第13章―4
結局、メイサの指示で、風呂に連れて行かれた。スピカはなぜかアウストラリス式の風呂は駄目だと言われていて、汚れた服を着替えただけだった。彼女が汚したのは、大抵が既にどろどろだった僕の服だったので、まあ、問題は無かったけれど。
その間に、表の兵たちの治療を頼んだ。
急所は外したから大抵が軽傷で済んでるはずだったけれど、それでも人を斬ったことの重さは格別だった。あのとき剣越しに感じた衝撃を僕は二度と忘れられない気がした。弓で射た時とは全く違う、直に感じる重みだった。
いままで僕は守られるだけだった。安全なところから敵を眺めていた。全部周りの人間にやってもらっていた。それは、まるで、弓と矢だ。僕の周り人間は僕の矢となって自らの血と人の血を流し、心身ともに傷つき続けた。レグルスやミアー、ループス、そして、スピカも。自らを安全の輪の中に置いていながら、僕は一体何を守ろうとしていたんだろう。
『誰も傷つけたくない』と言っていた自分に呆れる。なんて甘えだろう。僕を守るために放たれた矢は既にどこかで誰かを傷つけているというのに。彼らの抱える重み、それは、自分が『剣』にならなければ知る事は出来なかった。
怯みそうになる度に、スピカの手の傷を思い出した。そして彼女がつけたルティの傷、流れた血の色を。僕はもう甘える訳にはいかなかった。僕は守りたいものを守るための――剣になりたかった。
*
身綺麗になった僕たちは、まとめてシトゥラの応接間に集まった。
奥に席が設えられ、侍従が茶を用意している。
ぐるりと見回すと、目の前にはラサラス王とルティが並んで腰掛け、その後ろにカーラとメイサ。僕の隣にはスピカ。そして僕らの後ろには、イェッドを始めジョイアからの僕の供が囲んでいた。僕が話をしたかった面子が全員揃っている。
この国にやって来た目的を果たす時。僕はようやく切り札を披露できる。
目の前に置かれた冷やされた茶でのどを潤すと、王を見つめ、さっそく本題を切り出した。
「ラサラス王。私は、この度両国の間に出来た溝を婚姻によって埋める事が出来ないかと考え、ここへやってきました」
「え――?」
誰も予想していなかったのだろう。周囲にいた人間がイェッドを除き、全員固まる。
「どういうことだ? 王家には今姫はいないが――それに、スピカを諦めるのか?」
ルティの問いに、僕は少し微笑むと、首を横に振り、はっきりと言う。
「王家に縁のある娘ならいるでしょう。――スピカを改めて私の妃として頂けないでしょうか」
ラサラス王は僕の言葉にもぼんやりと力の無い顔をしていた。どうやら王は、『ラナを思い出した』らしい。スピカが言葉少なに説明するにはそういう事だった。それならば、話は随分と早かった。
そんな王の隣で、ルティがふざけるなと一気に顔を険しくする。
「何を言っているんだか。スピカのどこに王家との繋がりがあるというんだ。――あぁ、分かった。さっき思いついたんだろう。お前、確かラナと親父が恋仲だったと知っていたな? そして今親父の髪の色を見て。スピカが親父の子で、俺とスピカが兄妹だって言いがかりをつける気か。はん、ばかばかしい」
ルティはそう言うと、僕を睨みつけながら茶を流し込む。
「親父は、ラナの代わりに俺の母親と結婚した。そして俺が生まれたんだ。ラナは、ジョイアに潜入したきり、戻らなかった。親父もラナを覚えていなかった。それなのに、どうやって子が出来るっていうんだ? その話には無理がありすぎるな」
僕は少し笑うと、不安そうなスピカの手を握る。――心配しないで。全部うまくいくから。
「確かに、スピカが王の血を引いていてくれたらどれだけ楽だったろうね。これ以上無い良縁だ」
だけど、僕は、やっぱり父親はレグルスのほうがいい。僕はレグルスの息子になれる事を、心から喜んでる。
――僕が言いたいのは、そっちじゃないんだ。
「僕は『スピカは王家に縁がある』としか言っていないよ」
「どう言う事だ? 縁?」
ルティが首を傾げる。僕は、彼から目を逸らすと、横目でちらりと赤い髪の女性を見た。彼女は僕の視線を感じると、怯えたように身を縮ませる。
「ところで陛下。シャウラ王妃がルティリクス王子を出産されたのは、このシトゥラで間違いないでしょうか?」
王は不思議そうな顔をしながら、それでも記憶をたどり、答えてくれた。
「……シャウラの出産? ああ、間違いない。あやつは、身ごもってすぐに里帰りして、そして、子を産むまで王都には戻って来なかった」
「その間、王妃に会われましたか?」
「いや。あやつは体が弱い。あの時も体調がずっと優れなくてな」
「お腹の大きな王妃を誰も見ていないと?」
「ああ、絶対安静でな。私でさえ一度も会えなかったのだから」
僕はその話に頷く。それが聞ければ十分だった。
「ルティ。君の母上は、子を身ごもってすぐに里帰りして、ここで出産したと。その間、だれも彼女を見かけていないそうだって。――僕は同じ罠にはめられそうになったから、この事がどういう事か、よく分かるよ」
そこで言葉を切る。隣ではスピカが愕然とした顔をしてルティを見つめていた。僕は今この場所で、真実を知る唯一の人間に問う。
「君の本当の母親は――王妃じゃない。そうだろう? カーラ殿」
「言いがかりじゃ」
僕は首を振る。もう言い逃れはさせない。僕は話を核心に向かわせる。
「僕は、この間、ツクルトゥルスでスピカを取り上げた産婆に会ったんだ。彼女は言っていた。ラナは、スピカが生まれたとき、『おにいちゃんに似ていない』と言って驚いたそうだ。――つまり、スピカの前に一人子を産んでいる」
目の端では、カーラが気まずそうにラサラス王を見つめている。
「ルティ、君の母上は――スピカと君の結婚に反対し続けている。それは、いったいどういう理由で?」
ルティはようやく『その可能性』に気が付いたのか、呆然としていた。そして、その隣のラサラス王は、まだ察しがつかない様子だった。僕は続ける。
「シトゥラの娘はその力を最大に使って間者の仕事を行うと聞いた。だからその時は、当然だけれど、子供が出来ないようにするはずだ。仕事の内容を考えても妊婦では仕事がこなせるわけが無いから。そして、それは力の制御の儀式でも同じはず――じゃあ、なんで子が出来たのか」
僕はそこで王を見つめる。
「王は儀式に出るラナを引き止められたと聞きました。僕はよく知っていますが、子供というのは、案外簡単に出来たりする――たとえそれが一度の逢瀬であったとしても」
スピカが横で体を僅かに竦ませる。でもそれに気が付かないふりをして話を続ける。彼女とその話をするのは、後だ。
「ラナが子を産んだ。そして、その子は王の血を引いているらしい。王家の血を引く、そして近年まれに見る力を持つシトゥラの娘の血を引く子を、このカーラ殿がむやみに殺すとは思えない。じゃあ、一体その子はどこに居る?」
ラサラス王はようやく事の真相を理解したらしく、目を見開いて、握りしめた手をぶるぶると震えさせていた。
「僕には一カ所だけ心当たりがあるよ。産まれた子は王位を継げる子なんだ。母親が違えど、『王家』で『王子』として育てれば良い。娘を嫁がせようと王子が産まれるとは限らないのだから。――ルティ、君は今21歳だったよね? ラナが最初の子を産んだのは、スピカを産む4年前――つまり、今から21年前だ。これは偶然じゃない」
「憶測じゃ」
「カーラ!」
王が叱責の声を上げると、カーラが身を縮めた。その間を割るように扉が開く音が響き、入り口を見ると、そこには王妃が涙を流しながら立ち尽くしていた。
「もう……やめましょう、お母様。このひとは……思い出してしまったのですから。今さら――隠す必要はどこにもありません。陛下――長い間隠していて申し訳ありませんでした。私とあなたの間に、子はおりません。ルティリクスは、あなたと、ラナの息子です」
部屋の中は静まり返っていた。王妃は貧血でそのまま床に倒れ込み、医者が呼ばれる。砂まみれのところを見ると、彼女もあの後僕と同じように必死で馬車を飛ばしたのだと思う。例によってイェッドが応急処置を施しはじめる。
あのことを打ち明けるのがどれだけ恐ろしかったことだろう。彼女は王を愛していた。自分を見て欲しいと願っていた。だからこそ、長い間、王が唯一愛し続ける女性の息子であるルティの存在を認められなかったのだ。
彼を見るたびにラナの存在を思い知る。それは、僕がルキアの髪を見るたびに、ルティを思い出していたのと同じかもしれない。――いや、王の心が自分に無いと知っていたならば、余計に辛かったに決まっている。
彼女は自分の境遇を呪って泣き続けてきた。王と家の間で板ばさみになって、動きがとれずに、殻に閉じこもっていた。
でも、結局彼女は最後にはルティの母親になろうとした。彼女を母親だと慕ってくれる彼を不幸にしないために。彼女と彼の間には、血のつながりは無くとも、確かに親子の絆があったのだと思う。
僕は王妃の勇気に心から感謝した。
「スピカが……妹」
「ルティがお兄ちゃん……」
呆然と見つめ合う二人を前に、僕は溜めていた息を吐いた。大きな仕事が一つ終わって、心底ほっとしつつスピカの肩を抱き寄せる。
「ルティ、君は『一族』を大事にするんだろう。『妹』の幸せを考えれば、僕に渡すのが一番のはずだ」
まだルティは呆然としていた。許されない恋をした男、それは一歩間違えば僕だったかもしれない。スピカが姉かもしれないと苦しんだあの夜を思い出して、僕はルティに同情した。
そして、僕はまだ喜べない。彼には、どうしても一仕事してもらわなければならない。
「ルティ。スピカの子――ルキアは、僕の子供だ」
ルキアのために。スピカのために。それからレグルス、叔母、父のためにも。ルキアの父親は僕でないといけないのだ。
「……」
ルティは俯いて黙り込んでいた。すぐ返事が出来るはずも無い事は分かっていた。
「答えないなら答えなくてもいいんだ。この先黙っていてくれさえ居れば。もし違っても僕はそれを墓場まで持っていくつもりだ。さっきの『借り』は、これで返して貰いたい。
――ルキアは、僕の子供だ。僕が一番、スピカを愛しているから、だから――」
僕は続けて呆然としたままのラサラス王にも訴える。
「陛下。スピカは、あなたが愛した人の、娘です。僕は、あなたがスピカの幸せを望むと、そう願います」
「……」
王は瞳を天井に彷徨わせたまま答えない。ただ僕の言った事を噛み締めているようだった。
*
僕たちは食事をとるため食堂へと移動した。アウストラリスの郷土料理を存分に振る舞われるものの、酒の席は全く盛り上がらない。王は不調を訴えて、用意された部屋に下がっていたし、王妃も別室で看病されていた。カーラも挨拶程度ですぐに部屋に引き蘢ってしまったし、ルティは離れた場所で酒を浴びるように飲むばかりで、無言だった。そして心配した通り、早々に潰れてしまった。
メイサが仕方なさそうに彼を部屋に運ばせ、食堂に残るのは、僕とスピカとメイサだけになる。
「あなたたちも戻れば? 部屋、用意してあるから」
メイサがそう言って、僕は確認する。
「一緒の部屋だよね?」
「違うわよ? あれ、スピカ、あなたまだ言ってないの?」
「え、あ、そうだった」
なぜかスピカが急に焦りだす。なんだか不穏なものを感じて、僕は急いで話をまとめようとする。
「一緒にしてくれる? 夫婦なんだから当然だろう?」
「……」
メイサは呆れたような顔をするけれど、ここは譲れない。もう待てない。そう主張する僕の隣でスピカがあたふたと口を開く。
「えっと、あのね、シリウス」
「そうだ、言っておかないとって思ってたんだ。もう僕は君に遠慮しないから。――帰ったら寝室は一緒にするからね。それからサディラには残ってもらって、ルキアは預けて……」
そうだ。僕たちはやり直さないと。結婚して、実質0日の新婚生活だったんだから。
「あ、あの……」
スピカがたじろぐ。なんで、そんなに避けるんだろう。僕は念のためにもう一度、彼女の耳を確認する。そこには僕がつけてあげたままに、艶やかな黒い石が光っていた。
僕は髪を耳にかけ、あえて自分の耳の飾りを見せながら、問う。
「もう確認するまでもないと思ってたけど、――君、僕の事、愛してるんだよね?」
「あ、あのね、シリウス」
スピカはそれに答えずに困ったように眉を寄せる。僕は追求を止めない。きっと彼女を殴ったときに、『遠慮』という壁も一緒に壊してしまったんだと思う。
「愛してないの?」
「や、えっと、違うの。愛してるに決まってる。……でも」
「あ゛ーーーー!! もう、部屋に戻ってからやってよね、そういう恥ずかしいのは!! 見てて痒い!」
またもや、べしっと音がするほど頭を叩かれて、メイサを睨む。そういえば、さっきも叩かれた上に、酷い事言われた気がする。確か、イロボケとかバカとか。
「ねぇ、僕一応ジョイアの皇太子なんだけど」
そう言うとメイサは心底呆れた顔で返す。
「まぁ……さっきは見違えちゃったけど……、そういうところ見ると、前と全然変わってないじゃない」
「め、メイサ、お願い、助けて。だって、」
泣きそうなその声にふと見下ろすと、スピカが縋るような目でメイサを見ていた。
「助けてって……人聞きの悪い」
僕はさすがにむっとする。そりゃ、容赦しないつもりだったけど……こうして再会した夜に、どうしてここまで嫌がるのか理由が分からない。
「自分で言いなさい、そのくらい」
メイサがスピカを諭す。その様子は本当の姉妹の様で、妙に微笑ましかった。
* * *
――ど、どうしよう……。
手を少々強引に引かれながら、部屋に向かう途中、あたしはずっとどう切り出そうか悩んでいた。
メイサはシリウスの要望通りに部屋を一緒にしてくれていた。
彼は間違いなくあたしを求めてくるはずだけど、あたしは彼を拒むしか無い。この間やっと動く許可を得たばかり。いいか悪いかなんて医者に聞くまでもない。
彼にそう伝えた時に、彼が喜ぶよりも先にがっかりするのが分かって申し訳なかった。だって、もう心を読まなくても分かるくらいに焦れてるのに。
部屋に入ると、彼の肩越しに満月を写したガラス窓。シリウスが扉を閉めると、廊下から入り込む燭台の明かりが遮られ、部屋は柔らかい月の色一色に染まった。
すぐに抱きしめられるかもって覚悟してたけれど、意外にも彼は頬をそっと撫でただけだった。
「スピカ……ごめん。痛かった?」
「――ううん。痛くなかった。ありがとう。あのまま怒られない方が、あたし、辛かったかもしれない」
たぶん、シリウスは、あたしの罪悪感を軽くするために無理して怒ってくれたんだと思う。あのままただ許されていたら、あたしがいつまでも引きずることが分かってたのだ。そういうところが、どこまでも優しくて愛おしい。
そう思って見つめると、彼は焦ったような顔をしてそっぽを向く。
「ありがとうなんて……あれはただカッとなっちゃったんだよ。だって君は隙がありすぎるんだ。――ほら」
ごまかすように言うと、彼はあたしを横抱きにしてベッドに運ぶ。「こんな風に」
ベッドに置かれるとすぐにその重みで体の動きを封じられる。口づけが首筋に降る。体が痺れるのが分かって、そんな自分に驚く。
「シリウス、だめ」
そう拒むけれど、言葉が力を持たない。
「なんで。もう、待てない。僕はあの夜の続きをずっと待ってた。二月の間、ずっとだ」
そう言うと、彼はあたしの耳飾りを外す。そして自分の耳からも外すと、緑色の石をあたしの耳につけた。
「毎晩この夜を取り戻すことを考えてた」
あたしは胸が痛くて目を瞑る。とたん瞼にキスされるのが分かる。ただそうされただけなのに、あっという間に体が熱くなり、あたしは泣きそうになる。
どうしよう、あたし――彼に抱かれたい。
「君は違うの?」
「ごめんなさい。あたし――」
「なんで謝るの。まさか――君、本当はルティのこと」
あたしは慌てた。違う、ちがう!! そうじゃなくって! あたしは観念して、口を開く。――どうか、喜んでくれますように。
「あのね…………ルキアはお兄ちゃんになるの」
「え」
体をなぞり始めていた手がぴたりと止まった。彼はあたしの首筋に顔を埋めたまま、固まる。
しばしの沈黙の後、彼は顔を上げる。そこには引きつった笑顔を浮かんでいた。彼は何かを堪えるように、でも精一杯明るく振る舞いながら言う。さっきまでの勢いと熱はあっという間に削がれてしまっていた。
「あ、あぁ……そ、そうか……それで。二月も居たんだもんな……。ごめん。僕が迎えにくるのが遅かったから……。あ、でもどうしよう、ルキアについてはさっきルティと交渉したけど……もう一回かな。うん、でも大丈夫だから」
あ、すごい誤解してる! しかもかなり最低な誤解! もしそうだったら、いくら何でも、二度とシリウスの前に立てないわよ!
あたしは慌てて付け加える。
「あのね、今三ヶ月なの」
「え――、え、ってことは……」
曇っていた彼の顔が一気に輝いた。あたしはついでに他の誤解も解いておく。だって、さっきの発言を聞いても、絶対、絶対気にしてるから。
「あなたの子よ。この子が居たから、あたしはルティのものにならずに済んだし、死にたくても我慢できた。きっと、この子はシリウスの代わりにあたしを守ってくれたんだと思う」
「スピカ――スピカ」
彼は堰が壊れたようになる。力一杯――でもお腹を避けてあたしを抱きしめると「死にたかったの?」と問う。
あ、……余計な心配させちゃった……。そう思いつつも素直に頷いた。我慢しないことを彼は望んでいたから。
「あなた以外のものになるくらいなら死んだ方がましだったの」
「……死なずに居てくれてよかった。本当によかった。――ありがとう」
彼はあたしのお腹をそっと撫でると呟く。そうして二人、しばらく黙って抱きしめ合った。
やがて彼が困ったように頭を掻く。
「……そ、それにしても……また新婚生活がお預けなのか……」
あ、やっぱりがっかりしてる。
「ごめんなさい」
「いや……僕のせいだし……」
肩を落としたシリウスを慰めてあげたくて、軽くキスをすると、彼は余計に眉を下げる。「たのむから……あんまり刺激はしないでくれる?」
しゅんとしたシリウスは、あたしのよく知っているシリウスだった。
あたしは、ずっと聞きたくて、でも胸につっかえてどうしても言い出せなかった事をようやく尋ねることができる。
「……ルキアは元気? あたしの事忘れちゃったかしら?」
「元気だよ。きっと君の事待ってる。あ、もうそろそろ立てるかもしれない。つかまり立ちは上手になったんだよ。ご飯もたくさん食べるし。よく笑うし、おしゃべりもたくさんする。それから、夜も起きないようになったんだ」
嬉しそうに話す彼を前に、あたしは、途中まで見た過去の幻を思い出す。ルティは『泣き止めよ。お前の泣き顔は、最悪だ』そう言った。彼がどうしてあたしが泣くのを嫌うのか、さっきの王妃の姿を見てあまりにもよく分かってしまった。あれは鏡に映ったあたしと色が違うだけだった。つまり、そういうことなんじゃないかしら。確信が持てればシリウスにも伝えるけれど、きっとルキアは――
でもシリウスはもうルキアの血筋については問わない事にしたらしい。さっき言った通りに。『ルキアは、僕の子供だ。僕が一番、スピカを愛しているから』
彼はそれでいいと決めてしまったのだ。でも――そう簡単にはいかない。ルキアの髪の色を見て、ヴェスタ卿をはじめとするジョイアの貴族は黙っていないだろう。
そしてルティも王も頷いてくれるかどうかは――まだ分からない。
「……どうするの?」
彼はあたしの曖昧な問いの意味もすぐに分かってくれた。
「任せておいて。きっと全部うまく行くから」
彼がそう言ってあたしの大好きな笑顔を浮かべる。あたしは頷くと、その胸に猫のように頬をすり寄せて甘えた。彼は妙に嬉しそうに「やっと本当に甘えてくれた」と呟きながらあたしの髪を撫でる。
――彼がそう言うのなら、きっとうまくいく。あたしはその未来を信じていいのだ。