第2章―2 過去と言う名の鎖
夜がふけていく。館は静まり返り、部屋の中にはシリウスの寝息が微かに響く。あたしの目は昼間のように冴えて、布団の中に入ってもなかなか眠れずにいた。
原因は明らかだった。それは……シリウスの手を握れなかったから。
不思議な感覚だった。自分の身体の中で渦巻いているものがシリウスの手を握っていると消えて行く。心の中で渦巻くそれは、昼間感じているにはまったく嫌なものではない。なんて言えばいいか分からないけれど、感情で表すなら、喜びとか、希望とか、そういう類いの暖かいものだった。だけど夜にそれを感じていると、興奮状態で眠れない。シリウスの手を握ると、そんな状態が次第に落ち着いて、自然な自分に戻れていた。
充てがわれた部屋にベッドは二つ。それは右側と左側の壁沿いに配置されていて、その間には簡単なテーブルが一つ。そんな風にベッドが離れている以上、シリウスのベッドに潜り込まない限り、手を握るなんて芸当は出来ない。
あの冷たい手に触りたい……。
このままウトウトしてしまうときっとシリウスのところに寝ぼけて行ってしまう。そうしたら彼はすごく怒るに決まっている。なんで駄目なのかしら。くっついて眠ったら、あったかくて気持ちがいいのに。シリウスはどうして――。
そんなことを延々と考えながら、あたしは何度も寝返りを打った。
ふと廊下の物音にはっとすると、ドアが静かに開き、大きな丸い影が部屋の中に入ってきた。その輪郭をした人物は、この屋敷では一人しか思い当たらない。
――うわ、ほんとに来た! すごい、シリウスったら。
あたしは思わず体を固くして、息をひそめた。
シリウスのベッドの方から衣擦れの音がして、あたしがこっそりそちらを見ると、彼はベッドから起き上がっていた。
男はシリウスの方へと寄って行ったかと思うと、ベッドに腰を下ろして、シリウスの手を握る。
シリウスは男を見て妖しく微笑む。その瞳が艶やかに煌めいて、ぞくりと鳥肌が立った。
「あなたの望みはなに?」
低く滑らかな声が響く。男はもうシリウスの声のことなど少しも気にならない様子で、じっと彼を凝視していた。
そしてうわごとのように呟いた。
「おまえが、欲しい」
どういう意味? その言葉の持つ響きがなんだかおぞましくて、今度は別の意味で鳥肌が立つ。男に見つめられてるのがあたしだったら……そう思うと余計に。
シリウスは黙って頷くと、男の眼を覗き込んだまま、とどめのように微笑んだ。
「……あなたが探しているという者。誰から頼まれた? 教えてくれたら、いいものをあげるよ」
「メサルチム」
シリウスの笑顔がその瞬間固まった。
直後、男は理性を飛ばしたように、シリウスをベッドに押し倒していた。
あたしは仰天して、ベッドから跳ね上がると、荷物に隠しておいた剣を手に取る。そしてシリウスのベッドに近づくと、鞘の付いたままの剣で、男の首を殴った。
男はそのままシリウスの上に倒れ込み、シリウスはその巨体の下に下敷きになる。
「シリウス!」
あたしは必死で男の体を足で蹴転がすと、シリウスを男の体の下から引っ張り出した。
シリウスはろうそくの光でも分かるくらいに真っ青になっていて、ガタガタと震えていた。
「シリウス? ……大丈夫!?」
あたしは思わず彼を胸の中に抱きしめる。
「え、あ――――!?」
次の瞬間、怒濤のように流れてくる記憶にあたしは今自分がどこにいるのさえ分からなくなった。
あたしはいつの間にか、知らないところにいた。
シリウスがあたしの隣にいて、あたしには彼の心が透けて見えていた。
ここは? 皇宮のぼくの部屋……?
いやだ。ここは嫌いだ。
ここにいると嫌なことばかりだ。
母上も、父上も……先生も、侍女も側近も……。
なんで普通に接してくれないんだ。
なんでぼくをそんな変な眼で見るんだ。
――僕に触れるな! 触れないで!
母上……僕をどうしようというの……。僕はあなたの子供じゃなかったの。
いやだ、そんなことしないで。困る。困るよ。父上になんて言えばいいんだ―――――
父上、助けて! 皆が、ぼくを――
……父上? なんでそんな眼で僕を見るの。僕が知らない人のような……。
父上? な、なに? リゲル? それは母さんだ。僕じゃない! 僕じゃないよ!! ――止めてくれ。 僕は僕だ。シリウスだよ!! やめて!
―――――やめて!!!!
手に熱いものが触れるのを感じて、はっと我に返った。
あたしは泣いていた。どうすればいいか分からなかった。
シリウスは、ただ呆然と涙を流してそこに座り込み、その眼には何も映っていなかった。
これが、シリウスが恐れていた闇――。
なんてひどい。なんてひどいの。このままではシリウスが壊れてしまう……。
あたしは、彼を休ませたくて部屋を見回す。ベッドに転がる巨体を見て、今の立場を思い出し、ここを出ることが先だと思った。
おそらく父は外に待機しているはず。昼間庭の掃除をしている時にそれらしき影を見かけたから。
あたしは窓を開けると、自分の荷物を思い切り外に放り投げた。どさりという音が辺りに響く。
案の定、木の陰から父が姿を見せ、こちらに寄って来た。
「何かあったのか!?」
あたしの顔から察したのか、父は急いで窓から部屋に入ってきた。
「シリウスが……メリディオナリスに襲われかけて……。あたしのせいなの。あたしが、あたしの代わりにシリウスは!」
あたしはそれ以上口に出来ずに、ただただ泣いた。
「泣くな、泣くのは脱出してからだ」
父はシリウスを担ぐようにすると、窓から飛び出す。そして一気に門まで走る。
あたしも荷物を持つと、涙を拭い、それを追った。
ようやく倉庫までたどり着くと、眠ってしまったシリウスを横にならせて、あたしはその側に座り込んだ。
「……父さん、あたし、決めた。シリウスのこと助けてあげる。彼の記憶、消してあげる」
父は、悲しそうにあたしを見ると黙って首を振った。
「なんで? こんなに苦しんでるのよ?」
「分かっている。でもな。シリウスの方が……無理なんだ」
「どういうことよ」
「……さっき見たんだろう? 彼の記憶を。……彼がされていたことを。……俺がいない時だったんだ。俺がいればあんなことには……」
「父さん知っていたの……?」
「……薄々な。あれはいつだったかな。宮に戻ってみたら、雰囲気ががらりと変わっていた。そして俺を怖がるようになって。
……お前がなんとかしてやりたいって気持ちは分かる。でもな、お前が力を使えるようになるためには儀式が必要だ。ヴェガ様が言っていた。母さんもな。お前が成人したら……シリウスと儀式をすればいいと。それでな、……その儀式ってのが、お前がさっき見た、――あれだ」
あたしは目を見開いた。それって……シリウスが、あんな風になった原因……
「……分かるな? シリウスが出来るわけが無いだろう?」
父は苦しそうに顔を歪めたまま、さらに続けた。
「それにな……その行為は、普通、夫婦の間だけのものだ。……お前が、貴族の娘だったら……俺だって止めない。シリウスが望めば、喜んで差し出すかもしれない。
だけどな、お前は単なる平民出の成り上がり騎士団長の娘でしかないんだ。お前の血では妃にはなれない。愛妾どまりだ。そんなお前の前で、シリウスはこれから何人も妃を娶るだろう。お前はそれが我慢できるのか」
あたしは少しの間悩んだ。
でもいくら考えても答えは一つしか無かった。
「――つまりシリウスが望めばいいのよね?」
「おまえ、俺の話聞いてたか?」
父は心底あきれたような顔をした。
「聞いていたわよ。だって、後の部分は、あたしが我慢すればいいことでしょう?」
あたしがそう言うと、父は一転して慌て出す。
「何を言っているか分かってるのか……? お前、幸せになりたいって思わないのか?」
「あたし……もうシリウスを守るって決めたのよ。そのためなら何だってする。報われなくたっていいわ。
……だいたいこの髪じゃ、妃どころか誰のお嫁さんにもなれないのなんて分かってるし」
あたしは短くなった後ろ髪を引っ張って苦笑いする。この短い髪は、あたしの覚悟。髪とともに甘い憧れなんか、切り離してしまった。
「なんでそこまで……」
「分かってるんでしょう、父さんも。……あたし、シリウスが好きなのよ。ずっと前から」
あたしは父の顔をじっと見た。父はあたしの眼を見て何かを思い出しているようだった。
「……まったく、誰に似たんだか。くそっ、こうならないようにってどれだけ気をつけたと思ってるんだ……」
「あら。十年前から気をつけてたの?」
あたしは笑った。父さんは、どこまでも甘い。子供をいつまでも子供扱いしてるから、こういう事になるんだわ。
「……名をもらった時か……。十年……俺に似てしつこいな。分かった。好きにしろ。――ただし、あくまでシリウスが望んだらだぞ? 壊れちまうからな」
あたしはそれを聞いて、問題が解決したと思い込んでしまったのだけれど、問題はそんなに簡単なものではなかった。
おそらく父は――シリウスがそれを絶対に望まないことを、分かっていたのだと思う。