第2章―7 妹姫
その日の午後、父はシリウスの使いで、妹姫のところへと赴いた。
彼女が登場するまで、あたしはシリウスにそっくりな女の子を想像していたのだけれど、見事にその予想は外れてしまった。
「おにいさまあ!!」
扉が開くなり、飛び込んで来た少女が、シリウスの寝ているベッドへと駆け寄り、彼に抱きついた。
プラチナの長い髪が、ひらひらと空中を舞い、まるで羽が背中から生えているかのように見えた。
肌は透き通るように白く、青みがかっている。しかし頬と唇だけ切り離されたかのようにきれいな桃色をしていた。
瞳は空のような青。薄く透明な青だった。
……月の妖精がいたらこんな感じなのではないかしら。それにしても、全く似てない。……そっか母親が違うと、こんなにも違うのね……。
あたしは変に感心しつつ、その妹姫に呆けたような視線を送った。
とにかく、こんなきれいな子は見たことが無かった。シリウスの記憶の中の后妃に似てはいたけれど、数倍愛らしかった。
「おにいさま、ようやく起き上がれるようになられたのね! ミルザ、心配で心配で」
「心配かけてごめんよ」
シリウスは妹の背を優しくなでながら、言う。あぁ、あのシリウスが、お兄さんの顔してる。その光景を見るのは不思議な気分だった。
姫はふとシリウスから体を離すと、あたしとルティを見て、怪訝そうな顔をした。
「この方たちどなた?」
「ああ、最近側近として入ってもらったんだ。レグルスの紹介でね。あんなことがあったから、警備を固めたくて。スピカと、ルティルクスだ」
「ふうん……でもそっちの大きい男の方はいいとして、そっちの小柄な方を採られたのはどうして? あまりお役に立たないように見えるのですけど」
「……」
思わず顔が引きつった。今のは、結構傷ついたわ……。この子、可愛い顔をして言うことが結構きついのね。
横でルティが咳払いをして笑いを誤摩化す。もちろん見逃さず、しっかりと睨んでやった。
シリウスは姫に優しい口調で言い聞かせる。
「こういう時は、何が出来るかとかいうことより、彼が信頼できるかの方が大事なんだよ。僕はスピカを心から信頼してる」
ああ、シリウスは昔から、こういうことをさらりと、なんでもないことのように言うのよね……。言われたほうが勘違いしてしまうのも気にせずに。
あたしは飛び上がりたいくらい嬉しい反面、『彼』と言われたことに、自分で選んだことだと分かってはいても、心が痛んだ。
姫はじっとこちらを見つめていたかと思うと、ふとあたしの前まで歩いて来る。そして、驚くあたしをじろじろと観察し始めた。
その青い目であたしの目をじっと見上げたかと思うと、急にあたしの顔や腕や胸を手のひらでぺたぺたと触り始める。
「!!」
――ちょ、ちょっと!!
その行為にもだけど、流れ込んできた思考に思わずあたしはぎょっとした。
――この人本当に男の子かしら。さっきからお兄様を見る目が変なのよね……
――ああ、胸は硬いわ。大丈夫。よかったわ。
――一瞬、お兄様に悪い虫がついたのかと思った……。
――お兄様、別に少年がお好みというわけではなかったわよね……?
――だめよ、「あたしのもの」なのだから、お兄様は。
こ、この子は!!
あたしたちの姿を見て、男3人は見事に固まっていて、助けもしない。多分どうすればいいのか分からなかったのだと思う。あたしだって分からない!
やがて姫は、結構際どいところも触ろうとしだした。さすがに混乱してきて、ともかくやめて欲しくて、恐る恐る口を開く。
「あの……姫様?」
姫はあたしの声を聞いて、びくっと体を震わせた。
「あ、あなた。やっぱり……女の子ね!! ……ちょっとその服脱ぎなさい!!」
「ええ!?」
あたしはあまりのことに目を回しそうになった。
服を何ですって!? ―― 一国の姫君が言う言葉じゃないでしょう!
シリウスが慌てて、妹をなだめにかかった。
「ミルザ、いくら何でも、やり過ぎだ」
「だって、この人! 髪は短いけど、あきらかに女の子じゃない!! この声、この肌、この目!! 体も細いし、間違いないわ。この私をだませるなんて思わないでちょうだい!! おにいさま、一体どういうことなの!!」
あまりの剣幕に、あたしたちは一様に冷や汗を流し沈黙した。
なんなの、一体この子は……。
シリウスが大きなため息をついて、あたしたちに謝った。
「ごめん。こいつ、昔からこうなんだ……その、異常に僕に執着してて……」
「わたくし、この人嫌いです!」
姫はすでに半狂乱になっていて、あたしにつかみかかろうとする。
「ミルザ!」
シリウスはたまらず声を荒げ、姫を取り押さえた。
激した様子のシリウスに姫はびっくりしたようで、その小さな体が石のように固まった。
「スピカのことを知らないのに、嫌いなんて言わないでくれ。……確かにスピカは女の子だよ。けれど、僕を守るために来てくれたんだ。こうして髪まで切って。……大事な……友人、なんだ。わかるね?」
「友人?」
姫はあたしを怪訝そうに見る。その瞳は全く納得していないようだ。
――ゆうじん、か
あたしはシリウスのその言葉に、かなりショックを受けていたけれど、その想いを顔に出す訳にいかず、ただ微笑もうと努力した。
忘れてはならない。側近として仕えることを、あたしは選んだのだから。それでもいいと、納得したはずだ。
「姫様、私の姿をご覧頂ければお分かりになるでしょう。私は、女としてこちらに仕えるのではありません。騎士として、皇子をお助けするためにこちらに参ったのです」
口から出てくる言葉は嘘ではないはずなのに、心が重く苦しかった。
姫の視線が痛かったが、堪えてそう言いきってしまうと、全身から汗が噴き出してくるような気がした。
「そうよね……よく考えたら、その髪じゃ、お兄様のお嫁さんは無理よね……そう、心配して損しちゃったわ」
姫は自分の腰の下まである長い美しい髪を指に絡めながら、呟いた。
あたしの髪も、長い頃はあんなだったかしら……よく光に透かして眺めていたっけ……。きれいな金色で、蜂蜜のようだったのよね……。
あたしは思わず自分の短い髪をいじりかけて、ふと手を止めた。あまりに卑屈な動作に見える気がしたのだった。
「……落ち着いたかい? ……じゃあ、話を始めていいかな」
やがてシリウスが、そう切り出した。
眉を寄せ、とても辛そうにしている。
だって、……彼女の母親を疑っていることを伝えなければならないのだ。
「ミルザ、君には辛い話になると思う。母上の話だ。もし嫌だったら、もう話をやめる」
「……聞きます」
姫がそう頷くと、シリウスは静かに話を続けた。
「義母上が、僕の命を狙っているんじゃないかと、僕は考えているんだ……。もちろん違うと思いたいよ。でも、そうだったら……おそらくこれから僕と義母上は対立することになるだろう」
姫は表情を変えず、黙ってシリウスを見つめていた。
「ミルザはどうしたい?」
しばらくの沈黙の後、姫は低い声で言った。
「……もし、それが本当だったら、わたくし、お母様といえど許せませんわ」
そうして、その青い目を強く輝かせて続けた。
「……お兄様。わたくしもお兄様のお手伝いをさせてください。もしお母様がそんなことをたくらんでいるのでしたら、お母様を止めたいですし、お兄様のお役に立ちたいの」
あたしはホッとした。この子は見かけよりもずいぶん強い。
ここまで疑いが濃くなってくると、后妃の陰謀を知らせるのは酷かと思って、皆で悩んだのだけれど、シリウスが、突然板ばさみになる方が可哀想だというので、思い切って伝えたのだった。
「分かった。ミルザに頼む」
シリウスもホッとした様子で、表情を和らげた。
そうして、事情を姫に聞き始めた。
「さっそくだけど……母上がメサルチムと話をしているのを聞いたことは無いかい?」
「……いつも奥の部屋でこそこそとお話してるわ。見張りまで立てているの」
あたしたちは顔を見合わせた。
それはあまりにも怪しい……。
「奥の部屋というのはどちらでしょう?」
それまで黙っていた父が口を挟んだ。
「お母様のお部屋のさらに奥にあるお部屋。鏡が置いてあるの」
「鏡……」
シリウスのお母さんの形見か……。
「お母様、鏡に向かってよくお話されていて、……そんなときのお母様、ちょっと怖いの」
ミルザ姫は、知っていることを、とても12歳とは思えないくらい丁寧に話してくれた。シリウスが協力を頼みたがったのも分かる気がした。
いつの間にか日が傾き、部屋も薄暗くなってきていた。
あたしたちは今日シリウスと話したということは、内緒にするようにと念を押して、彼女を自室へ送り出した。