第2章―6 ヤキモチ
ふと目を覚ますと、あたしはベッドの上に寝かされていた。
ぼんやりした頭で考える。ここってどこだっけ……。
明かり採りの窓からは、明るい光が漏れてきていて、部屋の様子を照らし出していた。
天井から吊り下げられた淡い紫色の薄いカーテン越しに、やたらと広い空間が広がっているのが見えた。
物は無いけれど、床に敷かれた絨毯や壁に掛けられたタペストリーなどを見ると、やけに豪華な部屋だと思えた。……ベッドも広くて3人くらい眠れそう。
あたしはようやく昨日の出来事を思い出し、ここがシリウスの部屋だと理解した。あぁ、そうか、寝ちゃったから観察する余裕も無かったんだわ。
眠気も無くなんだか爽快な気分で、一つ伸びをして起き上がると、床に転がって眠っているシリウスとルティが見えた。
皇子なのに、どうして床で!
って……あたしのせいか……。
……あれ? ってことは、あたし、手をつながずに眠れたってこと? しかもぐっすり?
あたしはそばにあった枕をたたくと、それを抱きしめながら考えた。
枕が良かったのかしら。でも、普通の枕に見えるし……。ひょっとして、……いつの間にか、克服したのかしら!?
あたしが一人考えていると、シリウスが小さく唸って身じろぎした。
そして黒い髪を揺らし起き上がると、ベッドの上のあたしをみて驚いた顔をする。
「あれ? ……スピカずっとそこにいた?」
「うん。そうなの。……なんでかな。一緒に寝なくても平気だったの。治ったのかしら、癖」
「……なあんの癖だって?」
ルティが大きな身体を起こすと、その赤い髪をくしゃくしゃとかき回した。
「一緒に寝なくてもって? なに? 君たちどういう関係よ?」
関係? あたしは素直に答える。
「幼なじみだけど」
「いやあ、そういうことじゃなくって、……いつも一緒に寝てるわけ?」
ある意味そうだったので、あたしは堂々と答えた。
「そうだけど?」
ルティは信じられないと言った様子で、シリウスを見た。
「んじゃあ、皇子様は、スピカちゃんともう――」
シリウスは真っ赤になって、ルティを睨むと、遮るように言う。
「そんなことはしてない」
「え? それはそれで変だと思うけど……。だって、君たちもう15でしょ。立派に――」
シリウスが慌ててルティの口を押さえ込むのを不思議に思いながら、あたしは簡単に事情を説明した。
「手をつないで寝てもらってるの。あたしがそうしないと眠れないから」
説明が終わると、ルティは呆れたようにシリウスを見て言った。
「ふうん、じゃあ皇子様はずっと据え膳を食わずにいるわけか……俺には出来ないなあ……こんな可愛い子が横に寝てて手を出さないなんて」
据え膳? 手を出す? ルティが言っている事の意味がなんだかよく分からない。
「僕だって……」
シリウスは何か言いかけたが、結局あたしを見て、口をつぐんだ。
少しその顔が赤い。あんまり見た事の無いような表情だった。
あたしもだけど、彼もルティといると、どうもペースが乱れるみたい。
「ほうほう。そうか、皇子様もちゃんとスピカちゃん相手にいろいろ考えたりするんだな。……なんだよ、睨むなよ、普通のことじゃないか。……まあ、心を読まれるんだったら、なかなか手を出せないのも分かるかなあ」
「――いい加減、その口を塞げ!」
シリウスが切れる隣で、あたしは赤くなる。あたし相手に、考えるって――。
シリウスとオリオーヌまで相乗りした時の事を思い出す。確かに、あのときシリウスったら、あたしの腰にしがみついて、胸とかお尻の事とかいろいろ……
「あ、スピカちゃん、真っ赤。可愛いなぁ。なに? やっぱり皇子様の気持ち読んじゃったの?」
「ああああああ、あんたねぇ!」
矛先をいきなり向けられ、ギクリとして飛び上がった。なんてデリカシーの無い男なのよ!
シリウスを気にするあたしを前にルティは続ける。
「俺は平気だもんね。こんなことしたって」
そう言うと、ルティは突然、あたしの腕を掴んで、あたしをぐいと引き寄せた。
そうして、あたしの髪に頬を埋めたかと思うと、素早くおでこにキスをした。
ぎゃっ! いや!
「――――な、何するのよーーーー!!」
あたしは慌てて飛び退こうとしたが、いつの間にか腰にしっかり手を回されていて、身動きが取れなかった。堅く厚い胸や強い腕を意識して、一気に心臓が激しく音を立て出す。
ちょっと! シリウスが見てるのに!!
「ほうら、こんなにくっついても、全然読めないだろ? 普通なんだけどね、それが。つまり、君と俺なら、普通の恋愛が出来るってこと。分かる? スピカちゃん」
「……普通の恋愛?」
その言葉の響きに、きょとんとした。
ルティはふと手の力を抜いて、あたしを解放する。
「余計なことを知るのって辛いだろう? うちの一族から、よそに嫁に行った女性は、ほとんど嘆いてるぜ? ……夫の愛情を疑ってな」
一瞬ルティの目の中に暗い影が現れ、あたしはそのそぐわなさにびっくりする。
しかし瞬きのあと、もう一度見ると、もうその影は消えてなくなっていた。――見間違いかしら?
「――そういうのは、余所でやってくれないか」
直後いきなり冷たい声が響き、声のした方向を見ると、シリウスがその目に怒りを浮かべてこちらを見ていた。
「……スピカも、本当は昨日はそいつと寝たんじゃないのか? だから僕なしで眠れたんだろ。……良かったじゃないか。新しい枕が出来て」
あたしは、シリウスがそんな風な態度を取るのを見たことが無かったので、腹を立てるよりびっくりして、まじまじと彼を見てしまった。え、だって、これって――
「皇子様、それって――やきもちか?」
あたしの代わりにルティが言った。
「ち、ちがう!」
シリウスはそう否定したけれど、見る見るうちに顔が赤くなっていき、顔のほうが正しい答えを出しているようだった。
え。本当に?
彼はうつむいて、ため息をつく。そして、気を取り直したようにルティに向き合う。
「と、とにかく! スピカは僕の側近だ。変な目で見るな」
「うわ、職権乱用。恋愛は自由だろう? 皇子様がスピカちゃんをお嫁さんにするってなら話は違うけどさあ。……そうじゃないんでしょ?」
シリウスはぐっと詰まって、黙りこむ。
ああ、やっぱり、そうよね……。あたしは少し期待しただけに、その分ぐったりと落ち込んでしまった。
「だとしても、お前みたいに軽いやつにはスピカは勿体ない。……大体ずいぶん歳が上なんじゃないか?」
「はー、顔に似合わずひどいこと言うなあ。レグルスの影響か? 俺、まだ19歳だぜ。4歳くらいの歳の差、普通普通」
19歳……最初に見た時はそのくらいだと思ったけど……中身を知ると、もっといってるかと思ったわ……。……って、なんか勝手に話が進んでない?
「ちょっと、あたしを無視して話さないでよ! ……あたしは、あんたみたいな軽いのはお断りよ!」
「そんなこと言わないでさあ……――――っ!?」
突然ルティがさっと顔色を変える。そしていきなり叫んだ。
「皇子! 布団かぶって下さいっ!」
彼はシリウスに布団をぶっ掛けて、あたしにベッドの下に入れと指示すると、自分は部屋の入り口に移動し姿勢を正した。
あたしは言われた隠れ場所を覗き込んで蒼白になる。
――ベ、ベッドの下ぁ!?
その隙間は子供が隠れるのがやっとの幅。
焦るあたしの耳に、扉が開く音が届く。
「――スピカ!」
咎めるような小さな叫び声が聞こえ、直後、あたしは柔らかいベッドに埋もれて、シリウスの身体の下で彼が息を呑む音を聞いた。
――柔らか……、あ、だめだ、考えたら、――
シリウスの心が見えて、あたしは無駄だと知りながら必死で心を閉ざそうとする。……駄目。見ちゃ、駄目!
慌てて彼からなるべく離れようと身体と身体の隙間に、出来得る限りたくさんシーツを詰め込んで目を閉じた。ようやく彼の思考が遮断されてほっとしたけれど、今度はのしかかる彼の重みとか、息づかいを意識してしまう。だめ、この体勢は……昨日のキスを思い出しちゃう。――胸が暴れる。息が苦しい。
カツカツと足音がこちらへと近づいてくる。
「皇子のお加減はどうだ?」
声を聞いて、あたしはホッとした。父だ。――た、助かった。
外に出ようとしたけれど、それより一瞬早く、別の声が聞こえてきた。
「ずいぶん長い間臥せっておられるが、成人の儀には間に合うのかの? もうそろそろ色々と準備があるのだが」
急激に、頭が切り替わる。シリウスの身体にも緊張が走っていた。こいつは……。
「メサルチム様、それよりも、皇子を狙ったものの特定を急ぎませぬと」
メサルチム!
「うむ、分かっておる。ところで……今日もお顔を拝見できないのかの? おや、君、見たことが無いが」
顔を拝見という言葉にぎくりとしつつ、次に聞こえてきた声に、あたしは仰天した。
「は。わたくし、昨日よりこちらに配属となりました。ルティリクス・シトゥラと申します。以後お見知りおきを」
いつもより半音ほど低い渋い声。
ね、ねぇ――こ、ここまできちんと話せるんなら、もうちょっとシリウスに対しても何とかなるんじゃないの!?
その物腰の柔らかさや、丁寧さは、先ほどまでのルティとは明らかに別人だった。
「私は聞いていないが」
胡散臭そうに、大臣が言う。
「昨日、衛兵が職務中に酒を飲みましてね。二人ほどクビにしました。補充が急だったので、身元がしっかりしている者が、この者しか居なかったのです。昨年度の剣術大会優勝者ですよ、覚えていらっしゃいませんか」
「あ、ああ。あの者か……」
ええ? そんなにすごいやつだったの、ルティって。人は見かけに……いや、見かけだけならそうかもしれない。あいつ、見かけ“だけ”は素敵なんだもの。
ああ、なんだかショックだわ。そんなやつがシリウスを守るんだったら、あたしなんて必要ないじゃない……。
感心とやっかみで思わず小さく息をついた。
ふと視線を感じて目線を上げると、黒い瞳とぶつかる。息がかかるくらいの距離、シリウスが真剣な目であたしの様子をじっと伺っていた。
身じろぎもせずに布団に包まっていると、やがて大臣はあきらめ、部屋を出て行った。父とルティの見送る声が扉の向こう側に消えると、すぐにあたしはシリウスを押しのけてベッドから転がり落ちる。そして、何度も大きく息をつく。大臣が粘るものだから、息が上がってしまっていた。後ろでシリウスも大きくため息をついている。あぁ、なんだか顔あわせられない。――心臓が壊れそう!
父とルティが引継ぎがありますからと、部屋に戻って来て、ようやく部屋の中の妙な空気が緩む。
「なんでいきなり連れてくるのよ……びっくりするじゃない」
昨日の事を考えると今のが父にバレるのはなんだかまずい気がして、平静を装いながら文句を言う。父はむっとして答えた。
「たまたま廊下で会ったんだよ。一人で入ってこられるよりましだろう? ……それより、ほら。これ」
そう言って父が差し出したのは、1本の短い髪の毛。
「これって、大臣の?」
「ああ」
あたしはそれを受け取ると、手のひらに載せて指を当てた。
目をつぶり、指先に神経を集中させる。
最初に声が聞こえた。
くぐもった女の人の声だった。
――まだ見つからないの。
――申し訳ありませぬ。全力でやっておりますが……あの騎士団長を張っていたのですが、うまく巻かれまして。
――あやつが戻っておるということは、もう都に居るのかも知れない。これよりももっとしっかりと見張るように。
部屋は薄暗く、扉だけが見え、結局肝心の話し手の顔は……見えなかった。
どうやら貰った髪は、後ろ髪のようだ。
あたしは現実に戻ると、3人を見回して、今見たものを出来るだけ正確に説明した。
「うーん、決定力にかけるなあ……。顔は見えないし、声も女性だというだけで、特徴が無い。話の内容からも誰かとは特定できない……か」
ルティがのんびりと言うのをシリウスが遮る。
「いや……大臣がそんな態度をとるということは、それは間違いなく后妃だ」
彼はそう断言したけれど、直後困ったように眉を寄せた。
「ただ……その会話では探していたということしか分からない……。よく考えたら、探しているからといって、それが暗殺を目的にしているとは限らないのか……」
「ただ、毒を入れることが出来た人間で一番怪しいのは、最後にあなたに近づいた彼女です。あとは、動機だけですね……」
父は顎をさすりながら、唸っている。事情を知らないルティ以外は一様に渋い顔をしていた。
「なんだ? 皇子が死んだら自分の娘の皇位継承権が上がるからだろう?」
ルティが何でもないことのように言う。
それを聞いてはっとする。普通に考えたら、そうよね……。それだから、一時疑われて捕えられていたのだし。
父もシリウスも今思い出したというような顔になった。
「でも、それだとあの行為の意味が分からないよ……」
シリウスは顔を曇らせてつぶやく。
あたしもそれは見ていたので、やはり納得いかなかった。
「ねえ、何があった訳? 俺だけ仲間はずれにするなよなあ。せっかく意見を述べてるのにさあ、考える地盤が違ったら時間がもったいないだろう?」
ルティが口を尖らせながら言う。
その顔でそんな可愛らしい仕草は似合わないから止めて欲しい。あたしは真剣にそう思った。
シリウスは、しばし悩んでいたが、簡単に事実のみをルティに伝えた。
「母に襲われた」
「は? え、って?」
「――これ以上は言うことは無い」
シリウスは一気に無表情になり、ひどく無気力な様子になった。けれど、ルティはそんなに衝撃を受けたという様子でもなく言う。
「ふうん。なあんでそんなに暗いかなと思ってたら、皇子様もいろいろ苦労してるんだ」
――また、そんな無神経なことを!
あたしが憤慨しかけるとルティが被せるように続けた。
「じゃあ、痴情のもつれかなあ」
は?
「だって男女のことだろう? それなら、皇子がツレナイから、いっそのこと無理心中を! なんて考えたとか」
あたしは半ばあきれながらも感心した。言われるまで、男と、女……なんでか、そんな風にとても思えなかった。こいつって結構頭柔らかいのかも。
「いろいろ考えられるじゃないか。動機なんて、いくらでもあると思うけどな――」
「じゃあ、やっぱり后妃なの?」
あたしは戸惑いながら、ルティを見上げる。
「さあ。証拠が無いんだろ? じゃあ、証拠を見つけないと」
「証拠って言っても……」
「――毒か」
シリウスがふとつぶやく。
「そうだね、それがまだ見つかっていないんだろう? きっとどこかに隠しているはずだ」
ルティはそうして宮に潜入中、独自に入手した情報をあたしたちに教えてくれた。
その毒は、ティフォン国の南にしか生えないというある植物の葉から採られたもので、原液はひどい匂いがするらしい。
色は茶色、致死量はほんの数滴。
「それは……」
いつの間にか、父が青い顔をしていた。
ルティは父に向き直って、言った。その顔はいつになく真剣だった。
「そうですよ。10年前、皇子の母上が弑されたときに使われたものです」