第3章―6 眠り姫
しかし、実際は問題が山積みだった。
僕は半年後の成人の儀に期待をかけていた。
成人の儀――――
それは、皇太子が16歳になる年の新年に行われる祭だった。
その年に成人を迎える若者が一同に集い、武術や馬術などを競う。
何十年かに一度の行事のため、皇太子となる子が産まれた時から長い年月をかけて準備が行われるのだった。
その言葉通り、僕の成人式なのだが、一般の成人と一つ大きく違うことがあった。
最初の妻を娶り、大人の男となったという証明をするのだ。
そして、その三月後、内外に皇太子に就任したことを宣言する習わし――『立太子の礼』でその妃をお披露目するのだけれど――。
そう、つまり、僕はこの時の相手にスピカを選ぶつもりだった。
正妃と違い、最初の妻だけは、僕が自由に選ぶ権利を持つ。どんな身分であろうが、構わない。
そうしてスピカを手に入れ、その後、正妃を娶れと言われても、僕はそれを断り続けるつもりだった。
僕に武器は無い。だから、長期戦で挑むつもりだった。
過去にそんな例はない。でも、父上の例がある。なんだかんだ言って、父上は、田舎貴族の母を、最初に嫁いだ大貴族の現后妃を差し置いて正妃にしたのだ。
きっとかなり揉めたはずだ。それでも押し切れたのは、『僕』の存在があったからだった。
僕もそれを狙うつもりでいた。というか、多分、――それしか方法は、無い。
そんなことを考えていると、扉が叩かれた。
しばらくして、ルティが遠慮がちに扉から顔をのぞかせ、椅子に腰掛けている僕を見ると、ホッとしたような顔をして部屋に入ってきた。
「よかった。服着てますね。レグルス戻ってきましたよ」
「服?」
「いやあ、さっきの様子だと、てっきりもうやっちゃってるかと。修羅場は見たくないなあと思って」
「……自分を基準にするな!」
当たらずも遠からずの言葉に、僕は顔を赤くして叫んだ。
僕の抗議を全く気にせずにルティは部屋の中を見回す。
「あれ? スピカちゃんは?」
「……寝たよ」
あの後、スピカは急に眠くなったらしく、突然床に転がったかと思うとたちまち寝息を立て出したのだ。
……どうも、キスをすると彼女の方も何かが消耗するらしい。
あまりに無防備なその姿に僕は胸が騒いだけれど、彼女を寝台に運ぶと、そのまま寝かせて自分は今後について考え事をしていたのだった。
レグルスと叔母は、部屋に戻って来ると、開口一番言った。
「……一応返してもらいました」
僕は顔を輝かせたが、レグルスと叔母は申し訳なさそうな顔をしていた。
「……どうしたの?」
レグルスが大きな包みを出したかと思うと、開けてくれと促した。
僕が包みをテーブルに置いて、開くと、確かにそこには鏡が入っていた。
しかし。
「……割れてる」
鏡は粉々に割られていて、枠が鈍い色を放って輝いていた。
「これじゃ、使えないじゃないか……」
僕は愕然とした。
「あの女、途中でヒステリー起こして、『そんなに欲しいならくれてやる』とか言いながら、投げつけてきたのよ……ああ恐ろしい」
叔母はわざとらしく震えて言った。
レグルスはそんな叔母を横目でちらりと見ると、ため息をついた。
「ヴェガ様が喧嘩売るからですよ……」
どうやら……人選を間違ったらしい。
いったい何を言ったんだ。……どう考えても怖いから、聞くのはやめておくけど。
しかし、僕は、なぜかホッとしている自分に気がついた。
鏡がなくなったってことは、それが出来るまでは、スピカに触れる理由が出来たということだ。
さっきの様子だと、しばらく手さえ握らせてもらえないような気がする。
僕はそんな気持ちを押し隠すようにして、静かに言った。
「とりあえず、鏡が手に入ったってことは一歩前進だよね。粉々でも、枠も残ってるし、スピカに頼めば何か見えるかもしれない」
「あれ? スピカは?」
レグルスがようやく気がついたと言った風に、部屋を見回した。
「寝ちゃったよ」
「起こしましょう」
レグルスがスピカのところに行くと、彼女を揺すり起こそうとした。
「無理に起こさなくても、明日でいいだろう?」
僕が近づいてそう言っても、レグルスは熱心にスピカを起こそうと揺すり続けた。
「こういうことは早めがいいんです。……おい、スピカ! いい加減起きろ」
スピカはまぶたをぴくりとも動かさず、まるで気を失ったように熟睡している。
いつの間にか、後ろに叔母が立っていて、その様子を見ると、レグルスの腕を掴んで止めた。
「無駄みたいね。……これただ寝てるだけじゃないわ。必要以上に力を使って、回復中みたい」
そうして僕をちらりと見た。
僕はギクリとして、何か言われるかとお腹に力を入れて待ったけれど、叔母はため息をついただけで、何も言わなかった。
「仕方ないな……明日、やらせましょう」
レグルスはあきらめたように息をつくとそう言った。
しかし、――翌朝になってもスピカは起きなかった。
僕は叔母の責めるような視線に耐えられず、叔母を部屋の端に連れて行くと尋ねる。
「どうしてあんな風になるの?」
「……こっちが聞きたいわ。いったいスピカに何したの」
「何も」
「隠し事しても何も解決しないわよ」
叔母に鋭く突っ込まれ、僕は渋々白状した。
「キスを」
「それだけ?」
「……」
さすがにそれ以上は口にしたくない……。
僕が押し黙ると、叔母はその様子から察したようで、ふうんとつぶやいた。
「スピカだって、無限に力がある訳じゃないんだから、調節できるまでは、あなたも考えて行動しないと。肝心な時に力が使えないんじゃ彼女の力の意味が無いでしょう?」
「でも……今まではそんなこと無かったし……」
「今まで?」
叔母の目がきらりと光った。
――しまった――
叔母の目は既に獲物を狩る肉食動物の目をしていた。獲物の僕は固まり、どこへ逃げようか、必死で目を泳がせる。
「……一昨日、眠れないって言うから……」
「どうやら、まだいろいろ問題がありそうね……。その前はいつ?」
うう………。
僕は渋々答える。
「5日前……だったと思う」
「その前は?」
「それが最初。そこまで聞かなくっても………」
僕は顔が熱くなっているのを感じ、手で顔をあおいだ。
叔母は指を折りながら考えていたが、やがて静かに言った。
「つまり……3日くらいで元の状態に戻るってことでしょう? それなのに間を空けずにそういうことしたから、スピカの状態が不安定になってしまったのね。
……私、スピカの力のことばかり言っていたけれど、あなたの力についても考え直さなければならないみたい。……そもそも、あなたが男児として産まれているということを忘れていたわ。前例がないし、一概に私たちと一緒にすることは出来ないのかもしれない……。力が未知数なのね。前に補い合う関係と言ったけど……もしかしたら」
叔母は珍しく真剣な顔をしていた。見慣れているはずの顔が、知らない誰かのように見えた。
僕はその顔を見てふと不安になった。
その先の言葉は聞きたくない――
「――お互いを壊し合う関係なのかもしれない」
叔母は呆然とする僕をよそに、続けた。
「今さらこんなこと言っちゃ何だけど、知らずに儀式をしなくて良かったと思うわ。あなたは記憶をなくして、スピカは眠り続けるなんて、恐ろしいことになってた可能性があるもの……間に合ってよかった――」
「間に合ってなんかない」
僕は叔母の言葉を遮った。
「もう、後戻りなんて……出来るわけないじゃないか!! 今更、何だっていうんだ。さんざん僕を煽っておいて……僕が彼女に決めた後に……! いくら何でも、ひどいよ……」
「……決めたの? スピカを娶るって」
叔母は目をまんまるにして驚いていた。
僕は怒りが収まらず、ふいと叔母から目をそらした。
「………決めたよ。スピカにもそう言った。取り消すつもりは無い」
叔母の顔が一瞬にして輝く。
「そうなの! あらあらあら! ――ああ、私、ずっとそうならないかって夢見てたのよ!」
さっきまでの深刻な顔が嘘のようなその例の桃色の雰囲気に、僕は戸惑いを隠せなかった。何か、罠にはまったような気さえする。
「……そんなに浮かれてる場合じゃないと思うけど……」
僕は叔母についていけず、ため息をつく。そして、さっきの叔母の言葉の意味を考え、反対に深刻になってしまった。
叔母の言ったことは確かにその通りなのかもしれなかった。僕の記憶の障害、そしてスピカの今のこの状態。安易には考えられなかった。
「あなたがそう決めたって言うのなら、話は別よ。……前よりは障害が増えてるかもしれないけれどね。乗り越えようと言う意思があるのなら、きっと何とかなるわ」
本当に、そうならどれだけいいだろう――
僕はベッドの上のスピカを見やると、再び大きなため息をついた。