第13章―3
「いい? くれぐれも無理しないこと。一人の体じゃないんだから。分かってるわね?」
あたしはしっかりと頷く。でも心の隅っこに何か不安が引っかかっていた。それを振り払いたくてメイサに問う。
「ほんとうに大丈夫かしら」
「ルティの方は大丈夫……のはず。いくら急いでも王都まで往復すれば十日はかかるもの。あと五日は帰らないわ。問題はおばあさまの方。おばあさまが出かけてるなんて、こんなチャンス滅多に無いんだから」
「大叔母さまはどこへ?」
「お客様がいらっしゃるとかで迎えに出られたみたい……『準備が間に合わぬ』って、なんだか慌てていたけれど。こんな辺境の地に誰が来るのかしらね。──とにかく、急ぎましょう」
「うん、そうね」
あたしはお腹を庇いながら、そっと部屋に入る。中は真っ暗だった。
母の部屋。最後に入ったのは一昨年の冬だった。いつから閉め切っているのだろう。黴臭く、生温い空気がまとわりつき、一瞬吐き気がした。やっぱり本調子にはほど遠い。
それでも、お医者様からようやくベッドから降りる許可を得ることができていた。それは昨日の夜の事だった。
あれからあたしはとにかくお腹の子供のために、気を緩めると胃から逆流しそうな苦い薬も我慢して飲み続けた。毎日入れ替わる『食べられるもの』を探して食べ(昨日は食べられたのに今日は駄目、みたいな事が多々あった)、体力もつけようとした。とにかく必死だった。
あたしが動けるようになったことを知ったメイサが、こっそりと部屋の鍵を手に入れてくれた。彼女は「個人的興味よ」なんて言いながらも、結局はあたしの力になってくれる。まるで姉のようで、心強かった。
そして今日。出かけた大叔母の隙をついて、ようやく、ここまで辿り着いた。
──自分の目で見て、自分の耳で聞いて判断しろ──
父がよく言っていたのを思い出す。あたしは、ルティの話を鵜呑みにして、それを怠った。まだ、絶望するのは少しだけ早い。怖いけれど、望みを完全に否定するのは嫌だった。
メイサは廊下に残って部屋の前を見張ってくれていた。あたしは窓辺に寄ると分厚い緑色のカーテンを開ける。昔あたしの脱走のせいで塞がれていた窓も、覆いが取り払われていた。複雑な模様の入ったガラス窓から差し込む光はオレンジ色。立て付けの悪い窓を僅かに開くと、夕暮れに近い少しひんやりした風が光とともに部屋に入り込んで来た。
あたしはベッドに座ると目を閉じ、心を落ち着かせる。──大丈夫。もし見えたものがルティの言うような事であっても、真実を知らないよりは良いはず。あたしは、何も知らない事でこうやって枷を付けられているのだから。とにかく──ルキアと、お腹の子供を守るために強くならないと。
大きく息を吐くと、指先に集中する。体中に散らばっている力を血とともに集める。やがてそこにはぼんやりと熱が産まれる。熱を馴染ませるようにそっとベッドの柱にあてがった。
『おい、火を焚け──それから湯を沸かせ』
慌てた様子のルティが部屋に飛び込んで来た。その腕の中には毛布にくるまれぐったりしたあたし。その顔は真っ青で血の気がほとんど無かった。
彼はあたしをベッドに置き、上着を脱ぎ捨てると僅かに毛布を剥ぐ。毛布の中のあたしは既に何も身に纏っていないようだった。肌の青白さ、そのあまりに生気のない様子にぎょっとする。まるでもう命が消え去った抜け殻にも見えた。
ルティの肌が重なる。日に焼けた腕があたしを抱きしめる。
──見てられない──
胸が痛くて息が出来なかった。一瞬指先が浮き、止めどなく流れ込んでいた記憶が淀む。あたしは歯を食いしばって、意地で踏みとどまろうとした。細く息を吸うと、右手でお腹をさすり、左手でしっかりと柱を握り直す。
周りを見回すと、あたし達を気にしつつも、暖炉に薪を追加したり、毛布を運んだり、侍従が忙しく働いている。ルティはそんな中でも厳しい表情であたしを抱きしめて、青白い腕をさすっている。
『くそっ、ジョイアみたいな風呂があればな』
ルティは一瞬の躊躇の後、侍従に下がるように命じた。ベッドの上、二人きりになるのを見て、あたしは息を呑んだ。ここまでは、予想できていた。ここからが──問題だった。
そうして彼はあたしと共に毛布にくるまる。その頬をあたしの頬に押し付け、祈るように呟きながらあたしを抱きしめ続ける。
『スピカ、スピカ、おい、死ぬなよ? 君は俺のものだ。十年かけてやっと手に入れた──絶対死なせないからな』
ふっと時間が飛ぶ感覚があった。今の時間で二呼吸ほどの後だった。実際はどれだけの時間だったのか分からない。あたしとルティは変わらず毛布にくるまっていて、ルティは少しウトウトしていたようだった。
あたしの顔色は随分良くなっていて、毛布からはみ出る指先は、血の通った赤い色をしていた。
ふいにあたしの体がぴくりと動き、ルティが目を開ける。そして様子を見ようと顔を近づけた瞬間、あたしの唇が動いた。
『シリウス』
ルティが一気に、顔を険しくする。そんな彼に気づく事無くあたしは、泣きながら彼に縋る。
『もう二度と離れたくない』
彼の胸が涙に濡れ、彼の顔が苦痛に酷く歪む。あたしは口にした言葉通り、彼に必死で抱きついてシリウスの名を呼び続けている。ルティは、ひどく不愉快そうにベッドに身を伏せるとあたしの耳元で小さく囁いた。──その直後だった。
ギイと何かが軋む音に現実に連れ戻される。ルティの言葉の意味が気になったけれど、音の含む嫌な感じに考えを中断せざるを得なかった。柱から手を離し、流れ続ける幻影を一度振り切って目を開く。目の前では、いつの間にか一人の男性が、窓から部屋に入り込んでいた。その姿にぎょっとして立ち上がる。え、あと五日は帰らないって──
「──ルティ?」
いや、違う。彼じゃない。一瞬赤く見えたその髪は、夕日のせいだったらしい。影に進むとその色があっという間に入れ替わる。この人は────
「こんなところに隠しておくとは。やはりルティリクスは随分とお前に執心してるようだな」
一歩近づきつつ、笑ったその瞳の色は、あざやかな青。そして夕日が去ったその髪の色は──あたしと同じ、光が溢れるような蜂蜜色。
「う、そ」
「カーラはどうしてもお前を『王妃』にしたいらしいな。お前はここに居ないと言い張った。──あの権力の亡者が」
吐き捨てるように言うと、ラサラス王はまたあたしに一歩近づく。
「ふん、あやつは『側室』では満足できぬらしい。シャウラを私に嫁がせるだけでは足りず……二代続けて王家を牛耳るつもりなのだろうな。ルティリクスの王位継承が決まってから、どうもきな臭い動きを見せる。昔からカーラとはそりが合わなかった。孫のルティリクスの方が扱いやすいと計算して、もう私を見限ったのかもしれぬな」
ふふふとルティにそっくりな顔で笑いつつ、さらに一歩詰められる。
あたしは思わず後ずさろうとして、ベッドが後ろにあった事に気が付く。
「あっ」
足を取られ、ふらついたかと思うと、そのままベッドに腰掛けてしまう。王がすかさず間合いを詰め、あたしの腰の脇に手をついた。
「甘く見られては困るな。私は、欲しいものは全て手に入れると決めている。そうしたいからこそ、玉座を手に入れたのだから」
「あ、あたしをどうなさるおつもりです」
「決まっているだろう?」
馬鹿にしたような声と溜息が髪の毛を揺らした。あたしは、少しでも王と離れたくて、後ろに身を引く。──あ、メイサに助けを……、そう思って扉にちらりと目をやるのを見て、王が軽く笑う。
「──あぁ、助けを求めても無駄だ。供に命じてこの部屋には誰も近づけないようにしている」
あたしは王から目を逸らす事が出来なかった。力負けして、目を逸らしたとたんにきっと食いつかれてしまう。
ただひたすらに怖かった。──この人は、何か大事なものが欠落している。どこかに置き忘れて来てしまっている。だから、あたしが泣いてもきっと容赦しない。子供の事を訴えても、逆にお腹を殴られそうな、そんな気さえした。
王はあたしを飢えた獣の目で見つめ続ける。炎のような熱が青い瞳の中で渦巻いていた。
やがてその口から掠れた声が漏れる。王者の面はいつの間にか剥がれ、代わりに少年のような表情が現れていた。急激に思い出す。この表情は、もしかして──
「そうだ、その目だ。俺はその目が気に入った。その目がどうしても頭の中から離れなかった。お前の内面はその眼差しのように激しいのだろう? ──もっと俺を見ろ。その瞳で」
王が僅かに身を屈め、肩越しに沈みかけた真っ赤な夕日が現れる。全身が赤く焼かれる。息は既に触れ合い、そのまま唇が落ちてきそうだった。やがて彼はゆっくりと言い聞かせるように口を開いた。
「お前は、俺のものだ、──『ラナ』」
*
「眠れないのですか」
イェッドの声が後ろからかかる。僕は窓の外を見つめたまま頷く。馬車の揺れに伴って、少しだけ欠けた白い月が目の端で揺れた。
「いざというときに動けませんよ。せめて横になられて下さい」
言われて大人しく横になってみる。
──あれから数日ろくに眠っていなかった。
馬車に揺られ続け、体の節々が痛む。少し熱を出しているかもしれない。乾いた喉がひたすらに水を求めた。
頭を掻くと、僅かに砂がこぼれ落ちる。窓は閉じていたけれど、隙間から入り込む砂埃は馬車の中にいつの間にか砂の山を作っていた。全身砂にまみれ、長い髪は所々束になって固まってしまっていた。水の無い砂漠の旅は僕の心も体も干涸びさせようとしていた。
僕たちはエラセドを逃げるように後にした。シトゥラへ向かう口実は『名代のルティリクス王子の到着が遅れているため、こちらから向かう』というもの。前々からの予定に、ムフリッドの訪問も入れていたので、強引にそれを通させてもらった。
実際僕はルティが戻る前に王城を発った。ルティが戻れば、シトゥラに向かう口実を失うからと、準備もせずに馬を借りて城を飛び出そうとしたけれど、王妃に止められた。馬よりも馬車を使えと提案されたのだ。この国では皆そうすると。夜中駆けるのが一番早いのだと。
確かに王妃の言う通りだった。体は辛いけれど、進みはエラセドへ来たときよりも随分早かった。しかし、進めども進めども、王に追いつく気配がなく、案内の従者に「あの山を越えればムフリッドでございます」と言われて、焦るばかりだった。
「これだけ追いつかないという事は、もしかしたら砂漠の道を行かれているかもしれません。地元の人間しか知らないような道があるのかもしれませんし……いつの間にか抜き去っている可能性だってあります」
イェッドの慰めも役に立たない。彼は甘い香りのする薬湯を差し出すけれど、僕は断る。煎じてもらう薬も昂りすぎた神経を休めてはくれないことが、ここ数日で分かっていたのだ。
それから、ルティともすれ違わないのが気になった。王妃に聞いたところ、彼は昔は王都との往復で主に馬を使っていたけれど、ここ二年ほどは馬車が増えたそうだ。だから途中ですれ違うかもしれないと言われたのだけれど……一体どういう事だろう。馬で砂漠の道を行ったのだろうか。
分からない事だらけで、気ばかりが焦った。
山の麓に差し掛かった時、右頬に暖かい光を感じた。目を開け、顔を上げると、山の陰から真っ赤な朝日が昇るところだった。──夜が明ける。おそらく、今日中に何もかもに決着がつく。だから──
目の端で朝日はどんどんその色を変える。焔色から、──金色へ。それが何かの予言であればいい。僕はひたすらにそう願った。
*
最初に異変に気が付いたのは、イェッドだった。
「──この音は」
そう言われて僕も耳に刺さる鋭い音に気が付く。この堅い音は──剣の音? 不穏な空気に僕は身を引き締め、馬車の隅に置いてあった弓を手にする。まさか使うとは思わなかった、──使う事があってはいけないと思っていたのだが、念のため持って来ていたのだ。引き慣れた弓、こればかりは現地調達というのは難しい。
弓を張り、矢をつがえる。腰にも剣を佩いていたけれど、こちらを使うのは、きっと、命のやり取りをするとき。出来れば使いたくなかった。
馬車が止まり、馭者が恐れを含んだ声で僕に告げる。
「シトゥラ家です。しかし──通れません」
窓から顔を出すと、高い塀に囲まれたシトゥラ家の門前で十数人の兵士が一人の男を取り囲んでいる。赤い夕日に全身を染めるその男は──
「ルティ」
掠れた声が出る。弓を持った手がじっとりと汗ばんだ。
ルティがここに居る。その理由にはすぐ思い当たった。彼は王子だ。情報網は多い。おそらく僕と同じ理由で慌ててシトゥラに戻った。そして、こうやって足止めを食っている。
世継ぎの王子がこんな目に遭うとしたら、それを命じるのはこの国ではもう一人しか居ない。今はルティと一人の女性を争っている人物。──僕は、まさか、間に合わなかったのか?
『通せ』
『なりませぬ。王命でございます。絶対に誰も通すなと。殿下には王都でお役目がございますでしょう』
ルティは胸元から書簡を取り出すと地面に投げ捨て、足で踏みつぶす。
『は、王都に戻る途中で受け取ってみれば──シリウスの相手をしろだと? ふざけるな。今まで来なかったあの腰抜けが、今さら来る訳がない。あの人は、こうやって俺の留守の隙をつくつもりなんだろうが、好きにさせてたまるか!』
ルティは、ひたすらに兵と剣を合わせる。随分長い間戦っているのだろう。地に倒れている兵士は既に十数人。彼の顔には明らかに重たい疲労が染み付いていた。
背後からの剣も簡単に避け、振り向き様に剣を持つ手を払うその剣筋は、レグルスによく似ていた。僕も学んだ──相手の覇気を削ぐ剣。彼があんな風に戦うのは見た事が無かった。
「……なぜだ?」
おかしい。大体、そのへんの兵など、ルティの敵ではないはずなのに。武術大会で彼がレグルスを一瞬で倒してしまった事を思い出し、違和感を覚え、──ふと彼が足を庇っている事に気が付く。
あれは──そうか、あの時の傷だ。スピカの手が使えない事を考えると、彼女以上に深かったあの傷が影響しない訳は無い。
そんな状態でも彼は、一人、二人、と兵を地に伏せさせ、歯を食いしばり、シトゥラの屋敷を睨む。
『通せ。──通せ! あの人には、これ以上何も奪わせない!』
「皇子……」
イェッドが、僕と護衛の二人とを順に見る。ミアーもループスも剣に手をかけたまま、指示を待っている。六つの目が僕に問いかける。──あなたは、どうされるのですか。
『ここは、どうか──お引きくださいませ!!』
叫び声に視線を戻すと、兵の剣がルティの剣とかち合い、周りの空気が割れた。直後、彼の持つ剣が天を切り裂くような鋭い音を立てて、折れる。欠けた刃が夕日を反射しながら空を飛ぶ。すかさず、後ろに構えていた兵の一人が雄叫びを上げながら、ルティに襲いかかる。
もし、ここで、彼が倒れれば──
ちら、とこの間見た悪夢が僕を襲う。躊躇いは一瞬だった。僕はぎりと弓を引き絞った。
少し離れたところには、僕が射た矢に地面に縫い止められ、呻いている兵が居た。出来るだけ傷付けたくなかったけれど、戦力は削がなければいけなかった。傷ついた兵の姿を胸に刻みながら、大きく息を吐く。
「なぜ、助けた。お前、俺を殺したいんだろう?」
背中でルティの声が聞こえる。さっき僕を見た彼は、酷く驚いた顔をした。本気で僕がここに来ないと思っていたらしい。そこまで腰抜けと思われていた自分がやっぱり悔しい。
僕は、振り返らずに答える。
「うん。でも、今は助けた方が得策だろうって」
「親父の事か?」
「まあ、それもある。僕がここを突破すると問題が多過ぎる」
「そういうことか」
僕には盾が必要だった。僕が王の侍従と一戦を交えるとなれば、両国ともただでは済まないから。名目が必要だ。それに、今は戦力は少しでも多い方がいい。
「──お前に助けられるくらいなら斬られた方がましだ。どうせ、あいつらも俺を殺ろうとは思ってない。足止めさせればいいんだから。殺りに来たら殺れるのに……だから面倒なんだ」
「せっかく助けたのになんだよ、それ。大体、それ以上傷を増やすと、戦えなくなるよ」
「は、これくらい、何でも無い」
「実は、馬に乗るのも辛いのに?」
「……」
そう言うと、弱みを知られたのが悔しかったのか、ルティはようやく黙った。僕は周りを見回す。──門前にはあと五人。両脇に五人。イェッドを除くと、こちらは四人。
門を睨む。今は、前さえ突破できればいい。剣を中段に構え、じりと一歩足を踏み出すと、兵達も同じく剣を構え直す。その刀身が夕日にぎらりと光る。彼らを睨みつけたまま、背中の男に声をかけた。
「ほら、早くやってしまおう。──スピカを助けないと」
「ああ、そうだな」
僕は笑う。そしてしっかりと言い切った。
「言っとくけど、さっきの借りはしっかり返してもらうから」
「それとこれは話が別。スピカを返して欲しいなら、いっそ、ここで殺れ。今くらいしか、お前が俺をやれるチャンスは無いんだからな」
「……」
どこまで本気か分からない挑発には乗らず、僕は肩をすくめ小さく息をつく。そしてミアーとループスをちらと見ると、彼らは不敵な笑みを浮かべて頷いた。剣を構え直すと、深呼吸した。──ルティとの決着は、スピカを助けてから。
「皇子! 後ろはお任せください」
その声と同時に、僕は駆け出す。
「──突破する!」
*
『ラナ』
その言葉は、彼の呪縛を解く鍵だったのかもしれない。昔、彼はこの部屋で、この名を呼んだのだ。
王は自分で言ったその言葉に、目を見開いた。
「ラナ? ラナ、ら、な」
名を呼ぶ度に、王の中で過去が蘇っていくのが目に見えて分かる。
「うそだ……なんで、俺は……お前を忘れていた? 俺は……きっと、長い間、お前を捜し続けていたんだ」
そう言いながら、彼は自分の手を見る。そしてベッドの脇の姿見で自分の顔を見て、そのルティに似ている、でもやはり老いた端正な顔を歪ませる。
「俺は……こんなに年老いた。お前は昔のまま、あのときのままなのに」
そう言うと彼はあたしの頬に手を添える。その手から戸惑いが伝わって来た。
「陛下」
「なぜだ。なぜ名で呼ばない。ラサラスと呼んでくれないのか。――当然か。俺がお前を忘れていたことを怒っているのだな」
あたしは首を振る。あたしも、シリウスが記憶を失ったとき、悲しみはしたけれど、怒りはしなかった。
母だって怒っていなかったはず。母は知っていた。間者と王は結ばれる事は無い。記憶が消えた後、自分たちがどうなるか分かっていて、あえて、彼の腕に抱かれたのだ。――この人と、国のために。
『私は、この人の傍に居るべきじゃない』
母の声が聞こえた気がした。母の過去が自分と重なって、胸が痛かった。――母さん。あなたは、多分間違った。この人の恨みの元は、全部、あのときに作られてしまった。この人は本当に欲しいものを手に入れたと誤解していた。でも本当には手に入れていないから、心の底ではそれを知っているから、ずっと欲しがったままなのだ。長い年月、その歪みを抱える事で、心までもが歪んでしまった。
そしてその心の歪みが、今のアウストラリスを作り上げている。なにもかもを手に入れないと気が済まない、そして、手に入れるためには何でもする――この国から滲み出る想いは、きっと彼から発せられている。
あたしも、きっと間違った。母と同じ間違いを犯していた。あたしがいなければ、シリウスが幸せになれるって、そう思っていた。
でもこのラサラス王の姿は、もしかしたら、シリウスの未来の姿かもしれない。
『君がいないと生きていけない』
あたしは――彼に愛されていた。彼はあたしの事を、魂の片割れだと、信じて疑わなかった。そう知っていたのに。
片割れを失った人が、どれだけ苦しむか。あたしは今目の当たりにしていた。
あたしは、間違った。
でも、まだ――――取り返しは付くのかもしれない。メイサに言われた事を思い出す。『皇子さまに謝りなさい』
許してもらえないかもしれない。でも、あたしだって信じてる。彼があたしの魂の半身だと。あたし達は、二人で立つ事で、きっともっと強くなれるのだ。あたしは、強くなりたい。彼のために、そして――子供達のためにも。
「ラナ。何を考えている? やはり俺を許してはくれないのか」
王の心は今、過去を彷徨っているのかもしれない。ラサラス王は十代の子供に戻ったような表情をしていた。ただ純粋に恋をしている少年の顔。今までの王者の顔が嘘みたいに、心細そうに、あたしの答えを求めている。
あたしは、少し躊躇ったけれど、王の頭を引き寄せ、そしてその髪をそっと撫でた。
「陛下」
「ラサラスと。ラナ」
残酷な事だとは分かっていた。でも、ラナは、もう居ない。幻は、いつか消えてしまうのだ。手を離したとたんに消える、過去の幻影と同じように。
「いいえ。――陛下。ラナはもう居ません。私は、ラナの娘、スピカです」
その言葉が部屋に響き渡った時、ガラス窓の向こうの夕日が地平線に沈んだ。顔を照らしていた赤い光が、消え去る。髪が元の金色に戻り、彼の瞳に映るラナは消え去る。それは、神が与えてくれた、ほんの一瞬の逢瀬だったのかもしれない。
「ラナ――――」
一気に泣き崩れるラサラス王を、あたしは思わず抱きしめていた。せめて――『ラナ』の代わりに、この小さな少年を慰めてあげたかった。
王の涙が治まる頃、突然、扉が大きな音を立てたかと思うと、内側へと打ち破られる。
「な――――!?」
蹴破るようなその乱暴なやり方に驚いて、目を見開くと、そこには今度こそ赤い髪の男。体中を血と泥まみれになった彼は、あたしの胸に縋り付いている王を見て、その顔を強ばらせた。
「父上――――」
ふと見ると、その手には、血糊がつき、刃こぼれしたぼろぼろの剣が握りしめられている。今にも切りかかってきそうな彼にあたしは慌てる。だめ! こ、これは、なんていうか――誤解なのよ! そういうのじゃないの!
あたしは慌ててラサラス王を離すと、立ち上がる。
「え、あの、ルティ、違うの!! これは――――」
彼を止めようとした直後、彼の陰から現れた黒い人影が、ルティの一歩前に出て彼を制する。それをみて、あたしは何を言おうと思っていたか、それどころか、ここがどこなのか、自分が誰なのか、それさえも忘れるところだった。
「う、そ」
「――なにが?」
彼は怒りを滲ませた目であたしを睨みつける。頬は強ばり、眉間に深い皺が刻まれている。ここまで怒った顔の彼を見たのは、初めてだった。
その迫力に、あたしは思わず一歩後ずさってしまう。
それを見て、さらに彼の顔が険しくなる。
「スピカ」
一歩距離を詰められ、あたしはまたもや一歩下がる。
「し、し、シリウス!? な、なんで、こ、こ、ここに居るの!?」
状況がまるで理解できない。
なんで、なんで? なんでシリウスが、アウストラリスに居るの? 今って、国交が閉じてるはずでしょう? 彼が閉じさせたんでしょう? 当の皇子が簡単に来れる訳が無いのに――。あたし、あまりに彼が恋しくて、幻を見てるのかもしれない。
現実かどうか分からなくなって、落ち着こうとする。そして彼が本物かどうか確かめようと、彼をじっと見つめた。
シリウスは、ルティと同じくらい血と泥にまみれていて、真っ黒なはずの長い髪は砂だらけで、色が白っぽく変わっている。まるで、砂漠を旅して来たような――
そうやって言葉も無く見つめている間に、いつの間にか、彼が目の前まで歩いて来ていた。手の届くところに――シリウスが居た。埃にまみれた彼だったけれど、相変わらずその瞳だけは、何物にも染まらない闇の色をしていた。
「うそでしょ。だってそんなはず無いもの。――あなたはあたしを忘れたんだもの。じゃあ、これは……夢?」
思わずそう呟いた時だった。
ぱちん、と頬が鳴った。
何が起こったか分からなかった。頬は確かに痛いのに――今度こそ、本気で夢だと思った。
え?
え?
ええ?
彼は呆然とするあたしを引き寄せ、なぜかあたしの耳たぶを引っ張って――直後、力一杯抱きしめる。かと思ったら、続けて唇を奪われた。痛いほどに頬を押し付けられ、言葉も呼吸も奪われる。
「ん――――!?」
静まり返る部屋の中、小さく「はぁ……」となんだか聞き覚えのある溜息が聞こえ、横目で見ると、たくさんの人の中に見知った顔があった。――イェッド!? じゃあ、やっぱり、これは本物のシリウスなんだけど……でも!
虫も殺せないような彼が、血にまみれてシトゥラに現れて、あたしを殴って、――そしてこんな大勢の人の前でキスしてる!
今までの彼を思うと、あまりに有り得ないだらけで、やっぱり幻を見ているような気になった。
もう、何がなんだか、訳が分からない。
ふいに唇が離れ、我に返る。頬に落ちて来た雫に驚いて見上げると、――彼は泣いていた。
「――僕は、怒ってる」
彼は涙を拭おうともせず、その濡れた黒い目であたしを食い入るように見つめ続ける。
「僕の気持ちが分からないんなら、いくらでも読めばいいよ。この二月――僕がどんな想いで」
言葉を詰まらせると、彼は再び口づける。そして火のように熱い怒りを唇ごとあたしにぶつけた。
――君は僕が来ないって思い込んでたんだ? 僕が君を忘れる訳が無いっていうのに。僕は君が待っているって思って必死で――……ひどいよ。あんまりだ。ルキアも置いていって、シュルマを妃にしようとして……。一緒に頑張ろうと思った僕が馬鹿みたいだ。シュルマも勝手だって怒ってた。
「ご、ごめんなさ」
唇の角度が変わるその隙間から謝ろうとしたけれど、すぐにまた言葉を奪われる。
――大体、君はいつもこんな目にあってばかりだ。なんで、もっと自分を大事にしてくれないんだ。ルティだけでなく、今度は王だって? ……いっそのこと、全員追い出して、このままベッドに連れて行こうか? そして、君が誰のものなのか、皆に思い知らせてやろうか?
流れ込んで来た極端な思考にぎょっとして、もがく。でも、いくらもがいても、彼は気が済むまであたしを離すつもりはないようだった。
やがて、ごつんと言う音とシリウス越しに軽い衝撃を感じたあと、突然腕が緩む。
「――このイロボケバカ皇子」
しっとりした声がシリウスの肩越しに響き、ようやくあたしは解放された。え? 今なんて――? 有り得ない言葉に耳を疑った。声が上品だったから余計に。ねぇ、それって、皇子の前につけるような言葉?
シリウスは頭をさすりながら迷惑そうに振り向いた。そして彼女を見て、なあんだと表情を少し緩ませる。
「あぁ……メイサだ、久しぶり」
メイサはそれを聞いて、怒った顔でげんこつを構える。
「久しぶりじゃないわよ。何してたのよ、今まで。ああ、それから――もう! スピカを離しなさい! そんなどろどろの恰好で――体に障るじゃない。いい? スピカはね――」
その言葉に、はっとする。見下ろすと彼の服に付いていた汚れがあたしの服にもしっかりと移っていた。その赤黒い血の色を意識したとたん、口の中が苦くなるのを感じた。どさくさで忘れていた体の不調を急激に思い出す。ああ、それに、今こういうのは……胎教に悪いんじゃ……。
シリウスが怒った顔をあっさりと止め、心配そうにあたしの顔を覗き込む。あ、いま、ちかづいちゃ、だめ。――危険!
「スピカ? そう言えば、顔色悪……う、わ――――!!」
もう、何回目なんだろう。慌てて口をおさえたけれど、間に合わず……シリウスに謝る事がさらに一つ増えてしまった。