第3章―1 意志と力
「僕はスピカにそんなことはさせない」
僕は、そう答えた。
彼女に触れるのは……僕だけだ。
いつの間にこんな風に思うようになったのだろう。
たぶん、あの時だ。
――彼女に殴られた時。
僕は長い長い悪夢から目が覚めた気がした。
スピカは、「僕」を見てくれていた。僕の心の拠り所を思い出させてくれた。
――あの幼い日の言葉を。
『……あのね、ぼくの名前はお空の星から取ったんだって。空で一番明るく光る星から。今はお昼だから見えないけれど、本当は太陽よりも明るいんだって。夜だけに光り輝くのではなくて、たとえ見えなくてもお日様の下でも光り輝く強い人間になれって、父上がつけてくれたんだって。だからぼくはみんなを明るくさせる光になるんだ』
夏の強い日差しの中、僕はそう誇らしげにスピカに言ったのだ。
僕の大事な名前。「僕」が大事にされているという、証。
それは僕の大事な宝物だった。
僕はその名にふさわしくありたかった。ずっとそう思って生きてきたんだ。
父上とのこと、母上とのことで、忘れかけていたそのことを、スピカは思い出させてくれた。
――あなたの中に昔のままの強くて優しいあなたがいるのを――
昔のままなのはスピカだって一緒だ。
頑固で、まっすぐで、いつだって自分のことよりも人のことを優先する……見返りも求めずに。
――あたしが守ってあげる。いつかきっとお城に行くわ。シリウスが泣かなくてもいいように。
別れ際、自分だって泣きたいのに、必死で笑顔を保っていた幼い少女。
そうして、その言葉通りに、今彼女はここにいる。
僕は、スピカがただ側にいるだけでは、もう満足は出来なかった。自覚したら、今まで燻っていたものに一気に火がついた気がした。
だから僕は、あの朝、レグルスに向かって前言を撤回した。
『僕はスピカが欲しい。側近ではなく、妃としてだ』
何も言わずにスピカをかすめ取る事は出来た。何も知らないスピカを騙すなんて、赤子の手をひねるようなものだから。でもそんな卑怯なことはレグルスに対してもスピカに対してもしたくなかった。僕は、正々堂々とスピカを手に入れたかった。
僕の宣戦布告に、レグルスは何もかも知っていたような顔で、答えた。
『スピカを正妃とするだけの意志と力があるのなら、私はあなたを認めましょう』
平民のスピカを正妃に――。その難しさは僕にでも分かる。今の僕にはあまりに無理難題だと思え、すぐには答える事が出来なかった。
そんな条件、のむ理由は本当は無かった。レグルスもそれは承知の上で、僕の覚悟を試していた。
僕がその意志と力をなくせば……きっと、彼は、スピカを連れて僕の元を去るだろう。彼の瞳はそう言っていた。
僕がもっと大人で、力があったなら……。
まだ成人もしていない僕に今出来ることは、スピカを誰にも渡さないことだけ。――いつか手に入れることが出来る日まで、側で守り抜くことだけだった。
*
「そんな事をさせないと言っても……しかし、あなたの周りの人間は、スピカの力を知れば、そういう風に利用しようとするでしょう。なにしろ彼女はただの騎士見習いなのですから。……剣もそんなに使えない、特技を生かせないのであれば、お側に置く理由がありません」
レグルスの言葉に、スピカが慌てて言う。
「あたしは離れないわよ! ……シリウスを守るためなら何だってするんだから」
レグルスは、ほらね、と言うかのように、眉を上げて僕を見る。
困ったな。そもそも、僕は側近としてはスピカに何も求めていない。最初に彼女に傍に居て欲しいと言った時、ただ一人の友として僕を支えてくれれば良いと思っていた。
しかしよくよく考えると、レグルスの言う通りで、能力の無いものをこんな重要な地位に置くわけにはいかないのだ。
スピカの力を公表すれば、利用しようとするものが必ず出てくるだろう。それは彼女にとって不幸なことだ。……僕にとっても。
妃としてなら……望むことはたくさんあるのに。
自分の力がそこまで及ばないことが悔しかった。
せめて成人すれば、皇太子として、少しは力を振るえるはずだった。
でも、成人の儀はあと半年も先で――
………まてよ? 成人の義? そうか。その手があった………。
僕は、思いついた考えに、心が躍るのを感じた。
「スピカ、君に僕はそう言う仕事を頼むつもりは絶対にない。君の力のことは、ここにいる人間だけの秘密だ」
僕はスピカに再度そう言い聞かせると、レグルスと向かい合う。
そうして、彼を見上げると、力を込めていった。
「……レグルス。この間言ったことだけど、僕には『その意志』がある。『力』もきっと手に入れる。実現は先になるけど、必ずやってみせる」
レグルスはふうと大きなため息をつくと、仕方なさそうに微笑んだ。
「分かりました」
スピカは怪訝そうに僕らを見ていたが、僕はまだ本人にそれを伝えるつもりは無かった。
でも、今度言う時は、はっきりと言うつもりだった。
「なんだか知らないけどさあ。分かってもらえたところで、そろそろ本題に戻りましょうか」
ルティが、少々不機嫌そうに言った。しかし、口調はいつもの調子に戻っている。
一体どういうつもりだ? 自分が煽っておいて……。
この男を、僕は完全に信用している訳ではなかった。レグルスの紹介だから、そんなにおかしなヤツではないと思うけれど、その出身といい、血といい、完全に信用するのはまだ早いと思った。
それにしても、やたらスピカにべたべたするし、態度が気に食わない。心を読まれないと言う特性も特に気に食わない……。この間なんか、僕を挑発するかのように、目の前で彼女を抱きしめた。僕がしたくて出来ないのをおもしろがってるとしか思えなかった。彼の言った通り、その感情はヤキモチでしかない。
僕よりずいぶん背も高いし、筋肉の付き方も男の僕が見てもホレボレするくらいだ。剣の腕前も凄いらしいし、……僕が持っていないものをすべて持っている気がする。
スピカはルティのこと、どう思ってるんだろう……。あのとき、彼女はそんなに嫌そうには見えなかったし、僕とのキスの事を必死で否定してたのは、もしかして、あいつに知られたくなかったからかもしれない。
僕は深いため息をつく。
……いや、今はそんなことを考えてる場合じゃないか。
僕は頭を振って気持ちを切り替える。
「鏡の入手方法だけど……叔母を宮に呼びたいと思うんだ。見舞いという風にして。そして叔母から、『姉の鏡』を僕に返せと言ってもらう」
「警戒されないかなあ?」
ルティが訝しがる。
「スピカの力を知らないんだから、鏡を欲しがる本当の理由までは分からないだろう」
「ヴェガ様、怒ってらしたもの。あの調子でうまくやりそう……」
スピカは納得したように呟く。
「それで駄目なら強硬手段を取るしかないけど……叔母様、来てくれるかな……」
「……私が説得してお連れしましょう」
レグルスが静かに言った。
「え、でもその間は、警備が手薄になっちゃうじゃない」
スピカが抗議の声を上げる。
「ルティが居るだろ? こいつが居れば、俺が居なくても十分だぞ。どちらにしろ、俺はあんまりここに通うわけには行かないんだからな。
なに、急げば5日ほどだ。今までどおりおとなしくしてれば、大丈夫だよ」
僕はなんとなく不安を感じたけれど、レグルスが言うのなら大丈夫なのだろうとその場は納得し、頷いた。