第3章―2 気持ちの在処
レグルスが出発して、3日ほどは普通に過ごせた。しかし4日目にはさすがに体が鈍り、僕は筋力の衰えを感じて焦った。
あまり動かないと、いざ何かあったときに動けない……。
そんなことを考えながら、寝台の側で体を伸ばす。剣をちらりと見る。素振りは、さすがに、無理か。
ふと部屋の端に置いてある長椅子の方を見ると、スピカが背もたれに体を預けてぼんやりしていた。
スピカはスピカで、まだその身の振り方を決めていないため、誰にも紹介できず、ここには居ないことになっている。つまり僕と同じで、部屋に隠れて過ごしているのだ。
幸い部屋は広く、二部屋以上のスペースがあるため、居場所に困ることも無いのだけれど、人が入ってきたときは、ベッドの下に隠れたり、長いすの陰に隠れたりと窮屈な思いをするためか、さすがにくつろげず、参っているようではあった。
レグルスが戻り次第、その身分を決めようと思っているのだけれど、それまでは我慢してもらうしか無かった。
「どうした?」
僕が近づいて声をかけると、スピカがそのとろんとした目を僕に向けた。
ふと見ると、もう昼時というのにテーブルの上の朝食にも全く手がつけられていない。
「……眠れなくって」
「昨日はベッドで寝たのに?」
部屋にベッドが一つしか無いため、僕らは交代でそれを使っていた。初日は僕。2日目はスピカ、昨日はルティ。ベッドが無い人間は、長椅子の上で寝た。本当はスピカに全部譲りたかったけれど、彼女は頑としてそれを受け入れなかった。
それどころか、『みんなで寝ればいいじゃない、広いんだから』などと言い出すので、僕は心底困った。ルティは何を考えてるのか、手を叩いて喜んでいたけれど。
しかし、どうやら手をつながなくても眠れるようになったらしく、昨日も、その前も、ぐっすり眠れていたようだった。
正直に言うと、少々寂しい気もしていた。でも、今の気持ちでその状態は、今までよりもさらにきついことも簡単に予想できていた。
一昨日、昨日と夜中、何度も目が覚めた。起きてはベッドの上を確認した。そこにある影が一つであるのを見て、ほっとした。それは、ルティの方も同じようだった。――僕とルティの間には、お互いをお互いで見張っている、そんな緊張感があった。
そのルティは、先ほどから昼食の調達で外に出ている。
部屋に運ばれる食事は僕の分だけで、スピカとルティの分は別で手配する必要があったのだ。
「……なんでかなあ。治ったと思ったんだけど」
「……手つなごうか?」
僕は少し迷ったが、そう提案した。
「出来れば、お願い」
スピカがそう言うので、僕はスピカに長椅子に横たわるように言って(ベッドは、……多分、僕がいろいろ無理だ)、その横に膝をついて彼女の手を握った。
僕は何か考えないとと、必死で頭を働かせる。何も考えないでいると、気持ちが伝わる気がしたのだ。
スピカは既に目を瞑っている。その勝ち気な目は薄い瞼に隠れ、長い鋼色のまつげが頬に影を落としていた。唇は軽く開かれて、ミツバチを誘う花のよう。
駄目だ……!
僕はたまらずスピカの手を離した。
でも、すぐにスピカが僕の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「……シリウス、手、離さないで」
掠れた声が耳をなでる。目の前に、スピカの緑灰色の瞳があり、僕は何も考えられず、引き付けられるようにその唇に唇を重ねた。
どれくらいそうしていたか分からない。
扉が開く音で僕はハッとして、慌ててスピカから離れた。
スピカは、気持ち良さそうに眠っていた。
「……皇子、まさか、寝込みを襲ってるんですか?」
「!」
僕は焦って振り返る。
予想通りにルティがそこには立っていて、あきれたようにこっちを見ていた。
脇の下を冷や汗が流れるのを感じた。
僕は慌てて言い分けする。
「違う。……スピカは、その、途中で眠っちゃって……」
「じゃあ、やっぱりしちゃったんですか」
「……」
「よかったですねー、レグルスの留守中で。殺されてましたよ」
「……」
「ああ、でも、キスしてる時って、どうなんです? スピカちゃん、心を読むんでしょう? やらしいこと考えてるのがバレバレですよねえ」
「……」
「ぶっ」
僕は何も言えず、固まっていた。顔が異常に熱い。
ルティは我慢もせずに思い切り笑い転げている。
「あはっ、あはははっ、お、皇子のその顔!!」
「――うるさい!」
僕は我慢できずに叫んだ。
ルティはそれでも笑い続ける。
「俺にも、覚えありますよっ、あははっ。そういうお年頃ですよねえ……っ」
僕は不機嫌の絶頂だった。いったいなんなんだ。何がそんなにおかしい。
そうだ。だいたい、こいつスピカと僕がキスをしていても平気ってこと? てっきり気があるものだと思ってたけど……。
ルティは笑いながら床を叩いている。どう考えても笑い過ぎだ。見ていると不快指数がどんどん上がって行った。
彼が笑いを収めるのを待って、ようやく僕は尋ねた。
「ルティ、君、平気なの?」
「何がです?」
「僕とスピカがキスしてても」
「……どうせ、お子様のキスでしょう? 犬になめられたようなものじゃないですか?」
ルティはふんと鼻を鳴らすとそう答えた。
……完全に馬鹿にされてる。ライバルにもなり得ないということか。
「なんでそんなこと分かるんだよ」
「現にスピカちゃん寝ちゃってるじゃないですか? ……俺だったら途中で寝ちゃうような優しいことはしないですけど」
そう言われると、余計に腑に落ちない……。正直、夢中だったから、そんなに優しくした覚えも無かった。
なんで、寝ちゃったんだろう……。あれだけ眠れないって言ってたのに……あっという間じゃないか。
そこで、僕はふと思い出した。
そういえば、スピカが眠れるようになった日って……あの朝、確か僕……!
急にそれらのことが細く繋がって、僕は困惑した。
――まさかキスのせいで眠れるように? そんな馬鹿な。でも4日前にあった事を思い返しても……考えられる事は、そのくらいだし。
……どうやら叔母に聞く必要があるな。なぜか知らないけれど、あの人は妙に詳しいし。
僕はこっそりそう決めていた。
その夜、僕はなかなか寝付けず、スピカのことについて布団の中で考え続けた。あの時のスピカの目を思い出すと、身が焦げるような気持ちになった。
僕の気持ちは、さすがに分かってしまっただろうか。
何を考えていたのか、ほとんど思い出せない。覚えてるのはそのやわらかい感触と蜜のように甘い味だけだった。
……ルティが言うように、変なこと考えてたかもしれない。その前に眠ってくれていたらいいんだけれど……。
不思議なもので、スピカへの気持ちに気がついてから、僕はあの闇が急に小さくなった気がした。
闇が怖いのは相変わらずだけど、それよりも、スピカに触れてみたい気持ちのほうが大きかった。
そんな事を思うのはあの事件以来はじめてで、あの傷は本当に消せるのかもしれない、そういう希望が泡のように浮かんできた。
でも、もし、もしも、僕がスピカを抱くことが出来たとして、その途中であのことを思い出してしまえば……彼女がとても辛い思いをする。
僕はスピカを傷つけたりはしたくなかった。
それ以前の問題として、スピカの気持ちだ。
あれだけ僕のために一生懸命になってくれるんだし、スピカは僕のこと好きなのだと思う……。というか、そう思いたい。けれど、それが違ったら?
子供の頃のまま、まるで姉のように、僕を守りたいと必死になっているのだとしたら?
彼女が僕の傷を治すためだけに、そうしたいと言っているのは、僕にはかなり不本意だった。
……スピカの気持ちが知りたい。
この時ばかりは、スピカの力が欲しいと思った。
もし僕が弟のように思われているのだったら……僕はもっと強くならなければならない。
――守られるのではなく、彼女を守れるように。