第13章―2
「ああ、皇子、その耳飾りは」
「いいんだ。それより……面倒だな。ミアー湖を行けば三日と聞くのに」
僕は不満げなイェッドの視線を振り切って話題を変えようとする。
イェッドは僕の耳をじっと見つめてため息をつく。そして一言だけ文句を言った。「着けて下さいとお渡しした訳ではありませんが。――まるで似合っていませんよ」
「髪で隠れるから別に良いだろう」
それ以上の苦情は受け付けない。空になったままの耳に何か着けるとしたら、これが一番落ち着いただけ。僕は見ないのだから、いいんだ。見せたい人は一人だけだし。耳を髪で隠すと、馬車の椅子に沈み込む。
これは、スピカの残した数少ない荷物の中にあった。僕があげた他のものは、残っていなかったのに、これだけはなぜか残っていた。シュルマが日記を探したときに見つけてイェッドに託していたらしい。すぐに僕の贈り物だと分かった彼女は、僕には言い出せなかったそうで。
二つ並ぶ赤と緑の耳飾りの一つだけを僕は受け取り、残りはルキアへと残した。
あのとき、僕は彼女に僕の印を付けた。時が経っても消えない印を。僕は次に会ったときに……彼女の耳を見ればいい。僕が彼女の心に残っていれば、彼女はきっと外さない。残してくれているだろうか。もしかしたら、別のものが収まっているかもしれない。たとえば――そうだ、僕がルキアにあげたのと同じような、赤い石の耳飾り。僕がスピカに僕の色を付けたのと同じように、アイツの色が。アイツの印が。スピカの上に。
そのことは考えないようにとしていた。けれど、レグルスの話を聞いた後から、不安は僕の中で徐々に大きくなっていった。そしてアウストラリスの乾いた空気はその不安を一気に膨らませた。
もうスピカがアイツの手の中に捕われて、ふた月近く経っている。彼女はレグルスの命と引き換えに城に留まり、その命を救うために彼に身を委ねている。以前僕の記憶を消す、そのためだけに僕と寝ようとしたのと全く同じ理由で、彼女は彼の腕の中に居る。おそらく少しの躊躇もせずに。彼女は、僕が彼女を捨てたと思っている。つまり、僕という束縛は、彼女の中にはもう無いのだから。
国境を閉じさせた理由は三つだった。僕が追えないようにするためだけでなく、ジョイアの国力を削ぐためだけでなく――スピカに僕を諦めさせるため。彼女の心に僕が住み着いているのは、邪魔だったんだろう。普通に待っていては、いつまでも彼女の心は手に入らない。彼の目にもそのくらいに僕たちが愛し合っているのは分かったはずだった。だからこそ、ここまで念入りに手を回した。
レグルスは、スピカが僕以外を受け入れないと、そう言ったけれど、アイツはそれを分かっているからこそ、こういう手を打ったのだと思う。
――僕を追い出して出来た心の隙間に忍び込む。そしてアイツは僕に捨てられたという彼女の大きな傷口を、甘い言葉と抱擁で埋めたのだ。それは随分卑怯で――しかし、効果的な方法だと思った。スピカが落ちていたとしても仕方が無いくらいに。
――ふたつき――か。
それは短いようで、長い時間。男と女が近しく過ごせば、情が湧くほどには。現に、僕だってシュルマとの距離が随分近くなった気がしている。
そして、もともとスピカは、ルティにそこまでの悪感情を持っていなかった。彼女は人を嫌えない。それに、アイツは、――認めたくないけれど、男の僕の目から見ても、相当に魅力的だ。
彼女はもう、泣いていないかもしれない。彼の腕の中で何度も愛を囁かれて、僕を忘れさせられているかもしれなかった。
目を瞑ると瞼の裏ではスピカが目に涙を溜めたまま微笑んでいる。この顔は、あの夜の彼女の顔。一緒に花火を見た、あの時の顔。――ずっと彼女はこの泣き笑いの顔まま僕の瞳の中に住み着いていた。
スピカ。僕は君を捨てたりしてないんだ。遅くなったけれど、今から迎えにいくよ。だからお願いだ。それまで――待っていて。頼むから――アイツの腕の中では、あんな風に微笑んだりしないでくれ――
「――じ、皇子? 大丈夫ですか?」
イェッドの声ではっとする。馬車の揺れにうとうととしていた。「あぁ……」
思わず大きく息を吐く。まなうらにはスピカとルティの笑みの残像が残っていた。見たくもない最悪の結末。僕は彼女に別れを告げられ、そして僕のやって来た事は全て無駄となる。悪夢から引きずり上げられた事をただ感謝した。
――どうしたんだ、僕は。知っているはずだろう? この結末は、絶対に有り得ない。
会談を前に、神経が昂っているのかもしれない。そう思ってもう一度深呼吸をした。
「真っ青ですが、馬車に酔いましたか?」
イェッドが濡らした布を僕に手渡す。僕は受け取ると、こめかみの汗を拭いながら、首を振る。そして気持ちを入れ替えようと窓を開けた。
「ああ、ここって」
からりとした熱い風が汗を一瞬で乾かした。ジョイアとは違う、湿度の低い、埃っぽい風だった。窓から外を見ると、馬車の行く先で道が左右に大きく分かれている。
「西の道を行けば、ムフリッドですね」
その言葉に頷く。ジョイア国境とエラセドを結ぶ大きな街道の途中で、シトゥラのあるムフリッドへと続く道が西方に分かれている。この道は以前一度だけレグルスと通った事があった。あの時も、やっぱりスピカを連れ戻しに来ていた。
以前スピカとルティを追いかけたエラセドへの道は、ムフリッドからエラセドまで、砂漠を突き抜けた最短の道。今度は、別の道を行く。あの道は通らない。あの嫌な思い出の詰まった石造りの廃墟は砂漠の道の途中にあった。アウストラリス側がつけてくれた護衛が言うには、厳しい夏期の今、砂漠は土地の者でも無事に抜けられない事があると言う。不慣れな僕たちは迂回せざるを得なかった。
馬車の行く先は背の低い木々がまばらに生えるだけの灰色に痩せた土地だった。乾燥に強い根の太い草が微かに夏の原色を覗かせる。地平線には建物の姿は無い。水の無い土地には住処を構える事は出来ないのだ。
その寂しい光景に、北部が寂れているのはジョイアと同じだなと思う。どちらも北は険しい山脈とその先の海に閉ざされている。ジョイアにはまだ川と農地があるから良いけれど、アウストラリスにはそれが無い。北部でとれた鉱物は南に全て運ばれて、オルバースを通り、ミアー湖を超えて他国へ流れていく。その際の関税も、この国にとっては痛い問題なのだ。アウストラリスがオルバースが欲しい理由はよく分かった。
――オルバース。あの土地もあのままにはしておかない。父と話して、すぐに会議に移されたその案は、僕がジョイアに帰る頃には正式に通っている事だろう。貧しい北部を救い、オルバースの肥えた腹を削ぐ。それには僕がこれから頑張ることが前提となっているけれど。
失敗は許されない。背水の陣で挑む覚悟だった。
「それにしても……随分すんなりと通してもらったんだな」
「ええ」
「使者の名は僕の名で?」
「はい。この際堂々と乗り込んでいただこうと。その方が向こうも手を出し辛い。何かあれば、即、戦となります。あちらも今の時点ではそれを望んでいないでしょう」
「なるほど」
僕は次第に大きく迫る、白い剣のような建物をじっと見つめながら、イェッドの話を飲み込む。
あれは噂に聞くエラセドの王城だ。高くそびえる城の頂点は誇らしげに夏の青空を切り裂いていた。見る者を怯ませるその姿に、僕も例外無く圧倒されていた。
僕はようやくここまでやって来た。王都が近づくにつれ、街道はにぎやかになっていた。しかし、馬車を取り巻く空気が僕を拒絶しているのは分かる。
北部の国境を抜ける際も、アウストラリスの兵の目は冷たかった。もともとこちら側から言い出した国境の封鎖だったから、この和解への流れに、呆れのような雰囲気は感じ取れたものの、あからさまな敵意は感じなかった。しかし長い間の両国の確執は確実に人々の心にしこりを作っている。ジョイアの人間もアウストラリスの人間をどことなく苦手としているけれど、この国の人間は、苦手というよりはもっと悪意に近い感情をジョイアに向けているような気がした。向けられる視線は、王宮に近づくにつれ、より冷たく、鋭くなる。
間近に迫った王城の門を前に、僕はうっすらと寒気を感じて、イェッドに目線を送る。ここを抜ければ、決戦が始まる。イェッドが微かに開いていた窓を閉じると、僕は目を瞑り、かすかに震える手を握りしめた。
アウストラリスへと飛ばした和解の申し出には、すぐに返答が来た。
『水の都の委譲と光の手の返還を』と。
かの国が出した条件は僕の予想通り。オルバースをアウストラリスに委譲する事と、――僕が妃としているスピカと離縁する事。返還――つまり、あちらの言い分としては、彼女はアウストラリスの財産であり、もともとはジョイアにあるはずの無いものだという事なのだ。奪われた宝は返してもらう、そういうことらしかった。
やはり、この国にとって、人は資源と同じなのだ。国のために人がある。人のために国があるジョイアとは考え方がまるで違った。相反する気質。僕はそれでも分かってもらわなければならない。この国の人間と歩み寄らなければならない。奪い合うのではなく、もっと別の方法があると。
*
重い音を立てて広間の扉が開かれる。僕は一歩部屋に足を進めた。イェッドが後ろに続く。
「シリウス皇太子殿下、ようこそアウストラリスへいらっしゃいました。我が国はあなたのご訪問を心から歓迎いたします」
僕は部屋の中央に構える円卓の向こうに佇む数名の人影を見つめると、目を見開いた。
なぜ。
理解すると同時に頭に血が上る。――なぜ、だ。
半ば呆然とした状態のまま、会談は進む。
見た事も無い、名も聞いた事の無い一人の文官が、一つ一つ、丁寧に条件を詰めていく。彼はまずはオルバースの利権問題から口にした。
しっかりしないと。そう思ったはずなのに、それ以降、彼の口から出て来る言葉が頭に入って来ない。
完全に出ばなをくじかれていた。――つまり、僕相手に、王や王子は出て来ないという事。僕が求めているものは全て拒絶されていた。
――これは一体何の茶番だ
想像していた会談とは全く温度が異なった。穏やかな空気の中、途中からは酒や料理まで運ばれて来て、まったく和やかに会談は進む。――肝心な議題に触れる事も無く。
目の前に北の海で穫れたものなのか、美しい貝殻に包まれた貝の料理が置かれる。香り豊かな酒が硝子で出来た杯になみなみと注がれる。口から臓腑が飛び出しそうだった。
その議題は話題の端にも上らない。それはそうだ。彼女は表向き『アウストラリスに居ない事になっている』。――スピカがこの国に居る事を僕の口から公言するわけにはいかないのに。スピカを返せと、そう口に出来るのは、アイツの前だけだというのに。
これでは、僕はせっかく持っている切り札の出しようが無い。まず、ここにはそれを出せる相手がいないのだから。
アイツが、こんな風に計ったのだろうか。
返事に『光の手』と、分かる人間にしか分からないように書かれていた事を思い出す。その意図は、こういう理由だったのか?
僕から逃げた? それとも最初から相手にしていない? 確かに、この方法も有り得た。だけど、まさかこう来るとは思わなかった。これだけは、無いと思っていたのに。ここまで卑怯なヤツだとは思っていなかったのに。
――僕は、アイツと直接戦う事も無く、スピカを――何もかもを諦めなければならないのか?
「皇子!」
イェッドの微かな叫び声にはっとする。僕はいつの間にか、手にした貝の殻を握りしめていたらしい。右腕を生温い液体が腕を伝ったかと思うと、テーブルのクロスの上に赤い染みが広がる。給仕をしていた女の悲鳴が上がる。
「――あ」
「大変!」
耳になぜか聞き覚えのあるような甘く柔らかい声と軽い足音が響き、白い手が僕の手を掴んだかと思うと、さっと手のひらに布が巻かれる。鋭い痛みに目眩がした。そして痛みに触発されて、怒りが沸き上がる。悔しさのあまり泣きそうになり、とっさに俯く。
これは――酷過ぎる。やり口が、あまりにも。――――馬鹿にするな!!!!
「落ち着かれて下さいませ。血が止まりません」
囁くようなその声に我に返ると、目の前の女性――侍女だろうか――が僕を真剣な目で見つめている。顔の大部分を布で覆っているので、顔立ちは分からないが――何か妙な既視感を感じた。
「申し訳ありません。お怒りはごもっともです。あなたを、ジョイアを――軽く見ている訳ではないのです」
「――え?」
彼女は「しっ」と一瞬だけ指を口に当てると、僕の右手の止血を続ける。「お話しできる機会をうかがっていました。――見張られています。今はどうかこのままに」
僕は微かに頷くと、包帯を手にするイェッドを振り返り、目で合図をした。
「どこか別室へ。治療を行います」
イェッドが申し出て、僕は女性に手を押さえられたまま、隣室へと移動した。移動中、彼女は喧騒に紛れて僕に囁く。僕は傷を気にする振りをしつつ、耳をそばだてる。
「王は名代にルティリクスを指名されたのですが、あの子は今北部に居ます。急な事で、間に合わなかったのです。しかし、もうすぐ戻ります。それまでの間とご辛抱いただけるでしょうか」
「名代? ルティ、リクス……?」
――なんだ? その言葉に強烈な違和感を感じる。ルティリクス? ――あの子?
女性は小さく頷くと、さらに声をひそめた。
「……あなたさまのお妃、スピカ様も今は北部に」
「え――スピカ? 北部って……つまり、シトゥラ?」
どういうこと? この人は……僕に何を教えてくれようとしているんだ? そしてこの人は一体――
「はい。時間がありません。夫も息子も居ない今のうちに、あなたにお願いしたい事がございます」
僕だけに聞こえるくらいの声が囁いた。
「夫も息子も――――って、え?」
驚いて顔を上げると、大人びた光をたたえたスピカと同じ形の目が僕を見て微笑む。
「急ぐ必要があります。――スピカ様のためにも」
隣室に入ると、後ろで扉が閉まる。騒ぎから急に切り離され、僕たちを包んでいた音がなくなる。部屋には僕とイェッドとその女性が残った。
部屋は北側なのだろうか。硝子で出来た窓にも夏の日差しが届いていなかった。微かに湿った冷たい空気が体にまとわりつく。
イェッドが荷物の中からごそごそと道具を取り出したかと思うと、酒瓶を傾け、中身を僕の手に振りかける。
「ぐ――――っ!?」
容赦ない熱が傷口を焼く。い、痛い!
イェッドは苦痛を訴える僕に構わず、念入りに消毒を続けた。
「気持ちは分かりますが……もうちょっと御身を大切にして下さい。――しかし、まぁ、悪い事ばかりではないようですね」
僕は痛みに顔をしかめたまま、頷く。そして、手だけをイェッドに残して、女性に向き合った。
「まさかそちらから接触していただけるとは思いもしませんでした。――シャウラ王妃」
この人は――アウストラリスの現王妃。そしてルティの母。
「初めてお目にかかりますわね。シリウス様。お会いできて光栄です」
彼女は顔を覆うベールをそのままに、にっこりと笑う。形の良い茶色の目が緩むのを見て僕は思わず息を呑んだ。
――あぁ、似てる。色は違うけれど、すごく似てる。耳にはしていたけれど、ここまでとは思わなかった。な、なんていうか、スピカの優しくて柔らかい部分をまとめたような、そんな感じ。
呆然と彼女に見入っていると、彼女は困ったように顔を伏せる。そんなところまでそっくりで――
「そんな目でご覧にならないで下さいな。穴があいてしまいます」
「皇子、失礼ですよ」
「あ、あぁ……」
イェッドが傷口を縛って、僕はようやく我に返る。そ、そうだ、見とれている場合じゃない。この人と話が出来るのは、おそらくごく僅かな時間だけ。
彼女は、僕が立ち直るのを見て、その顔から笑みを消す。
「息子がやったこと――許してもらえるような事ではございません。あなたの何よりも大事なものを――本当に申し訳ないと思っております」
「……あなたは、どういうおつもりなのです」
僕は謝罪を受け取らずに問う。彼女はその目に力を込めて僕を見つめた。
「私には力がありません。しかし、私はルティリクスとスピカ――あえてスピカと呼ばせていただきますわね――彼らの結婚は許せない。もう母が何と言おうと、これだけは。ゆがみを元に戻さねば、国が破滅に追い込まれてしまいます。あなたが使者としていらっしゃる事を耳にして――もう、あなたにお縋りするしかないと。どうして手放してしまわれたのですか。本当に、どうして。スピカがジョイアに居ることで安心していたというのに……」
彼女は早口でまくしたてた。なぜか酷く焦っている。言葉の勢いが削がれるのを待ち、僕は逆に尋ねる。
「どうして、あなたが許せないのですか」
「――それは……」
王妃はとたん黙り込む。言えない理由。僕はおそらくそれを知っていた。
「その理由はラサラス王に言えないのですね? だからこそ、僕に頼るしかない。――あなたは、いえ、シトゥラは、長い間、王を裏切り続けて来た」
王妃の体に震えが走る。彼女は怯えるように周りを見回し、イェッドを気にする。僕が「彼は信用できます」と言うと、彼女は固まった唇を再び開いた。
「あなたは――知っていらっしゃるのですか?」
僕は彼女の目を見たまま、頷いた。そして切り札をちらりと覗かせる。
「『ラナ』のお産に立ち会った産婆に会いました。そしてラナの過去を聞きました。僕には彼女が産んだのが『誰』の子なのか、見当がついています」
「……ああ」
王妃は項垂れる。長い間隠し通して来たその秘密。それは相当に彼女を苦しめたはずだった。彼女が王を愛していたのならば、なおさらに。
「あなたは先ほどゆがみを元に戻すとおっしゃった。それには――すべてを明らかにするしか無いのではないでしょうか。こうしてあなたに話を聞く事が出来たのは幸運です。僕は、この事はあなたの母上――カーラ殿に聞くしかないと思っていました。そして彼女はきっとそう簡単には口を割らない」
メイサの出生のことを考えると、きっとカーラは今回の事にもまったく抵抗が無いはず。だからこそ積極的ともいえる態度なのだ。そして、僕は、このシャウラ王妃はさらに殻が固いとそう思っていた。今の今まで無関心と沈黙を保っていたのだから、今回も流れに身を任せ、保身に走ると。
――それは誤解だった。多分、この人はとても弱いだけなのだ。そして、結婚を止めたいと言う今の彼女は、僕や父と同じ。それならば――
「しかし、あなたは違う。――『子』が可愛いのでしょう? 愛しているのですね?」
僕の言葉に、彼女は瞠目した。おそらく僕みたいな『子供』に理解してもらえるとは思えなかったのだろう。
「どうしてあなたはそこまで……。――その通りです。私は、弱かった。大きな流れに逆らえず、あの子の前で泣いてばかり居た。愛しているからこそ、あの子を見ているのが辛かった。あの子の向けてくる愛情を受け止めるのが辛かったのです。今さらなんだと思われるかもしれません。でも私は、――あの子が壊れてしまうのは、嫌なのです。私は、今まであの子に何一つしてやれなかった。あの子は誰にも頼らずに何でも自分で手に入れようとしてしまうから。頑張りすぎて、壊れそうになっても、それでもまだ歯を食いしばって堪えている。そうして必死で手にしたものが何かを知ったら――きっとあの子は壊れてしまう。私は――それだけは嫌なのです」
王妃はいつしかその大きな茶色の瞳から、はらはらと涙を零していた。
「分かります」
僕はルキアを思い浮かべながら、頷く。
この人は――今、必死で母親になろうとしている。痛いほどに、その気持ちがわかった。
「どうか――スピカをジョイアへお連れ下さい。力の無い私にはこれ以上あの子を止める事が出来ません。どうか――」
僕は頷く。願っても無い事だった。突破口を見つけて少しだけほっとしていると、「急がなければなりません」と彼女がもう一度真剣な顔で口を開く。
「ええ」
僕は、頷きつつも不思議に思う。とりあえずはスピカとルティの結婚が止められれば良いと、それだけしか考えていなかったから。そして、それは、王妃の言葉を借りればすぐにでもうまく行きそうな気がしていた。
ちょうどその時、僕たちの様子を伺うように扉が叩かれて、部屋の空気が変わる。時間切れか。
それまで黙って聞いていたイェッドが不意に鋭い声で尋ねる。
「そういえば――――なぜ国王陛下は会談にご出席なさらなかったのですか?」
確かに疑問だった。だけど今、それを問うのか? そう思った直後、何かが頭の中ではじける感覚があった。
まさか。
裏付けるように王妃が恐ろしい言葉を紡ぎだす。
「スピカは、ラナに似すぎています。外見だけではなく――内に秘める苛烈さが」
そうか、王妃には、あの激しさが無いのだ。確かに、スピカと王妃は似ていたけれど、色だけでなく、歳だけでなく、何かもっと強烈に違うものがあると感じていた。言われて気が付く。そしてある可能性にようやく辿り着いて、戦慄した。
――過去にとらわれたままの王が、最愛の女性の娘を前に、何を望むか――
僕が気をつけなければいけないのは、ルティだけではなかった。
扉が遠慮がちに開かれる。侍従が心配そうな顔をのぞかせる。隙間から午後を示す目を焼くほどの鋭い光が差し込み、僕と王妃の間に白い線を引いた。広間の喧騒が部屋に舞い込み、静寂は破られる。
王妃の囁き声が、残された僅かな時間を埋める。
「王は――スピカをお求めになられています。あなたのご訪問を餌にルティリクスを呼び寄せられて、ご自分は今朝、シトゥラへ向かわれました」