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闇の眼 光の手  作者: 碧檎
第一部 闇の皇子と世界の始まり
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第2章―3 くちづけ

 シリウスは、翌朝にはほぼ普段通りの彼に戻っていたけれど、あからさまにあたしを避けるようになっていた。

 目をそらされ、会話も無い状態にいたたまれずに、馬の世話をしていたシリウスを捕まえ、倉庫の中に連れ込む。

 扉を閉めると風で埃が舞い、明かり取りの窓から差し込む光がそれに反射して視界を散らついた。

 けほ、と咳き込む不満げな彼に向かって頭を下げた。

「……ごめんね、あたしがしっかりしてなかったせいで……あんなこと」

「いいんだ。あれは僕が油断したせいだから。スピカのせいじゃないよ」

 柔らかい口調に顔を上げるも、シリウスはあたしの眼を見ようともせずに、うつむいたままだった。彼は言葉通りには許してくれてはいなかった。

「騎士として失格だよね……」

「いいんだ。本当に」

 シリウスはきっぱりと言って、その話を切り上げたそうにしていた。

 あたしは、それ以上何も言えず、しばし黙ったが、やがておずおずと話を切り出す。苦しいけれど、言わなければいけないと思った。

「あ、あのね。シリウス」

「何」

「あたし、昨日……あなたの記憶、見てしまったの。……ごめんなさい。そんなつもりなかったんだけど」

 シリウスはうつむいたまま表情を変えない。

 苛ついたような沈黙だけがあたしとシリウスの間に漂っていた。

 そして彼が口を開いた時、あたしの耳に届いたのは、今までに聞いたことのないような冷たい声だった。


「……それで?」


 そのあまりの冷たさに喉が強張り、声が張り付いて出てこない。


「……僕に同情した?」

 顔を上げた彼のその表情にあたしは鳥肌が立つ。

 目だけ笑っていないその笑顔。

「……僕を汚いと思った? ……何とか言えよ!」

 その笑顔が急激に崩れたかと思うと、彼はぎりと歯を食いしばった。

 瞳は前髪に隠れて見えない。

「心を読んで、僕の気持ちが分かった気になった? ……無理だよ。実際にそういう目にあわない限りね!」

 次の瞬間、二の腕をすごい力でつかまれる。引き寄せられたかと思うと、シリウスのその黒い瞳が目の前にあった。

 唇に何か熱くてやわらかいものが触れていて、そこから胸が焦げるような痛々しい想いが流れ込んでくる。


 ――滅茶苦茶にしてやる……!!

 ――僕と同じように汚れてしまえばいいんだ!


 これは、何?

 それは手で触ったときより遥かに強烈だった。

 いつの間にか、あたしは床に倒されていて、体の上にはシリウスが覆いかぶさっていた。口は変わらず塞がれたまま。息をするのがやっとだった。

「ん!」

 彼の手が身体の線をなぞり、身体が跳ねる。胸が一気に激しい音を立て出す。押し付けられ、触れ合っている部分からさらに想いが流れ込んできて、あたしは自分がシリウスになったような気がした。


 ――僕は汚れてる。僕は、汚い


 あたしはだんだんと自分が誰なのかも分からないような状態になってしまい、ただただ呆然としていた。それでも、なぜだか、彼からされている事を嫌だと思わなかった。なに? この……痛いような感覚は。

「シ、リウス」

 唇のすき間から、声が漏れる。苦しくて、目の端から涙が一粒溢れて、彼の頬を濡らす。

 直後、彼の嵐のような激情が何かにせき止められ、彼は突然のように戸惑いだす。張りつめていた空気が和らぐのを感じた。


 ――僕は一体何してるんだ!?


 彼はようやく自分のやっていることに気が付いたようだった。


 ――ど、どうしよう……こんなことするつもりじゃなかったのに! あぁ、もう無茶苦茶じゃないか。でも、なんだか、離したくなくなってきた。……スピカはなんて甘くて、やわらかいんだ。……もっと触っていたい、もっと先に……あれ? そう言えば、ぼく、何か大事なこと忘れてないか?


 次の瞬間、シリウスが一気にあたしから離れた。そしてよろよろと後ずさると、壁に張り付くようにしてしゃがみこむ。

 その顔が耳まで真っ赤になっている。


「ご、ごめん……その……えっと」

 あたしはようやく自分を取り戻したけれど、混乱はなかなか消えず、すぐには言葉も出てこなかった。


「あたし……今シリウスになってたわ」

 大きく深呼吸を繰り返して、ようやく口をきけるようになる。耳に届く声が自分の声と気がつくと、すごくほっとした。

「あなたの気持ちだけでなくて……あなたが感じてる感触とか、そういうのも全部分かった。……なにかしら、あれ。あまりにすごくて……」

「か、感触!?」

「なんだか自分で自分を触ってるみたいで、すごく変な気分で……」

 シリウスは「もう止めてくれ」と小さく叫ぶと、耳を塞いで顔を伏せた。

 その様子を見てあたしはハッとして、口をつぐんだ。

 そうしてしばらくして落ち着いた頃に、シリウスはようやく顔を上げる。

「……キスのせいか? だって今までくっついてても別にそんなこと無かっただろう?」

 あたしは、言われて初めて、あれがキスだったということに気がついた。周りの女の子が誰それとしたと騒いでた、その行為。そ、そうだわ、あの距離で彼の目が見えるってことはっ……あたしの唇に触れていたものは……シリウスの唇だったということ。

 一瞬、物陰で抱き合う恋人達の姿が自分たちに重なり、顔が熱くなった。同時に柔らかく湿った感触が蘇り、悲鳴を上げそうになる。堪えようと指で唇を抑えた。

 動揺してるのがバレると余計に恥ずかしい気がして、ぐっといろんな気持ちを飲み込むと会話を続けようとする。そうよ、まだ彼とちゃんと話してないんだから!

「……たしかに、唇からすごい勢いであなたの考えが流れ込んできて……そうだわ、多分そのせいよ」

 あたしがそう言うと、シリウスはその顔に影を落とした。

「……僕、ひどいこと考えてただろ。ごめん」

 あたしは何も言えずにただシリウスを見つめた。

 彼は自分のしたことをごまかそうとはしないようだった。


「知られたくなかったんだ。誰にも。だって、誰だって僕のことを汚いと思うだろう? ……あんな目に遭って、それでも僕はおめおめと生きてる。死ぬ勇気もないんだ。だからいろんなことをごまかして、流されて生きてきたんだ。……いっそのこと、この間死んでいれば良かったのかも」

 気がついたときには、あたしは、彼の頬を打っていた。

 バチンとすごい音がして、手のひらがジンジンとしびれる。でも手よりも胸が痛くて仕方なかった。

「そんなこと、言わないで。死んでいれば良かったなんて言わないでよ!! あなたは全然汚れてなんていない。死ぬ勇気がないのではないわ。死なないのはあなたが強いから。あたしは見たの。あなたの中に昔のままの強くて優しいあなたがいるのを」

 あたしは肩で息をしながら、ほとんど叫ぶように言っていた。

 あたしはさっき、シリウスの心の奥に、固い殻に包まれた小さな思い出を見つけたのだ。それは、あたしが大事にしていた思い出と同じもの。

 それが、彼を狂気から救い、彼を正気に戻してくれた。

 ――そのことにシリウスは気づいていない様だったけれど。


 シリウスは頬を押さえて呆然とあたしを見ていたけれど、やがてあきれたようにため息をついた。


「どうして、そこで怒るんだよ……僕のことなんてどうでもいいだろう。君は君がされたとこで怒るべきだよ」

「どうでもよくない! どうでもいいなんて言わないで! ……あたしは、あなたが自分のことを嫌いだっていうのが、とっても悲しいの!」

 シリウスは迷惑そうに顔を背ける。

「いいじゃないか、別に。僕のことなんだし。君には関係ないよ。それに、これは……多分どうしようもない。どうしても消えない傷なんだ」

「分からないわ、そんなこと。あたしの力を使えば」

 あたしはシリウスをじっと見つめる。――関係ないなんて、言わせないんだから!

 シリウスは微かにたじろぎ、目を泳がせた。

「……スピカ?」

「父に聞いたの。あなたの傷を消す方法」

「!」

 シリウスは、せっかく元に戻った顔色を再度赤くして、体を強張らせた。

「君は、それがどういうことか分かってないだろう……?」

「分かってないわ。でも、たとえそれがどんなことでも、シリウスがそれで楽になるんなら、あたしはそれでいいの」

 シリウスは赤い顔のままあたしの顔をしばらく見つめていたが、やがてふいと目を逸らす。

「……思い出すんだ。その、そういう状態になると。その時の気持ちとか、いろいろ……。さっきもあのまま続けてたら、思い出してたと思う。僕はあの闇を二度と見たくないし、君にも見せたくないんだ……」

「で、でも、一生そのままではいられないでしょう……」

「……だとしても、僕は君をそういう風に利用したくないよ。これは僕の問題だ。――君まで巻き込めない」

 最後はきっぱりとした口調でシリウスは言った。もうこの話は終わりだとでもいうように。

 そうしてゆっくりと立ち上がると、あたしを見て優しく微笑んだ。

「心配してくれてありがとう」



 あたしは部屋を出て行くシリウスの背中を呆然と見送る。一人残された部屋の中で一生懸命考える。

 ――僕はあの闇を二度と見たくない

 彼はそう言うけれど、……その闇を見ずには、記憶を消す事は出来ない。

 つまり彼の傷を治すには、とんでもない大手術が必要らしい。瘡蓋になった傷口を開いて、膿を出し、また縫い直すような。

 その手術を承諾させるような手段を、いくら考えても、あたしは思いつくことが出来なかった。


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