第3章―4 記憶障害
その日の夕方、レグルスが戻ってきた。――叔母を連れて。
久々に見るその顔は妙に懐かしく感じられた。
「あらあら、なんだかたくましくなったわねえ。ひょっとして背が伸びたのかしら? ――それに、なんだかいい顔になって」
叔母は、僕とスピカを見比べながら、意味ありげに微笑む。
「ふうん、そういうこと」
うわ、何か見透かされてる気がする……。妙に鋭いからな、この人は。
僕が目をそらすと、叔母はスピカに向き直って、尋ねる。
「ねぇ、どこまで進んだの?」
「――え?」
ああ、もう! レグルスが見てるだろ!
きょとんとするスピカを背に庇うように、僕は彼女達の間に立ちはだかる。そして、不満そうにする叔母に向かって礼を言った。
「わざわざ、遠いところを来てくれてありがとう。ひょっとしたら来てくれないかと思った」
叔母はまだ少し物足りなそうな顔をしつつ、僕の礼を聞き入れる。
「可愛い甥っ子の頼みを断る訳無いでしょう。姉に関することでもあるし、私もずっと知りたいと思っていたのよ。それに、帝や后妃に一言も二言も言いたいことはあるわ」
にっこり笑って叔母はそう言ったが、その笑顔の裏にある想いは壮絶なものだと、周りの空気から感じ取れた。
――僕より長く一緒に母と居た人だ。当然だった。
僕と言えば、母上が亡くなった時は、母上がもう笑ったり話したり出来ないということが、ただただ悲しくて、どうしようもなかった。大きくなっても、悔しいという感情はあまり実感できなかった。多分、死というものがまだよく分かっていなかったからだと思う。
それに今思うと、父上があまりにも悲しむので、それが心配で、僕だけでもしっかりしないとと張りつめていた気がする。
叔母は椅子に腰掛けると、大きくため息をつきながら続けた。
「あの女、姉に正室の座を取られたものだから、相当姉を恨んでいたのだと思うわ」
「え?」
それは初耳だった。
「知らなかったの? 今の后妃は、帝の最初の妻で、何も無ければ、そのまま正室に納まるはずだったのよ。運悪く帝が姉を見初めてしまったから、側室どまりになってしまって、……きっと凄く憤っていたと思うわ」
あの后妃が?
「おまけにシリウスは異常に帝にかわいがられてるし。姉が亡くなったのに、自分が寵愛されないっていうのは、たいそう屈辱的でしょうね」
僕は、ようやく、后妃の動機がしっかりと見えてきた気がした。
そう言うことか。もっと早く叔母に話を聞いておくのだった。
「じゃあ、やっぱり動機は十分なんだね。結局……あとは証拠か」
叔母はそこで不思議そうに僕を見た。
「前から不思議で堪らなかったんだけど……あなた、全然覚えていないの? あの時のこと」
「え?」
「あなた自身が、重要な目撃者でしょう? 私、てっきり后妃がやったと思っていて、わざわざ聞かなかったのよ。だけど後で聞いたら、あなたが違うと言ったって……」
言われて初めて気がついて、僕は愕然とした。
そう言われればそうだった。僕は一部始終を見ているはずだった。そうか――僕、違うと思い込んでいたから、何か重要な事を見落としてるかもしれない。
レグルスが、申し訳なさそうに、おずおずと言う。
「私ももう一度聞こうと思っていました。本当はもっと早くに詳細をお聞きしようと思っていましたが、バタバタしていて、それどころではありませんでしたし」
「……」
僕はあの時のことを思い出そうとした。けれど、頭の中に霞がかかったようで、まるで思い出せなかった。事件の直後は……もうちょっとしっかり覚えていた気がするのに。
僕がそう言うと、叔母の顔色が変わった。
「まずいわね。スピカの力ってそこまで強いのかしら……」
僕が怪訝に思って見つめると、叔母は困ったような顔をした。
「ちょっと長い話になるんだけど、いいかしら。シリウスとスピカ二人に話があるの」
レグルスは自分の部屋に戻り、ルティは部屋の前に待機すると言って、出て行った。
叔母は、長椅子に腰掛けると、僕たちを側に呼び寄せ、座るように言った。
僕とスピカは、絨毯の上に座り込むと、お互いに顔を見合わせた。
いったい何が始まるんだろう。
「あなたたち、どこまで進んだの?」
僕は固まった。
さっきも言ってたけど、……進んだって、僕たちの関係のことだよな……。
それならなんとしてもごまかしたいんだけど。
僕は曖昧な笑顔を浮かべると、知らないふりをして誤摩化そうと切り出す。
「……えっと……叔母さま?」
「カマトトぶらなくてよろしい。キスくらいはしてるでしょう? ……さっさと答える!」
ギロリと睨まれた。なぜだかバレてるし。どうも……問答無用みたいだ。
「キスをしました」
スピカがきょとんとした顔のまま、素直に答えている。
うわ――――
「そ、そういうのって、人に話すことじゃないと思うけど………」
僕は慌てて文句を言う。
叔母はふうとため息をつくと、哀れんだように僕を見る。
「あなた、そのせいで記憶障害を起こしてるのに?」
「!」
まさか。この間のことが思い出せないのって………
僕が顔色を変えて叔母を見ると、叔母は静かに頷いた。
「たぶん、スピカのせいよ。この子の力、ラナよりもずっと強いんですもの」
「ラナ?」
「母さんの名前。……ラナ・アルデラミン」
スピカがつぶやいたかと思うと、叔母にすがるように言い寄った。
「ヴェガ様。あたしのせいってどういうことですか?」
「スピカ、あなた、力の調節がまだ出来ないでしょう? なのにシリウスと中途半端にしてるから……どうも、シリウスの記憶、混乱させてるようなのよ」
「中途半端?」
「ああ、私に聞くのはよしてね。教えてあげられないから。それはシリウスに聞きなさい」
スピカはくるりと僕の方を向いた。
――僕に聞かれても教えてあげられないって!
「そ、それはとりあえず置いておいて、記憶障害ってどういうこと? もっと詳しく教えてよ」
僕はスピカの問うような視線を避けて、叔母に尋ねた。
「スピカの力については前に説明したでしょう?
この力は、記憶を読めるだけでなくって、うまく行けば、それに介入することも出来るそうなの。だから記憶を消したり、和らげたり、そういうことが可能なのよ……。
でも、調節できないまま、あんまり記憶に触ると、余計な記憶まで触って壊しちゃうみたい。だから儀式が必要なのね……。その儀式については私もよく知らないし。ああ、もっとちゃんと彼女に話を聞いていれば良かった。困ったわ」
叔母は僕をじっと見つめると、心配そうに息をついた。
「こうなると……うかつに手を出せないわね。シリウス。あなた、スピカと引き換えに大事な記憶を失うかもしれない。……そうね、この間言った儀式の事は忘れてちょうだい、危険が大き過ぎる」
なんだって―――――
僕は愕然として、叔母を見つめた。
しかし、思い当たることはあった。
彼女にキスをしたとき、僕は何を考えていたか、後から思い返すとほとんど覚えていないのだ。
夢中だったからと思っていたけれど、記憶をスピカに奪われていたと考えられないか?
他にも失った記憶があるのかもしれない。――調節できないって、そういうことなのか。
彼女の力を調節するためには儀式が必要で、儀式をすれば、僕が記憶を失うかもしれない――それでは身動きが取れない。
そんなこと……知りたくなかった。
僕は、途方に暮れて、スピカの方を見た。
スピカはじっと壁のタペストリーを見つめていた。その手は膝の上で握り締められ、真っ白になっている。
その緑灰色の瞳がなにか覚悟を湛えている気がして、僕は嫌な予感がした。