうと予想した。幼い頃から、くっつけたがってたみたいだからな……。
ルティは少し笑うと続ける。
「でも、相手してる男の方は、そうはいかないですよねー。まあ、男の方の都合ってヤツです。
それに、結局力を制御するためには、動揺しないように慣れる必要があるから、まあ、そっちの訓練になりますしね。昔闇の家の者がいた時は、力の移動と、制御のための訓練は別で行われていたらしいですけど」
「……その闇の家の者の記憶は?」
今一番気になるのは、それだった。
「さあ、昔のことなので。……でも、想像するに、訓練の度に、次々に記憶をなくしていたでしょうね」
「そうか。で、……壊れる記憶って、そのときに考えていたことなの?」
僕が熱心に聞くと、ルティは少し目を泳がせ、しばし考え込んだ。
「……それは読まれた人と、読んだ人しか分からないでしょうね」
「どういうこと?」
ルティはくすりと笑う。その表情はいたずらを仕掛けたガキ大将のようにも見える。
「記憶は、壊れる訳ではないんです。皇子が壊れたと思っている記憶、それはスピカちゃんの中にあるんです。移動してるだけですよ」
なんだって……?
今、ものすごく重要なことを聞いた気がする。
「スピカが? 僕の記憶を持ってる?」
「そうです」
「じゃあ、暗殺事件の時のこと、スピカに思い出してもらえばいいってこと?」
「思い出すと言うか……。皇子に返してあげることが出来るはずです。ただ、いまのスピカちゃんでは、そんな芸当出来ないでしょうけど………」
「――つまり、スピカが力を制御できるようになれば、一時的に僕の記憶がなくなったとしても、後から返してもらえるってことか……?」
頭を整理しようと思ったら、いつの間にか考えながら口に出していた。
「皇子?」
ルティが怪訝そうな顔をするので、僕は照れながら補足した。
「……僕がスピカの力の移動を手伝った場合の話だよ……。そしたら、スピカが力をもっとちゃんと使えるんだろう……? その……僕はアルフォンスス家の血を引くから、昔みたいにうまく行くんじゃないかって……」
我ながら言い訳じみている気がした。
半分以上、力の制御なんて関係ない理由でそうしたいと思ってたから、それが顔に出てるんじゃないかって、顔が熱くなってくる。
ルティはニヤッと笑うと、僕の目を覗き込むように身を屈めた。
「皇子が儀式の相手になるって言うんですか? ……理屈の上ではそうです。はっきりはしてませんけどね。そうするのが一番手っ取り早いはずですよ」
その余裕のある笑顔に、僕はふとルティの態度を不思議に思った。
なぜだろう。こいつ、僕とスピカが関係を持っても、構わないというような態度を取ってるけど……。このごろ、なんだか不自然だ。
別にスピカのこと何とも思っていないのだろうか。……そんな風には思えなかったけど。
女の子全般にあんな感じなのか? スピカが特別だというわけでなく?
それならそれで、ライバルがいなくなって、僕としては万歳なんだけど、……なんだか引っかかる。
そう考えたものの、スピカとの関係がうまく行くんじゃないかという期待がふと大きくなってきて、僕は、その疑問を心の隅に追いやった。
「……でも、スピカが起きなくなっちゃったら困るわね。こんな時なのに」
スピカを見つめる目が、今夜にでもそうしたい、と言っていたのかもしれない、叔母が釘を刺すように僕を睨んで言った。
そうだった……。まだ問題は山積みだった。
「ああ、起きないってことは無いと思います。前例がないから」
ルティは何でもなさそうに言った。
「ただ、いつ目が覚めるかは、その力の大きさによるんで。……スピカちゃんは、やっぱりちょっと長そうだなあ」
ルティはなぜか心底困ったような顔をした。
「じゃあ、やっぱり、暗殺の件が片付くまでは、儀式については、考えない方がいいわね。彼女の力が使えないのは困るのだし。……シリウス、早まらないのよ? 分かった?」
叔母の言葉に、僕は渋々だけれど、うなずいた。
さっきまでの暗い気分がずいぶん晴れて、なんだか楽観出来る気分になっていた。
情報をくれたルティに感謝したい気分で、ふと彼を見上げると、ルティは一人暗い微笑みをたたえて、スピカを見つめていた。
なんだか、そぐわない――。そのちぐはぐさがひどく気になった。でも、何が気になるのか結局分からず、僕は疑問を飲み込んで、彼の端正な横顔をじっと見つめるだけだった。